乃木希典、連隊旗喪失事件
乃木希典(1849-1912)は、明治9年、前原一誠の乱を鎮定、10年西南戦争には小倉駐屯の熊本鎮台歩兵第14連隊連隊長として熊本に進軍する。2月22日、南関・高瀬を経て向坂(熊本県植木町)で薩軍の村田三介が率いる五番大隊と遭遇する。近代的で優秀な火器を持つ乃木隊が一時優勢だったが、追いついた薩軍の伊東直ニの部隊と合流し、抜刀突撃を受けて敗れ木葉(玉名郡玉東町)に撤退した。向坂の戦いで、旗手の河原林雄太(かはらばやしゆうた)少尉の戦死により、連隊旗は薩軍に奪われた。一説によると、軍隊旗を奪ったのは伊東隊配下の下級指揮官・岩切正九郎が河原林少尉を斬り軍旗を奪い、五番隊の村田三介に渡したという。村田三介は3月12日、山鹿鍋田の戦闘で戦死している。分捕った軍旗はその後、薩軍の桂久武(1830-1878)が谷干城の立て籠もる熊本城に見せたのち、弓で降伏を勧める矢文を射たという。これが日本の戦争で弓が使用された最後だといわれる。
この旗は桂の判断で、村田三介の夫人の村田佐和子に遺品とともに形見として贈られた。夫人は肌に巻きつけたり、ふとんの中に縫い込んだりして隠して所持していたが、それでも不安なので実家の庭の小さな屋敷神の壷の中に隠していた。
この軍旗は、薩軍によって熊本城北面の花崗岩に翻され、城兵を嘲弄する種にされた。軍旗を失った乃木はひたすら奪還しようとするが、部下の諌められて取り戻すことができなかった。連隊旗喪失の待罪書を提出し処断を乞うたが許されず、その後、乃木は「死」を願ったという。明治10年9月24日には城山は陥落した。
歩兵第14連隊に天皇の特旨をもって軍旗が再下賜されたのは、明治11年正月のことであった。その後、鹿児島警察の赤木良彦のもとに奪われた軍旗が村田三介の未亡人が所持しているという折田三之助からの有力情報を入手した。尋問したところ、はじめ佐和子は抵抗したが「子供を殺す」と脅かすと白状した。明治11年1月24日のことであった。村田佐和子のその後の詳しいことは福岡で暮らしたということ以外は判らない。密告者の折田三之助、警察の赤木良彦についてもその後の詳しいことは判らない。
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