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2017年1月26日 (木)

ゴードン将軍とマフディー

431pxcggordon  エジプト(ムハンマド・アリー朝)の支配下におかれたスーダンでは、ムハンマド・アフマド(1844-1885)がジハードをくりひろげた。これを一般的には「マフディーの乱」(1881-1898)というが、明らかに自由を求める抵抗運動であり「マフディー運動」あるいは「マフディー戦争」というべきであろう。19世紀スーダンにおけるイスラム原理主義によるマフディー運動の正統性を世界史で学習する意義は今日の中東情勢を考えるうえで重要性を持っている。近年、大学入試問題でも「マフデーの乱」あるいは「マハディーの乱」は出題頻度が高いらしい。

   マフディーは船大工の子として生まれ、1881年アバ島でマフディー(救世主)であることを宣言し、重税に苦しむ貧農や牧畜民、あるいは地元商人などを組織して反乱を起こし、イギリスの命令によってエジプト提督が送り込んだ軍を完全に撃破した。イギリスの威信を傷つけられたために、ヴィクトリア女王を初めとして本国の世論は怒り狂った。1884年1月、グラッドストーンは事態を掌握するため戦闘的なゴードン将軍(1833-1885)を現地ハルトゥームへ送ることになった。チャールズ・ジョージ・ゴードン(画像)は1863年の太平天国の鎮圧に活躍し、常勝軍の指揮者として知られ「チャイニーズ・ゴードン」と呼ばれるようになった英雄である。

   ゴードンはハルトゥームに着くや、スーダンから出るナイルの航路を守るために軍隊を要求してきた。グラッドストーンはためらった。彼は植民地主義的介入になることを恐れ、マフディーへの攻撃は「自由を求める人民に敵対する戦争」になるだろうと下院に警告した。だが、結局グラッドストーンは折れ、1884年10月に、ウルズリー卿の指導下カイロからナイル川をさかのぼるべく準備を整えた1万人の救援部隊に30万ポンドの資金が交付された。

   しかし到着は遅すぎた。部隊が川を160kmさかのぼるのに3ヶ月を要し、先発隊がハルトゥームに到着したとき、町は2日前にマフディーに攻略されたとのニュースが待っていたのである。ゴードンは1月26日にすでに殺されており、切り落とされた彼の首はマフディーが持ち去っていたのである。太平天国鎮圧の英雄「ゴードン死す」の知らせはイギリスを震撼させた。国民のなかで異常なまでの興奮の波がわき起こり、グラッドストーンはさんざん非難された。ダウニング街を埋めた群集はもはや彼をGOM(グランド・オールドマン:大御所)とは呼ばす、MOG(マーダラー・オブ・ゴードン:ゴードンを殺した男)とやじった。ヴィクトリア女王は救援隊の派遣が遅れたことを非難する電報をグラッドストーンに送りつけたが、首相に対する女王の立腹が係官にもわかるよう、電報に暗号を使うなと命じたほどである。アフマドは1885年に死んだが、その権威による教団国家は維持された。フランスのアフリカ横断政策を恐れるイギリスは、再度制圧に乗りだし、1898年、キッチナー将軍率いるイギリス軍はマフディー軍を破り、スーダンを支配下におさめた。1899年からスーダンはエジプトとイギリスによる共同統治に置かれた。

   映画「カーツーム」(1966年)ではゴードン将軍をチャールトン・ヘストン、ムハンマド・アフマドをローレンス・オリビエが演じている。豪華スター出演のわりには、あまり評判はよくない。昔、TVで見たように思うのだが筋に記憶がない。おそらく歴史的背景を理解していなかったからだろう。機会があれば見たい作品である。(Charles George Gordon,Algeria,In Amenas)

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