金富良(コンプラ)醤油瓶
日本でいつ頃から醤油が食されるようになったかと言うと、醤油のルーツ「醤」(ししびしお)のたぐいが、縄文時代末頃からあったといわれ、縄文時代の遺跡からは、熟鮨(魚醤)の原型と思われるものが出土している。本格的に醤(ひしお)が作られるようになったのは、中国や朝鮮半島から製法が伝えられた大和朝廷時代の頃である。奈良時代に醤(ひしお)が生産されるが、これは調味料というよりは、そのまま、おかずとして「なめもの」の一種として食されていた。調味料として醤油が文献に現れるようになるのは室町時代である。
江戸時代1650年頃から、欧州に向けて長崎の出島からオランダ商人らによって醤油を波佐見焼の瓶に詰め、金富良(コンプラ)醤油の名で輸出されていた。宮廷や王室専用の調味料として貴重品に扱われ、フランスのルイ14世が宮廷料理に、肉料理の隠し味に醤油が用いられた。ディドロの「百科全書」(1772)にも醤油が記述されている。コンプラ醤油は底径7㎝、高さ15㎝、540mlで、JAPANSCHZOYA(ヤパンセ・ソヤ)と書かれている。オランダ人の耳には「しょうゆ」の音が、ソヤとかゾヤ(ZOYA)と聞こえたらしく、現在のオランダ・ハーグ文書館に残された日蘭貿易記録にも、醤油のことが記録されている。日本の醤油はオランダばかりでなく、幕末の頃、長崎に寄港していたロシアの船によって母国に持ち帰られていたらしく、明治39年、トルストイを訪問した徳富蘆花が、机の上に金富良醤油瓶に花が差してあるのを見た。トルストイがいつもこの瓶を一輪差しとして愛用していたことを知って、蘆花はいたく感激したものである。(Tolstoi,Diderot)
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