マレーに消えた高丘親王
日本史に現われた旅行家・冒険家といえば、先ず最初に見えるのは垂仁天皇の勅を奉じて常世の国に旅した田島間守であろうか。しかし記紀にあるが、とうてい史実とはいえまい。確かな記録に残るものでは、薬子の変で、皇太子を廃されて、仏籍に入った高丘(たかおか)親王(799-865)が中国以遠におもむいた日本人として、史上知られる最初の人物かもしれない。
桓武天皇の孫、平城天皇の子(第3皇子)である。のち空海の弟子となったので真如(しんにょ)親王ともいう。60歳をすぎた861年、真言の宗義を深く学ぶため入唐するが、当時仏教は衰微していたため、インドに赴こうとした。その先は行方不明となったが、881年に中瓘の報告によれば、親王は旅行の途中、羅越国にいって死んだことがわかった。羅越国(シンガポール付近)の位置は、マライ半島の南端でスマトラ島のパレンバンの対岸あたりと学者は推定している。(参考:杉本直治郎「真如親王伝研究})
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