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2016年12月31日 (土)

「絆」その語感の変化について

303667_350935604990164_1238304966_n   最近、「家族の絆」というように「キヅナ」がよく使われる。わたしはこの言葉があまり好きではない。束縛感があるからだろうか。 思えば2011年「今年の漢字」は「絆」だった。東日本大震災で人と人とのつながりの大切さを改めて感じたという選定理由である。書道家の波多の明翠は日本一周マラソン「絆」一筆書きプロジェクトを実施している。「きずな」(古語では「きづな」)という少し古風な言葉は、その使われ方がここ50、60年で大きく変化していった。マス・メディアによる影響が強いと思われるが、あまりそのような指摘をされる人はいないようである。

   戦前「きずな」という言葉は今日盛んに使用されるほどに一般的な言葉ではなかったと思われるが、文献上は古くから見える。「沙石集」(13世紀後半)には「恩愛の絆を断ち」とある。おそらく戦前までは、「きづな」は「綱」であり、「断ち切る」という言葉と対になって、使われていたように思われる。いつごろから、「絆を大切に」となったのであろうか。

  世相を毎年恒例のように言葉で現す習慣は諸外国にもあるのだろうか。たとえば「絆」は英語になおせば「bond」あるいは「tie」だが情感がない。おそらく日本特有のものだろう。漢字の本家中国でも日本の今年の漢字が「絆」と報じられて違和感を感じたらしい。中国では「足をすくう」「わなにひっかかる」「からめつく」「拘束」「束縛」などの意味があるが、「人と人とのつながり」という意味はない。もともと「絆」は馬・犬など動物をつなぎとめるという意味である。それから「人を束縛する義理・人情」「夫婦の絆」などと意味するようになった。モームの小説の邦題が「人間の絆」である。むかしは「人間」と限定して初めて意味が通った。そして絆の本来の意味は「人と人とのつながり」ではなく、「自分を束縛する」という意味のほうが強い。言葉はビミョーに変化していく。そこで青空文庫で「絆」を検索して、文学作品中に「絆」がどのように使用されてきたか調べてみる。

1「数百年間の封建日本の重い絆」(宮本百合子「生活においての統一」)

2「わしを過去に結びつけていたあらゆる絆は断たれた」(豊島与志雄「故郷」)

3「愛欲の絆もあきらめられない」(坂口安吾「今後の寺院生活に対する私考」)

4「断とうとしても断てない執着の絆を思い」(種田山頭火「片隅の幸福」)

5「公転の絆を断ち切って自由軌道を採用することになろう」(海野十郎「予報者告示」)

6「私たちは、これからこそ、重苦しい過去の絆をふりはらって、思慮と勇気とに満ちた」(宮本百合子「婦人民主クラブ趣意書」)

7「そこには何か、捨て難い絆、縁のある証拠ではないだろうか」(宮本百合子「思い出すかずかず」)

8「見捨てることのできない深い絆にくくられる」(倉田百三「愛の問題」)

9「私を締めつけた多くの家族の絆」(伊東静雄「わがひとに与ふる哀歌」)

絆につく形容は「重い」「執着の」「重苦しい」「捨て難い」「深い」「締めつけられた」などである。とくに「糸」が語源なので「締めつける」(9)という表現は適切である。絆の語のあとに続くのは、「断つ」「断ち切る」「くくる」などである。おそらく戦前では「絆」は封建的な個人を束縛する「紐帯」であった。「絆」は断つものであった。戦後、家族関係が希薄になって、「絆」という語が逆に「人と人をつなぐ大切なもの」という正反対の意味で使われだしたことは不思議である。「家族の絆の大切さ」という表現は戦前ではありえなかった。NHKなどの放送でさかんに「絆」が使われ、東北大震災でも復興の合言葉となっている。言葉は生きものなので、是否を論ずるつもりはない。注視するだけである。「人と人との離れがたい結びつき」をメディアが連呼する現代こそ絆がない時代を反映しているのではないだろうか。

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