小林多喜二をめぐる女性
多喜二忌。小林多喜二をめぐる女性といえば、小樽時代の田口タキ(1907-2009)が知られているが、東京でのわずか2年間の地下活動を支えた伊藤ふじ子についてはわからないことが多い。しかし、二人は実際に結婚し、昭和7年夏には母親を郷里から呼び寄せてしばらくいっしょに暮らしていたらしい。
小林多喜二は高等学校時代から志賀直哉を尊敬していた。死ぬ2年ほど前に、志賀を奈良に訪ねたことがある。志賀は将棋か麻雀でもしよう、と言うと、小林はやれないと答えるので、ふたりはちょうど桜の咲いているあやめが池の遊園地へ子どもづれで散歩にいった。そのとき、小林はみちみち拷問の話をしたという。それまでも二人に文通はあったが、小林が志賀に会ったのはその一度だけだった。それが昭和7年の4月のことである。帰京後、小林は宮本顕治らと地下活動にうつり、文化・文学運動の再建に献身する。そのころ、伊藤ふじ子と結婚し、麻布東町(:現・南麻布1丁目)に住む。ふじ子は、銀座の文戦劇場の女優として何度か舞台に立っていたらしく、左翼運動に関心もあり、多喜二の地下活動を支えていた。伊藤ふじ子は銀座の図案社に勤め、刺繍の勉強をしていたが、10月に勤め先で検挙され、多喜二は隠れ家を飛び出して二人は二度と会うことは無かった。昭和8年1月10日、ふじ子は逮捕されたが、2週間で釈放された。ふじ子は会社を解雇されたが、解雇手当を人づてに多喜二に送り届けた。小林多喜二は昭和8年2月20日、正午すぎ築地警察特高課員により逮捕され、同署で警視庁特高中川、山口、須田の拷問により午後7時45分死亡。多喜二のお通夜、伊藤ふじ子は遺体にとりつき、顔を両手ではさんで泣きながら多喜二に接吻したという。伊藤ふじ子は、その後、森熊猛という政治漫画家と結婚。森熊ふじ子という名で生涯を終えている。
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多喜二とふじ子のドキュメント小説まいてみたいと思ってます。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013年2月20日 (水) 00時38分