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2016年12月23日 (金)

アイルランガ王

  インドネシア古代の歴史は文献資料が少ないため詳しくわからないことが多い。シュリヴィジャヤは7世紀にスマトラ島に成立し、海上貿易によって繁栄し、10世紀に全盛期を迎えたが、王都(一説にパレンバン)の位置や王名表すらわからない。10世紀後半、ジャワ島にクディリ王朝が起こった。13世紀シンガサ王国、14世紀マジャパヒト王国と続く。クディリ朝のダルマヴァンシャ(在位985?~1006)は、シュリヴィジャヤ国から攻撃を受け、王都を占領されて死去した。女婿アイルランガ(当時16歳、在位1019-1042)は、一時中部ジャワのウェノギリに避難し、1019年に即位した。その間領土は分裂し、またシュリヴィジャヤ国の介入の危険が彼の意図を妨げたが、1022年ごろ実夫の跡をついでバリ島の王を兼ね、チョーラ王国のスマトラ遠征(1025年)によって、シュリヴィジャヤの圧迫が弱まった機会に、しだいに旧領を回復した。1030年ごろ、シュリヴィジャヤ王はついに王女を彼に与えてその実権を認め、彼は再び東部ジャワを手中におさめた。臣下ナロッタマは終始彼を補佐し、その海港スラバヤ、トゥバンはスマトラをしのいで貿易の中心となった。宮廷詩人カンワが作った「アルジュナ・ヴィヴァハ」(アルジュナの結婚)は、マハーバーラタを翻案して、アイルランガとスマトラ王女との結婚をうたったジャワ最初の叙事詩である。彼は死去の数年前に退位し、領土は2人の王子に分割され、パンジャール(またはクディリ)およびジャンガラとよばれた。なおAirlanggaはラテン文字転写でジャワ語名前に近い。エルランガはサンスクリット語名前。

参考文献;深見純生「アイルランガ王碑文の怪 プララヤは1006年か1016年か」東南アジア史学会会報71、1999年10月

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