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2017年2月19日 (日)

熊本城天守閣炎上の謎

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 熊本城激戦図錦絵(部分)

    天下の三名城の一つにうたわれた熊本城は加藤清正の築城、慶長12年(1607年)以来270年、戦場となることは一度もなかった。ところが日本最後の内戦である西南戦争において、熊本鎮台が薩摩軍の精鋭を迎え撃つ壮絶な攻防戦が明治10年2月22日から繰り広げられた。

   薩摩軍四番大隊長・桐野利秋(1838-1877)は手にした杖のかわりの竹をひと振りし、「熊本城は、これをひと振りすれば一気にも陥ちもす」と豪語した。桐野利秋、池上四郎らは正面軍を指揮して攻撃したが、熊本城の守りは固かった。熊本鎮台司令長官・谷干城(1837-1911)は樺山資紀を参謀として鎮台をよくまとめ、薩軍と交戦し、籠城すること50余日が過ぎても陥落することはなかった。

   この西南戦争熊本城攻防戦での最大の謎は天守閣の炎上であろう。話はさかのぼるが、いよいよ薩摩軍総攻撃の3日前、すなわち明治10年2月19日、午前11時40分、本丸二の天守付近から原因不明の出火により天守閣と本丸御殿一帯は全焼した。出火原因としては①台所からの失火説、②薩軍の放火説、③鎮台自ら火をつけたとする自焼説、がある。食糧として蓄えられていた米1251表が焼け跡から出てこなかったことなどから、③の自焼説が有力である。つまり、熊本鎮台司令長官・谷干城が児玉源太郎(1852-1906)に命じて放火させたともいわれている。現在の天守閣が復元されたのは昭和35年のことであった。平成28年の地震により、熊本城は甚大な被害を受け、その復旧・復元には20年以上の長い年月がかかるといわれている。

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コメント

熊本城炎上の原因はケペル先生が推測されているとおり、③自焼説が正しいことです。私の先祖は新町でこの大火災を体験していました。
皆さんご存知の通り、薩摩軍が熊本城を占拠した場合は、難攻不落の城なので、薩摩軍を壊滅する時間が掛かることになる。
それと、あまり知られてはいないことでは城下町である新町は、町民の町で豊でした。ある日新町に台司令の者から、後日新町に火を放つので、避難する準備をするよう命じられました。新町の者は持ち出せる物は持ち出し、持ち出しが不可能な物は、大富豪の蔵の中に預かってもらうことにしました。大富豪の蔵の壁は厚く通常の火災では、収納物は守らっると考えれれていたからです。台司令が町人街まで燃やした理由は、薩摩軍が熊本を占領した場合の資金源を断つことが目的でした。
熊本の火災の結果は、皆様ご存知の通りに壊滅的なものでした。燃え落ちないと思われていた蔵も全て燃え落ちてしまいました。
しかし、前もっての放火の知らせがあったので、新町の人々は焼け死ななくてすみました。

未だに「公的機関の発表は殆ど「熊本城の火災は不審火が原因」と曖昧に解説されていますが、そろそろ本当のことを公表するべきではないでしょうか。
この時代は「勝てば官軍」何でもありでした。
後世には真実を伝える必要があると考えます。
今後間違いを起こさないために。

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