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2017年1月24日 (火)

フリードリヒ大王生誕日

2011817102134641  フリードリヒ2世は1712年1月24日、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と王妃ゾフィー・ドロテーアの子として生まれた。ドイツは近世になっても中央集権が完成せず、オーストリア大公が皇帝として選出されて、ハプスブルク家が支配していた。しかし、18世紀になると、プロシアのホーエンツォルレン家が強力になり、ブルボン・ハプスブルク家に対立していく。プロシアのフリードリヒ大王(1740-86)とオーストラリアのマリア・テレジア(1740-80)は即位の年も同じで40年もの間、宿敵のライバルとなる。

    オーストラリア継承戦争(1740-1748)は、オーストリア皇帝が男子がなくて没したため、相続権を主張するバヴァリア侯、ハプスブルク家の打倒をめざすフランス、亜麻工業の中心地であるシレジアの領有を望むプロシアは同盟を結んで、オーストリアに侵入した。フランスと植民地を争っていたイギリスと、プロシアの強大を恐れるロシアは、共にマリア・テレジアを助け、8年にわたる大戦となったが、アーヘン条約(1748)によって、列国はマリア・テレジアの帝位継承を認め、プロシアはシレジアを得た。8年後、マリア・テレジアはシレジアを回復しようと、国力を養い、ロシア・フランス・スウェーデンを誘って、反プロシア同盟をつくった。これに対して、プロシアはイギリスと同盟を結んだ。いわゆる七年戦争(1756-63)は、プロシアが機先を制してザクセンに侵入、プラーグの戦でオーストラリア軍を破り、またプロイセンに侵入したロシア、フランス、スウェーデン、オーストラリア軍をロスバッハの戦、ロイテンの戦などで撃破した。その後、イギリスではピットが失脚したため、イギリスの援助を失ったプロシアは苦境に陥った。しかしロシアではピョートル3世(在位1761-62)が即位して、突然プロシアと和睦し、次いでイギリス・フランスも和を講じたため、マリア・テレジアもフベルツスブルク条約を結んで(1763)、ついにプロシアのシレジア領有が確認され、戦争は終結した。

   オーストラリアのハプスブルク家は、ドイツ皇帝としの勢力は失っていったが、一方その領地であるオーストラリアでは、漸次支配力をつよめ、18世紀後半マリア・テレジアとその子ヨーゼフ2世(在位1780-90)のときに、専制主義を確立した。しかしその支配地には異民族が多くて、封建的要素を多分に残したまま衰退していった。(FriedrichⅡ) 参考:「フリードリヒ大王 祖国と寛容」世界史リブレット人 屋敷二郎著 山川出版社 2016

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