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2017年3月19日 (日)

古代人と文様

6921538336347ee6b144fed4b3f9783e   日本の先史時代や古代には多数の素晴らしい土器や青銅器が作られていた。そして今日、われわれはこれらの作品を美術館や博物館で鑑賞できる。しかしながら、これらの作品は本来、美術品として作られたものではない。容器や煮沸用として日常生活で使用されるものであったり、または銅鐸のように、広い意味で宗教目的のために作られたものである。

   古代の器物をみると、たいがい文様がほどこされている。文様はあってもなくても、用具としてはつかえるので、なぜ器物に装飾をするのであろうか。中国の青銅器や日本の縄文土器のように、文様の上に文様を重ねて、いわば文様過多の状態をみせているものも多くみられる。人間はひとたび文様を知ると、文様のない空白に不安や恐怖を覚えるといわれる。これを空白の恐怖(horror vacui)という。空白を嫌う人間の心理は、器物に文様をつけるという激しい表現意欲へと発展していく。近年の考古学研究の成果によると、縄文文化は中国の長江文明(良渚文化)の影響を受けているといわれる(安田喜憲の説)。

   古代の文様をタイプによって分類すると、幾何学的なものと、様式化または便化されたものと、動植物や人体にモティーフを求めた自然主義的なものとが見いだされる。この三つのタイプのいずれが、文様の最初の起源であるかということは、にわかに断定できない。縄文中期の土器「顔面把手付深鉢」(山梨県須玉町津金御所前遺跡)にみえる、土器本体に描かれた文様は、今まさに子供が生まれ出る瞬間を表現した人体のような文様と人面文様が描かれている。

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