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2017年4月 7日 (金)

道鏡と宇佐八幡神託事件

    772年のこの日、道鏡が下野・薬師寺別当の配流先で没した。道鏡「続日本紀」では俗姓弓削氏。河内国志紀郡弓削に生まれる。生年は明らかでなく、義淵(?-728)の弟子で孝謙天皇(718-770)より年長らしいとの推定から8世紀初頭の生まれといわれる。出家後葛城山に籠り梵学と如意輪・宿曜(すくよう)の秘法を修得。下山、東大寺に入り、761年近江保良山宮に孝謙天皇を看病し、忽ちに寵愛を受け、763年少僧都に昇進。藤原仲麻呂失脚後、大臣禅師・太政大臣禅師を経て、766年、法王となる。この時、称徳(孝謙重祚)天皇には皇太子未定で、女帝は仏教政治の理想を持っていたので、太宰の長官中臣阿曽麻呂は道鏡に媚び、宇佐八幡の神託と称して、「道鏡を天位に即かしめば天下太平ならん」とした。これまで臣下が即位した例はなく、さすがの天皇も悩み、和気清麻呂(733-799)を宇佐八幡につかわした。和気清麻呂は「無道の人を除くべし」という神託を奏上し道鏡の怒りをかい、名を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)とかえられて大隅国(薩摩)へ配流された。これが宇佐八幡神託事件である。

   八幡の宣託を奏上した中臣習宜(すげ)朝臣阿曽麻呂とは、どんな人物であるか。天平神護2年6月に正6位上から従5位下にのぼり、神護景雲元年9月豊前介に任ぜられ、おそらく翌2年中から3年の初めにかけての間に、太宰主神(だざいのかんつかき)となって、道鏡の弟である太宰帥弓削浄人(きよひと)の配下に属することとなった。道鏡の勢力が九州にも及んでいたことがわかる。

   参議藤原百川(732-779)は清麻呂に同情し、兄の参議良継、従兄の左大臣永手らと相談して、天智天皇の孫である白壁王を迎えて位に即かせた。光仁天皇である。

   称徳天皇は770年、由義宮に滞在中に没した。8月21日、道鏡は失脚し、下野国薬師寺別当となり、772年4月7日、その地で死んだ。

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