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2017年1月25日 (水)

姫路城と池田輝政

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    元弘3年(1333年)、赤松則村(あかまつのりむら)が一時陣城を置き、正平元年(1346年)、赤松貞範(あかまつさだのり)が城郭を築いた。天正8年(1560年)、羽柴秀吉が修築、中国地方経略の居城として三層の天主を建てた。慶長5年(1600年)、池田輝政が入り、慶長13年頃まで大改築した。その後、豊臣秀頼の未亡人千姫と婚した本多忠刻(ほんだただとき)が父とともに入城、千姫のために西の丸を経営した。以後、親藩、譜代の10万石ないし15万石程度の要人が入り、明治維新に至った。

   城は山陽道に沿い播磨平野の中央にあり、高さ45メートルの丘を中心に渦巻状に2巻き、時計と反対の方向に巻いている縄張になっている丘上に本丸・二の丸・三の丸・西の丸をおいて内曲輪とし、その周囲の平地に中曲輪・外曲輪がある。内曲輪はほぼ円形の平面をなしており、堅固な石垣をめぐらしている。中曲輪はおおむね石垣と水濠、外曲輪は土塁と水濠で囲んでいる。天守は本丸の中央にあり、大天主のほかに三つの小天主を多門で連結した連結式天守閣で、五層六重穴倉一重で白壁総塗籠造(ぬりごめづくり)。初層の東側、二層の南・北側に軒唐破風(のきからはふう)をつけ、その下に出窓風な張出しを設けたこと、四、五層に軒唐破風を設けたことなどが特徴である。櫓は40棟、渡櫓18棟、多門40棟、長局8棟で、櫓の主なものには片仮名の「イロハ」で、門の主なものには平仮名の「いろは」で名付けられていた。内曲輪は大体保存され、中・外曲輪は破壊されて市街になった。

   池田輝政の法要が増位山随願寺で行われる。輝政は慶長18年1月25日、姫路城で急死する。享年50歳。豊臣秀吉の呪いとも噂される。

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