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2016年12月30日 (金)

勘太郎を殺した板割浅太郎

016    松竹キネマは新国劇「国定忠治」を題材に初のトーキー映画「浅太郎赤城の唄」を昭和9年に公開するや、映画主題歌である東海林太郎の「赤城の子守唄」が、流行歌の時代の到来を告げる大ヒットとなった。ただし新国劇では忠治の子分は定八や巌鉄だったが、脇役の板割浅太郎が、この映画では主役に昇格している。また、浅太郎に殺されたはずの勘太郎も生きて登場するし、浅太郎が勘太郎を背負って「赤城の子守唄」を歌って聞かせる場面がある。当時の人にとっては、かなり斬新な解釈の映画であり流行歌(作詞は佐藤惣之助という新感覚派の詩人)だったにちがいない。

   そもそも勘太郎の父というのは、博徒で目明しを兼ねた二足のわらじの男で中島勘助といい、浅太郎の叔父にあたる。浅太郎は勘助と内通していたと忠治に疑われ、その証のために勘助と勘太郎親子を斬るはめになる。伊勢崎市には勘助・勘太郎の墓がある。

   講釈師がいたいけな子供が犠牲になった事実をまげて語ったところ、大いに聴衆に受けたことが発端となり、その後「赤城の子守唄」の大ヒットで、浅太郎が勘太郎を背負って赤城山に登ることが定着する。東海林太郎の浅太郎、高峰秀子の勘太郎という芝居まで上演され大評判となった。

   浅太郎はその後、『赤城録』に「浅梟首」とあり、捕らえられて晒し首にされたとなっているが、浅太郎は逃亡の後、仏門に入り二人の菩提を弔いながらその生涯を終えたという説も有力である。神奈川県藤沢市の真徳寺に浅太郎の墓がある(画像)。明治26年12月30日没。享年74歳。(参考:川井正「勘太郎の頭蓋骨」歴史読本昭和59年1月号)

 

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コメント

「赤城の子守唄」は有名な歌ですね。『国境の町東海林太郎とその時代』(北方新社)でも詳細に記されています。著者は、藤山一郎、古賀政男論でおなじみの菊池清麿氏。

藤山一郎=リートのベルカントで日本語を明瞭に美しく。その前の二村定一はジャズを最初に歌い自己流で言葉をははっきりと歌った。後半年ハエノケンとの出会い・決裂・その後の結末はどうなったのか。『私の青空 二村定一 ジャズ・シングと軽喜劇黄金時代』(論創社)が刊行されるようです。

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