無料ブログはココログ

« 何でも知って、何でも考えよう | トップページ | 小野篁 »

2016年12月22日 (木)

国木田治子忌日

    国木田哲夫(独歩の本名)は、佐々城信子(1878-1949)との恋愛と結婚、離婚によって独歩が生まれたといえなくもない。だが後妻の榎本治(1879-1962)が女流小説家であったことは今日ほとんど忘れさられているようだ。

    東京三鷹駅北口には独歩の代表的な詩の一編ともいえる「山林に自由存す」の碑がある。(昭和26年3月建立)武者小路実篤の書で刻まれ、独歩の子息で彫刻家の佐土哲二によるレリーフがはめ込まれている。

山林に自由存す

われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ

嗚呼山林に自由存す

いかなればわれ山林をみすてし

あくがれて虚栄の途にのぼりしより

十年の月日塵のうちに過ぎぬ

ふりさけ見れば自由の里は

すでに雲山千里の外にある心地す

眥を決して天外を望めば

をちかたの高峰の雲の朝日影

嗚呼山林に自由存す

われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ

なつかしきわが故郷は何処ぞや

彼処にわれは山林の児なりき

顧みれば千里江山

自由の郷は雲底に没せんとす

   明治27年、徳富蘇峰の勧誘に応じ、民友社に入る。明治28年8月16日から「国民新聞」にはじめて「独歩吟」と題する新体詩を発表する。同年、佐々城信子と結婚するが、翌年離婚。明治30年4月、宮崎湖処子編集し、松岡国男、田山花袋、太田玉茗、嵯峨の山人、湖処子らの合著『抒情詩』の刊行に国木田哲夫はこれまで新聞雑誌に発表した詩をまとめて「独歩吟」と題した。4月21日、田山花袋と共に日光照尊院に赴き、6月21日まで滞在。日光から帰京し、麹町一番町に住む。ここで隣家の榎本治子と知り合う。

200pxharuko_kunikida   榎本治子は、明治12年8月7日、東京市神田区末広町に生まれた。父は榎本正忠といい旧幕臣で画家であった。士官学校助教授として図画を教えていた。母は米、治子はその長女である。榎本正忠と榎本武揚の関係についてはよく分からないが姻戚かもしれない。そうすると独歩の父である国木田専八(明治37年1月19日、病没)は播州赤穂藩の脇坂藩の家臣で榎本武揚討伐のために脇坂藩が仕立てた船の乗組員だったことが知られているが、不思議な因縁といわなければならない。

   榎本治子、9歳の時、麹町一番町に転居。明治31年独歩と治子結婚。同年、長女貞子が生まれる。当時「源おぢ」を始めとして短編、詩篇を発表していたが文名揚がらず、翌33年には定職たる報知新聞記者もやめ、生活は窮迫し、一時民声新聞に入社したがこれも半歳にしてつぶれ、独歩は治子と貞子を榎本家へ預け、神田駿河台の西園寺公望邸に寄寓した。治子が文筆に親しみ出したのは明治36年頃からで婦人雑誌などに発表した。「愁ひ」(明治39年)「破産」(明治41年)「小夜千鳥」(大正3年)「モデル」。独歩が明治41年死後、長女貞子、長男虎男、二女みどりをかかえて生計は苦しく、三越の食堂部に勤務しながら、女流作家、青鞜の同人として知られるようになった。晩年は、文壇から遠ざかり、昭和37年12月22日、二女柴田みどりの家で83歳の生涯を閉じた。

   黒岩比佐子著 『編集者国木田独歩の時代』に独歩が経営する雑誌社に愛媛県出身の日野水ユキエ(1887-1964)という女性写真家がいたことを記している(朝日新聞2010.3.17 夕刊)。名前のみであるが記すという行為が貴重だと思いたい。

« 何でも知って、何でも考えよう | トップページ | 小野篁 »

今日は何の日」カテゴリの記事

コメント

こんにちは。毎日楽しく読ませていただいています。

この榎本治子さんが9歳のときに転居したという麹町一番町の居所の正確な地番はわからないのでしょうか。どの独歩年譜を見ても明記してありませんね。本多浩さんの「国木田治子未亡人聞書」で、治子さんは“麹町の家は、二階屋でその大きな家を二つに仕切ってありました。勿論、玄関は二つありました。私がそこへ住むようになった時からそうなっていました。その片方の二階に、渋谷で喧嘩をしてしまった脩二さんが荒川とかいう人と借りていて、そこへ日光から帰った国木田が尋ねてきて、住むようになったのです。初め貸してくれと言われた時には、女ばかりの家ですから、一応お断りしたのですが。他にも、近所にも五六軒があり貸しておりました。”とありますが、ヒントにはならないのでしょうかね。
また“父は旗本の三男坊で、明治になり外国から来た人に初めて洋画を習い、小山正太郎さんや松岡さんが一緒だったそうです。”とある,
この外国人は誰なのでしょう。フォンタネージのことなのでしょうか。

〔訂正〕
引用文中の「脩二さん」は、「収二さん」――言うまでもなく独歩の弟さん――の誤変換でした。

コメントありがとうございます。榎本正忠のことはなにも知りませんが、小山正太郎、松岡寿という工部美術学校の生徒との関係から推測して、その外国人はおそらくアントニオ・フォンタネージでしょう。そして国木田治子の子息も彫刻家になっていることから、芸術家としての才能は祖父の榎本正忠の血筋を受けているのでしょうか。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 何でも知って、何でも考えよう | トップページ | 小野篁 »

最近のトラックバック

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30