お茶の文化史
日本には製法の違いによって、玉露、抹茶、煎茶、番茶、ほうじ茶、粉茶、茎茶、玄米茶などいろいな種類のお茶がある。地方にも独自のお茶がある。冨山のバタバタ茶、出雲(島根県)のボテボテ茶、愛媛のボテ茶、沖縄のブクブク茶。このほかにも、いわゆるお茶ではないが、茶の代用として波布茶、クニ茶、マテ茶、甘茶、麦茶などがある。カワラケツメイ(河原決明、エビスグサの類)を原料として、茎葉を干してきざんで、合歓茶、豆茶、浜茶、弘法茶などのお茶があり、利尿剤としても用いられている。このほかアマチャヅル茶、カリン茶、ビワ茶、柿の葉茶など特種なお茶もある。
茶は雲南省に近いインドのアッサム地方が原産地といわれ、古代に四川に伝わり、揚子江流域にひろがり、2・3世紀ごろからすでに飲まれていたというが、主として医薬として用いられ、3世紀には「茶」という字はなかった。三国時代以降、仏教ことに禅宗と結びついて、座禅の眠気ざましから喫茶が流行した。
中国から日本にもたらされた茶は、栄西が「喫茶養生記」で茶の効能を説いたように、当初は寺院での修行や薬用として飲用されていた。やがて各地で栽培が広がるが、宇治の茶師は、幕府の許可を得て高品質の碾茶の製造を独占していた。富裕層が好んだ抹茶とは違い、庶民は色が赤黒く味も粗末な「煎じ茶」を飲んでいた。そのな中、永谷宗円(1681-1718)は15年の歳月をかけて製造法を研究し、青製煎茶製法を考案した。宗円は完成した茶を携えて江戸に赴き、茶商の山本嘉兵衛に販売を託したところ、たちまち評判となり、以後「宇治の煎茶」は日本を代表する茶となった。煎茶中興の祖といわれるのが、新たな茶禅一味の境地を開いた売茶翁こと高遊外(1675-1763)。「清風瑣言」という煎茶書を他に送り、文人と煎茶の関係を深めるうえで大きな貢献を果たした上田秋成。化成期以後は、とりわけ京洛の文人墨客を中心に、広範な流行をみ、煎茶は多才な芸術家たちの交遊には欠かせないものになっていた。頼山陽、田能村竹田、青木木米、僧雲華、浦上春琴といった多士済済の顔ぶれが、江戸時代後期の文化史に独特の色彩を添えている。
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