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2016年12月 9日 (金)

漱石と則天去私

Photo_2   夏目漱石は大正5年11月21日、築地の精養軒における辰野隆、江川久子(山田三良)の結婚披露式に出席した。翌日、机上の原稿紙に189と『明暗』の回数を書いたままうつぶせ、ひとり苦しんでいた。胃潰瘍の5度目の発作が起こった。真鍋嘉一郎が主治医となったが、11月28日、大内出血があり、12月9日午後6時50分、永眠。享年49歳。12日、青山斎場で葬儀が行われた。導師は釈宗演。戒名「文献院古道漱石居士」。狩野亨吉が友人代表として弔辞を読む。28日、雑司ヶ谷墓地に埋葬された。漱石の死は明治という時代が終わったという感がある。

   その最期は、物静かに「有難い」と一口云って息を引き取ったと伝えられる。(別冊太陽、夏目漱石)漱石の臨終記録は、このほかに、

いよいよ臨終となった時、寝間着の胸をはだけ、「ここに水をかけてくれ!死ぬと困るから…」と叫んで意識を失い、そのまま息を引き取っている。

   とある。「則天去私」の境地とは程遠いが、おそらくこちらが真実であろう。

  また漱石家もその頃、家族8人、鏡子夫人、長男純一(1907生)、長女筆子(1899生)、次女恒子(1901-1936)、三女栄子(1903生)、四女愛子(1905生)、次男伸六(1908生)が住んでいた。それに、小宮豊隆、阿部次郎、森田草平、内田百閒、赤木桁平、松根東洋城、野上豊一郎、鈴木三重吉、岩波茂雄、安倍能成などの木曜会のメンバーたちが臨終にいたであろう。(未確認)

つまり漱石の最期はかなり賑やかなものだったと想像される。

  漱石の脳がエタノールに漬けられた状態で、東京大学医学部で保管されている。その重さは1425グラムで、日本人の男子の平均より75グラム重く、天才的頭脳の型であった。

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Photo  道後温泉本館三階の一室「漱石の間」には「則天去私」の掛け軸がある。直筆ではなく平田抱山の書。そこには「小さな私を去って自然にゆだねて生きる」と簡潔な説明がある。弟子の小宮豊隆は「漱石先生は晩年に至って則天去私という悟りの境地に達しておられた」と書いている。東洋的な調和の境地はすでに初期の作品にもみれるが、漱石自身が晩年に至るまで「則天去私」という言葉を一度も書き残していないことから、ついに最後まで悟りの境地に達することができなかったのではないだろうか。つまり則天去私とは漱石の晩年の思想というより、悲願、こうありたい、という切実な求道であった。

 漱石揮毫の「則天去私」の四文字は最晩年に仙紙半紙より短い紙に、行書体で書かれたもの。日本文章学院編「文章日記」(大正5年)に初めて掲載されている。(参考:石崎等「漱石と則天去私」 跡見学園短期大学紀要 1978-03)

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コメント

夏目漱石の死は織田信長と同じ49年であったことは知っていたが、その臨終のさまは詳しくは知らなかったので、参考になりました。
ありがとうございます。

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