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2016年12月31日 (土)

年末年始必見番組

   お正月まであと12時間。本日は快晴。食材の買い物客でスーパーは大混雑。年末年始は特別番組も多い。観たい番組を見逃さないように事前にチェックしておきたい。テレ東で人気の「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」第25弾で太川&蛭子コンビが最終回。ルートは福島から秋田へ向かい、マドンナは新田恵利。三船美佳香港映画版は大晦日に放送。「関口知宏のヨーロッパ鉄道の旅」(30日)も面白い。新ドラマで注目は木村拓哉が外科医に扮する「A LIFE 愛しき人」。吉高由里子、大島優子の「東京タラレバ娘」。瀬戸朝香のサスペンス「女の中にいる他人」。金曜ドラマテン波瑠「お母さん、娘をやめていいですか?」。大杉漣ら6人の名脇役が結集した「バイプレイヤーズ」。黒木メイサが男装の剣士に扮する「花嵐の剣士」中沢琴は群馬県に生まれ利根法神流の達人。女ながらも浪士隊に参加。戊辰戦争では庄内戦争に参加。「世界の中心で、愛をさけぶ」ここの数年なぜか年末になると放送される。映画版とドラマ版を見比べ。どちらも死がテーマだが、年の瀬になると「ああ、今年もなんとか生きて年を越えられそうだ」と実感する。いくつになっても死は怖い。

   注目はやはり紅白。SMAP解散でピリピリムード感漂う。ピコ太郎、RADIO FISH、星野源、欅坂、土屋太鳳などダンス。三山ひろしのけん玉も必見。1日「殺人狂時代」「四谷怪談」(日本映画)。「奇跡のリンゴ」(BSジャパン)。「秀麗伝」。2日「陰日向に咲く」「お・と・な・り」(日本映画)。「スヌーピーと幸せのブランケット」(Eテレ)。2日「新宿スワン」(テレビ大阪)深夜1時30分.2日「二つの顔」「毒のある花」(BSTBS)。2日「天空の蜂」。4日「幸せを呼ぶミナの文房具店」(LaLa)。5日「美丘 君がいた日々」(ホームドラマ)。8日「おんな城主」(NHK)。「女の中にいる他人」。「しあわせの記憶」(MBS)。10日「監視者たち」(NECO)。12日「就活家族」「女の中にいる他人」瀬戸朝香。13日「下剋上受験」「お母さん娘をやめていいですか」。14日「花嵐の剣士」(BSプレミアム)。18日「東京タラレバ娘」。「レンタルの恋」。「朗読屋」。20日「奪い愛、冬」。「三国志 Three Kigdoms」。23日「突然ですが、明日結婚します」。

金大中のような左右対称の名前

030608_03    古くから鏡文字といって左右対称の文字は縁起がよいとされる。姓名学でも当然のこと、左右対称はよいとされるようだが、歴史人名を探すと意外と少ない。韓国大統領の金大中(1925-2009)が一番有名だろう。日本では山内一豊。ほかは田中王堂、森田草平、山本鼎、三木竹二、中山太一、大中寅二、高木東六、筒美京平、大西一、高市早苗、桂南天、大西一平、田中美里。西武・阪神に在籍した投手、谷中真二は2010年に引退した。演歌の山川豊、女優の吉田羊。

「絆」その語感の変化について

303667_350935604990164_1238304966_n   最近、「家族の絆」というように「キヅナ」がよく使われる。わたしはこの言葉があまり好きではない。束縛感があるからだろうか。 思えば2011年「今年の漢字」は「絆」だった。東日本大震災で人と人とのつながりの大切さを改めて感じたという選定理由である。書道家の波多の明翠は日本一周マラソン「絆」一筆書きプロジェクトを実施している。「きずな」(古語では「きづな」)という少し古風な言葉は、その使われ方がここ50、60年で大きく変化していった。マス・メディアによる影響が強いと思われるが、あまりそのような指摘をされる人はいないようである。

   戦前「きずな」という言葉は今日盛んに使用されるほどに一般的な言葉ではなかったと思われるが、文献上は古くから見える。「沙石集」(13世紀後半)には「恩愛の絆を断ち」とある。おそらく戦前までは、「きづな」は「綱」であり、「断ち切る」という言葉と対になって、使われていたように思われる。いつごろから、「絆を大切に」となったのであろうか。

  世相を毎年恒例のように言葉で現す習慣は諸外国にもあるのだろうか。たとえば「絆」は英語になおせば「bond」あるいは「tie」だが情感がない。おそらく日本特有のものだろう。漢字の本家中国でも日本の今年の漢字が「絆」と報じられて違和感を感じたらしい。中国では「足をすくう」「わなにひっかかる」「からめつく」「拘束」「束縛」などの意味があるが、「人と人とのつながり」という意味はない。もともと「絆」は馬・犬など動物をつなぎとめるという意味である。それから「人を束縛する義理・人情」「夫婦の絆」などと意味するようになった。モームの小説の邦題が「人間の絆」である。むかしは「人間」と限定して初めて意味が通った。そして絆の本来の意味は「人と人とのつながり」ではなく、「自分を束縛する」という意味のほうが強い。言葉はビミョーに変化していく。そこで青空文庫で「絆」を検索して、文学作品中に「絆」がどのように使用されてきたか調べてみる。

1「数百年間の封建日本の重い絆」(宮本百合子「生活においての統一」)

2「わしを過去に結びつけていたあらゆる絆は断たれた」(豊島与志雄「故郷」)

3「愛欲の絆もあきらめられない」(坂口安吾「今後の寺院生活に対する私考」)

4「断とうとしても断てない執着の絆を思い」(種田山頭火「片隅の幸福」)

5「公転の絆を断ち切って自由軌道を採用することになろう」(海野十郎「予報者告示」)

6「私たちは、これからこそ、重苦しい過去の絆をふりはらって、思慮と勇気とに満ちた」(宮本百合子「婦人民主クラブ趣意書」)

7「そこには何か、捨て難い絆、縁のある証拠ではないだろうか」(宮本百合子「思い出すかずかず」)

8「見捨てることのできない深い絆にくくられる」(倉田百三「愛の問題」)

9「私を締めつけた多くの家族の絆」(伊東静雄「わがひとに与ふる哀歌」)

絆につく形容は「重い」「執着の」「重苦しい」「捨て難い」「深い」「締めつけられた」などである。とくに「糸」が語源なので「締めつける」(9)という表現は適切である。絆の語のあとに続くのは、「断つ」「断ち切る」「くくる」などである。おそらく戦前では「絆」は封建的な個人を束縛する「紐帯」であった。「絆」は断つものであった。戦後、家族関係が希薄になって、「絆」という語が逆に「人と人をつなぐ大切なもの」という正反対の意味で使われだしたことは不思議である。「家族の絆の大切さ」という表現は戦前ではありえなかった。NHKなどの放送でさかんに「絆」が使われ、東北大震災でも復興の合言葉となっている。言葉は生きものなので、是否を論ずるつもりはない。注視するだけである。「人と人との離れがたい結びつき」をメディアが連呼する現代こそ絆がない時代を反映しているのではないだろうか。

2016年12月29日 (木)

年末年始の東京の美術館展示

   国立西洋美術館「クラーナハ展」。江戸東京博物館「戦国時代展」。練馬区立美術館「粟津則雄コレクション」。鴎外記念館「賀古鶴所という男」。賀古鶴所は陸軍軍医で、日本における耳鼻咽喉科の基礎を築いた人物。鴎外より6歳年上で、「一切秘密無ク交際シタル友」と記している。

2016年12月27日 (火)

チャオプラヤー・チャクリー

   今年10月、タイのプミポン国王が88歳でご逝去された。チャクリ朝のラーマ9世である。チャクリ朝の始祖はチャオプラヤー・チャクリー(1737-1809)である。アユタヤ朝がビルマに占領されると、1768年にタークシンがこれを駆逐して、トンプリー朝を起こして王位に就く。このときチャオプラヤー・チャクリーは部将として国王に仕えた。晩年、王が精神錯乱に陥ったとき、チャオプラヤーは国内の混乱をおそれて、王位に就く。これが現シャム王朝(チャクリ朝)ラーマ1世である。ルワンヨック・クラバット、プッタヨートファーチュラーローク、トーン・ドゥワンなど様々な名前で呼ばれる。ラーマ1世は首都をトンプリーからバンコクに移転した。熱心な仏教徒としてワット・プラケオなど多くの寺院を建立したほか、アユタヤ朝崩壊後に散逸した法典を新たに「三印法典」として編纂させた。

2016年12月26日 (月)

地下鉄で見かけた美女

   映画「彼が二度愛したS」(2008年)。ニューヨークウォール街で真面目に働く青年ユアン・マクレガー。遊び人のヒュー・ジャクマンと歓楽街へ。そこで彼のケータイを取り違える。ある日、そのケータイに見知らぬ女から誘いの電話がかかってくる。そこにはおそるべき罠があった。官能的な娼婦Sにミッシェル・ウィリアムが扮する。もう若くないが魅力的なムードをもつ。新作「フランス組曲」でもヒロインになっている。

 

 

美保関事件、水城圭次艦長の死

Navymizuki01     水城圭次(みずしろけいじ、1883-1927)は、長野県出身、海軍大佐。軽巡洋艦「神通」の艦長であった。大正10年のワシントン条約により、日本の海軍軍艦保有量が米・英の5に対して3に抑えられた。このハンディを猛訓練で補おうと、台風が近づく中、夜間演習を行っていた。昭和2年8月24日、島根県美保関沖で軽巡洋艦「神通」(水城圭次艦長)と駆逐艦「蕨」(五十嵐恵艦長)と衝突、「蕨」は火災をおこして船体が二つに折れ沈没、「神通」も艦首を大破した。駆逐艦「葦」も巡洋艦「那珂」と衝突し、両艦とも大破した。この海難事故(美保ヶ関事件)で「蕨」が92名、「葦」が27名の死者が出た。「蕨」の艦長は死亡したため、事故後の査問に対して、神通艦長・水城が、119名の犠牲者を出した事故の責任すべてを一身に背負うことになった。軍法会議の判決の出る前日、12月26日、水城は自宅で自決した。過重な訓練を課した連合艦隊司令長官・加藤寛治(1870-1939)や参謀への責任を問うことはなかった。帝国海軍最大の汚点といわれる。その後「神通」は船首をクリッパー型に代えて、太平洋戦争中で活躍したことがせめてもの救いであった。

2016年12月25日 (日)

チャンドラグプタ

   世界中の人名や地名には言いにくかったり覚えにくいものが無数にある。チャンドラグプタは古代インド・マウリア朝の始祖。アウラングゼーブはムガル帝国第6代の皇帝。ダルマトゥンガはシャイレンドラ朝の王でボロブドゥールを建設。ジャヤバルマン7世はクメール朝の王でアンコール・トムを建設。ペーダー・シューマッカ・グリッフェンフィルドは17世紀デンマークの宰相。タイの国王にはとても長い名前がある。ラーマ1世はプッタヨートファーチュラ―ローク。スリランカの首都スリジャワルダナプラコッテ、モーリタニアの首都ヌアクショット、ブルネイの首都バンタルスリブガワンは三大語呂の良い首都。

蕪村忌

    芭蕉、蕪村、一茶を三大俳人というが、それは明治になって正岡子規が蕪村を俳人として高く評価したからであって、それ以前は蕪村はむしろ画家として知られていた。
    与謝蕪村(1716-1783)。父母の名も明らかでなく、蕪村の幼時については不明な点も多い。姓を谷口といい、故郷は摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)と推定され、享保元年生まれで、幼時もそこで過ごしたらしい。17、18歳頃に毛馬を出て、江戸に下り、京都に永く住んで、再び郷里に帰ることはなかった。蕪村は大阪生まれであるにかかわらず、彼の句碑が大阪に少なく、大阪人に知られていないのが残念である。(12月25日)

800年カールの戴冠

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    西暦800年のクリスマスは、ヨーロッパ世界にとっては忘れられない記念の日となった。この日、ローマのサン・ピエトロ大聖堂で教皇レオ3世はフランク国王カール1世に西ローマ皇帝冠を授けた。カールは戴冠式のためにアーヘン(仏名エクス・ラ・シャペル)からピレネー山脈を越えて、ローマに来たのである。カールは西ローマ帝国滅亡後324年にしてローマ帝国の再興を実現し、大帝と呼ばれ、古典古代の文化とキリスト教にゲルマン精神が融合した文化を花開かせる。それがカロリング・ルネサンスである。(世界史、12月25日)

2016年12月24日 (土)

ベツレヘムの星

    イエス・キリスト生誕の地はエルサレムの南方約8キロにあるベツレヘムとされている。一般にイエスの生年はヘロデ大王(在位前67年ー前4年)の死んだ紀元前4年の少し前とされる。誕生から間もなく救世主の誕生を祝う星が東方からやって来た3人の博士(マギ)たちを導いて、幼児イエスのいるベツレヘムまでゆき、その上でとどまった。ベツレヘムの星である。まさしくイエスはメシア・キリストという証明なのだ。東方三博士の名はガスパール、バルタザール、メルチョールの三人。ガスパールは金髪で白人の若い博士。イエスに乳香を贈った。バルタザールはひげの褐色の肌の壮年博士。イエスに没薬という高価な薬を贈った。メルチョールは白いひげの白人の老博士。イエスに黄金を贈った。黄金はイエスの生まれながらにもつ王権をあらわす。

    イエスが誕生したことを知ったヘロデはベツレヘムの2歳以下の男子を皆殺しにしようとした。ヨセフ、マリア、イエスたちは、危うくエジプトへ逃れた。

視聴熱とは?

  エンタメ業界の新たな指標「視聴熱」。ツイッター上でつぶやかれた「テレビ番組名」「タレント名」「テレビ発信の新ワード」を集計し、人々が今、熱を持って注目していることを徹底解析したもの。2016年テレビ年間視聴熱ランキング。ドラマ部門では桐谷美玲主演「好きな人がいること」、バラエティーでは「SMAP×SMAP」が第1位だった。

ベトナムのチャン朝、蒙古軍を撃退

   鎌倉時代、日本には2度にわたりモンゴル軍が襲来してきたが、モンゴルから国を守り退却せしめたのは日本だけではない。ベトナムは1257年、1285年、1288年の3回モンゴルの攻撃を受けたが、いずれも撃退した。13世紀のベトナムは北の陳朝と南のチャンパ王国に分かれていた。チャン(陳)朝は蒙古襲来により衰退の一途をたどり、1400年に黎季犛(れいきり)によって滅ぼされる。

  1288年3月、興道王チャン・クオック・トゥアン(チャン・フン・タオ 陳国峻)が白藤江の戦いでドカン率いる元軍水軍を撃破。チャンは、内地から湾へ抜けようとする元軍を待ち受け、あらかじめ川の中に杭を打ち込み、草でおおい隠しておき、満潮時に戦闘を仕掛けて逃れるふりをして元軍をおびき寄せた。まんまと罠にはまった元の水軍は、杭に引っ掛かって壊滅的な打撃をこうむり、元の侵攻は失敗となる。

2016年12月23日 (金)

ボロブドゥール遺跡

   インドネシアのジャワ島中部のケドゥ盆地に所在する大規模な仏教寺院。シャイレーンドラ朝の時代、大乗仏教を奉じたシャイレーン王家によって、ダルマトゥンガ王(在位755年~782年)治下の780年頃から建造が開始され、792年頃に一応の完成をみたと考えられ、サマラトゥンガ(在位812年~832年)のときに増築されている。ボロブドゥールという名の由来は不明であるが、ストゥーパとみなすのが定説とされている。しかしインドには同様のストゥーパが皆無であることから、本来の使命である仏舎利の保存とは無関係のようである。シャイレードラ王家の霊廟として考える学者もいる。Borobudur

参考:「ボロブドゥール遺跡・ジャワ島;海のシルクロードで栄えたインドネシア王朝」邸景一、柳木昭信 日経BP出版センター

モンゴル族の南侵とタイ・スコータイ王国の成立

   13世紀に起こったモンゴル族の侵略は、東南アジアの歴史に大きな影響を与えることになる。中国に隣接するヴェトナムやチャンパは元の大軍に数度の侵略を受けたが、弱小国ながら国をあげての抵抗によって追い返している。これよりさき、1253年に元軍が雲南のタイ族の大理国を滅ぼしたことは、タイ族の南下を促した。タイ族はもともと中国の華南に居て小部族国家を建てていたが、次第に南下し、カンボディアのアンコール朝の衰弱に乗じて、1238年タイ族の指導者シーインタラーティットがラヴォ王国からの独立を宣言し、1257年にスコータイ王国を建国した。スコータイ王は独立後、大いに領土を広げ、第3代ラーマ・カムヘン王の時にその最盛期を迎え、クメール系文字を改良したタイ文字がこの王自身によって作られたといわれる。またビルマから上座部仏教(小乗仏教)が採り入れられたのもこのころである。

アイルランガ王

  インドネシア古代の歴史は文献資料が少ないため詳しくわからないことが多い。シュリヴィジャヤは7世紀にスマトラ島に成立し、海上貿易によって繁栄し、10世紀に全盛期を迎えたが、王都(一説にパレンバン)の位置や王名表すらわからない。10世紀後半、ジャワ島にクディリ王朝が起こった。13世紀シンガサ王国、14世紀マジャパヒト王国と続く。クディリ朝のダルマヴァンシャ(在位985?~1006)は、シュリヴィジャヤ国から攻撃を受け、王都を占領されて死去した。女婿アイルランガ(当時16歳、在位1019-1042)は、一時中部ジャワのウェノギリに避難し、1019年に即位した。その間領土は分裂し、またシュリヴィジャヤ国の介入の危険が彼の意図を妨げたが、1022年ごろ実夫の跡をついでバリ島の王を兼ね、チョーラ王国のスマトラ遠征(1025年)によって、シュリヴィジャヤの圧迫が弱まった機会に、しだいに旧領を回復した。1030年ごろ、シュリヴィジャヤ王はついに王女を彼に与えてその実権を認め、彼は再び東部ジャワを手中におさめた。臣下ナロッタマは終始彼を補佐し、その海港スラバヤ、トゥバンはスマトラをしのいで貿易の中心となった。宮廷詩人カンワが作った「アルジュナ・ヴィヴァハ」(アルジュナの結婚)は、マハーバーラタを翻案して、アイルランガとスマトラ王女との結婚をうたったジャワ最初の叙事詩である。彼は死去の数年前に退位し、領土は2人の王子に分割され、パンジャール(またはクディリ)およびジャンガラとよばれた。なおAirlanggaはラテン文字転写でジャワ語名前に近い。エルランガはサンスクリット語名前。

参考文献;深見純生「アイルランガ王碑文の怪 プララヤは1006年か1016年か」東南アジア史学会会報71、1999年10月

2016年12月22日 (木)

国木田治子忌日

    国木田哲夫(独歩の本名)は、佐々城信子(1878-1949)との恋愛と結婚、離婚によって独歩が生まれたといえなくもない。だが後妻の榎本治(1879-1962)が女流小説家であったことは今日ほとんど忘れさられているようだ。

    東京三鷹駅北口には独歩の代表的な詩の一編ともいえる「山林に自由存す」の碑がある。(昭和26年3月建立)武者小路実篤の書で刻まれ、独歩の子息で彫刻家の佐土哲二によるレリーフがはめ込まれている。

山林に自由存す

われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ

嗚呼山林に自由存す

いかなればわれ山林をみすてし

あくがれて虚栄の途にのぼりしより

十年の月日塵のうちに過ぎぬ

ふりさけ見れば自由の里は

すでに雲山千里の外にある心地す

眥を決して天外を望めば

をちかたの高峰の雲の朝日影

嗚呼山林に自由存す

われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ

なつかしきわが故郷は何処ぞや

彼処にわれは山林の児なりき

顧みれば千里江山

自由の郷は雲底に没せんとす

   明治27年、徳富蘇峰の勧誘に応じ、民友社に入る。明治28年8月16日から「国民新聞」にはじめて「独歩吟」と題する新体詩を発表する。同年、佐々城信子と結婚するが、翌年離婚。明治30年4月、宮崎湖処子編集し、松岡国男、田山花袋、太田玉茗、嵯峨の山人、湖処子らの合著『抒情詩』の刊行に国木田哲夫はこれまで新聞雑誌に発表した詩をまとめて「独歩吟」と題した。4月21日、田山花袋と共に日光照尊院に赴き、6月21日まで滞在。日光から帰京し、麹町一番町に住む。ここで隣家の榎本治子と知り合う。

200pxharuko_kunikida   榎本治子は、明治12年8月7日、東京市神田区末広町に生まれた。父は榎本正忠といい旧幕臣で画家であった。士官学校助教授として図画を教えていた。母は米、治子はその長女である。榎本正忠と榎本武揚の関係についてはよく分からないが姻戚かもしれない。そうすると独歩の父である国木田専八(明治37年1月19日、病没)は播州赤穂藩の脇坂藩の家臣で榎本武揚討伐のために脇坂藩が仕立てた船の乗組員だったことが知られているが、不思議な因縁といわなければならない。

   榎本治子、9歳の時、麹町一番町に転居。明治31年独歩と治子結婚。同年、長女貞子が生まれる。当時「源おぢ」を始めとして短編、詩篇を発表していたが文名揚がらず、翌33年には定職たる報知新聞記者もやめ、生活は窮迫し、一時民声新聞に入社したがこれも半歳にしてつぶれ、独歩は治子と貞子を榎本家へ預け、神田駿河台の西園寺公望邸に寄寓した。治子が文筆に親しみ出したのは明治36年頃からで婦人雑誌などに発表した。「愁ひ」(明治39年)「破産」(明治41年)「小夜千鳥」(大正3年)「モデル」。独歩が明治41年死後、長女貞子、長男虎男、二女みどりをかかえて生計は苦しく、三越の食堂部に勤務しながら、女流作家、青鞜の同人として知られるようになった。晩年は、文壇から遠ざかり、昭和37年12月22日、二女柴田みどりの家で83歳の生涯を閉じた。

   黒岩比佐子著 『編集者国木田独歩の時代』に独歩が経営する雑誌社に愛媛県出身の日野水ユキエ(1887-1964)という女性写真家がいたことを記している(朝日新聞2010.3.17 夕刊)。名前のみであるが記すという行為が貴重だと思いたい。

2016年12月20日 (火)

辞典の最後の単語は?

Cd7f17fb27d3fd09c32bb34c3d2d4b7e  英独仏諸国の分厚い辞典の最後の単語はなにか気になる。「zzz 」ズーズーズー、漫画などで用いられるいびきの音。「Zytoplasma」(独語)細胞質。「zymosis」発酵。「zwieback」乾パン。ラスクの一種。「zwischen dem Essen」食間

「Zurich」チューリッヒ、スイス最大の都市。「Zunyite」ズニアイト、ズニ石。「zulu」ズールー族。

   最大の辞書Webster's New International Dictionaryの最後の単語は「zyzzogeton」。

  100年の歳月をかけて英国学士院が「英国の文典に基づく中世ラテン語辞典」を編纂した。全17冊にも及ぶ大部な本である。この辞典は、最初はもちろん「a」から始まるのだが、最終巻の最後の単語は「zythum」だということ。「古代エジプトのビール」の意味。「スタンダード仏和辞典」にも「zython」とある。

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のんべ安は作り話

  忘年会やクリスマスとお酒を飲む機会が多い季節である。中国には陶淵明、李白、杜甫、白楽天、蘇東坡などの詩人が飲酒を高らかに詠う伝統のようなものがあるので、偉人、文人は酒飲みという風潮がみえる。ところが西洋ではキリスト教の影響かあまり偉人が酒を好むという話は知らない。キリスト教とは無関係のシーザー、チンギス・ハーンも体質的に酒を好まなかったようだ。ナポレオンは高級ブランデーにその名がついていることから、さぞかし酒好きと思われるだろうが、実はあまり酒が飲めず、コーヒーを好んだといわれる。トランプ大統領もその過激な発言や行動から酒を好むタイプかと思いきや、実は全くお酒は飲まない。これは下戸というわけではなく、「飲まない主義」という方が正しいらしい。日本でも源義経、毛利元就、明智光秀、芭蕉らは下戸である。意外なところでは西郷隆盛、大久保利通、武市瑞山、近藤勇らもあまり酒は飲めなかったらしい。高田の馬場での決闘や吉良亭邸討入りで知られる堀部安兵衛は講談で「のんべ安」とされるが下戸である。「徳利の別れ」赤垣源蔵が大酒のみというのも作り話である。(8月24日)

2016年12月19日 (月)

近世日本史の重要人物6人

   1751年のこの日、江戸町奉行の大岡忠相が死去した。享年75歳。

 

荻原重秀(1658-1713)は幕府勘定奉行を務め、元禄時代に貨幣改鋳を行った。新井白石の上書により歴史の悪役に貶められた。村井淳志の近著に「勘定奉行荻原重秀の生涯」がある。

 

田中丘隅(1662-1730)は農政家。通称、田中休愚。「民間省要」を著して吉宗に認められ、幕府普請役に任命されて多摩川などの治水工事を行い、大岡忠相のもとでは支配勘定役も務めた。

 

細川重賢(1721-1785)は江戸中期の熊本藩主。財政立て直しは「宝暦の改革」と呼ばれた。藩校「時習館」や医学校「再春館」を創設した。

 

レザノフ(1764-1807)は1804年ロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えて長崎に来航した。しかし半年余りも待たされたあげく、親書は突き返され、交易は拒絶された。

 

光格天皇(1771-1840)は、第119代天皇で孝明天皇の祖父となる。現在の皇統は、光格天皇から続いている。

 

佐竹義和(1775-1815)は出羽国秋田藩主。「秋田藩における寛政の改革」と呼ばれる改革政治を実施した。(12月19日)

 

 

 

 

 

 

2016年12月18日 (日)

増え続ける資料

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     国立国会図書館には、1日で何冊くらい増えているのだろうか?納本制度なので単行本なら300冊から400冊くらいは届けられる。雑誌・新聞ならダンボール約10箱分が届いている。(2007年の月報より)これらの資料が永く保存され、正確な目録が作成されて、いつでも利用できるようにされている。しかし、おそらくすべての資料に実際に目をとおしたり、読んで記憶したりする人は誰もいない。たぶんほとんどの資料は多くの人に目もふれることなく、書庫の奥深く保管されていく。いかなる読書家・収集家であろうと、これら資料の1パーセントも人の目にふれることはないだろう。だが図書館の基本的な使命は、利用者が必要とする資料を提供することにある。そして、現在の利用者だけでなく、未来の利用者に対しても資料を提供していかなければならい。あるとき、会議で本の背ラベルに受け入れ年、西暦の2桁を入れる提案がだされたことがある。理由は廃棄のときに5年以上前の本をぬきだす作業がしやすくなるというのである。効率的、機械的なことが優先される時代であったが、私は猛反対した。資料保存が未来の身だ見ぬ人のためであることを忘れてはならない。

熟字訓

  熟字訓(じゅくじくん)とは、本来の日本語に漢字をあてたものや、既成の漢字熟語に日本語をあてたもの。例えば、「明日」に「あす」という訓を当てているが、単字の「明」や「日」に「あす」の要素はない。

今日(きょう)、七夕(たなばた)、二十歳(はたち)、梅雨(つゆ)、土筆(つくし)、心太(ところてん)、下手(へた)、大人(おとな)、足袋(たび)、流石(さすが)

2016年12月17日 (土)

おそるべしクミコ

  五木ひろしが司会するBS朝日「日本の名曲・人生歌がある5時間スペシャル」総勢47人が生で歌を披露する。菅原洋一・クミコのデュエット「今日でお別れ」とても良かったです。ところで今とても気になる歌手がシャンソンのクミコ。テレビの歌番組で、「一本の鉛筆」「誰のための愛」「黒い瞳」「風に吹かれて」など聞いた。それぞれジャンルや雰囲気の違う曲に果敢に挑戦している。クミコおそるべし。メッセージ性の高いものを好むようだ。むかしディック・ミネが歌った「黒い瞳」など歌いこなすなどその実力は並大抵ではない。

オンド・マルトノ

  1928年にフランスで発明された電子楽器。外見はオルガンに似ていて鍵盤があるが、単音しかだせない。ヘンリー・マンシーニ「刑事コロンボ」のテーマ曲でトランペットのあとに、指笛のようなメロディが流れるが、オンド・マルトノで弾いている。Ondes Martenot

2016年12月16日 (金)

アイドル戦国時代

  浪曲「天保水滸伝」でお馴染みの剣客「平手造酒」。墓は千葉県の延命寺境内にあり、れっきとした実在の人物。「平手」という苗字は珍しいが、欅坂46のセンターに「平手友梨奈」がいる。クールビューティーな美貌で注目を集めるが、現在女性アイドルグループは乱立気味でその顔と名前を覚えるのはたいへんである。紅白9度目の出場を果たしたAKB48も、メンバー48人は視聴者の投票によるのでまだ誰が出場できるかはわからない。AKBグループのほかに、モー娘。などのハロプロ、ももクロ、私立恵比寿中学、ふわふわ、アンジュルムなど数えきれない。次の女子はどのグループか?

須田亜香里、松岡はな、齋藤飛鳥、渡邊理佐。岩崎春果。

答え 須田(SKE)、松岡(HKT)、齋藤(乃木坂)、渡邊(欅坂)。岩崎(ふわふわ)。

シャボン玉の謎

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  「シャボン玉」は野口雨情作詞、中山晋平作曲の童謡である。歌詞が雑誌「金の塔」に発表されたのは1922年のことである。そして翌年に中山晋平の譜面集「童謡小曲」に童謡「シャボン玉」が掲載された。野口雨情(1882-1945)が「シャボン玉」を書いたのは、幼児が急病で亡くなった悲しみから鎮魂の気持ちが込められているというのが通説である。最初の妻・ひろとの間に生れた長女みどりは一週間ほどで亡くなっている。1907年10月のことである。のちに雨情は再婚し、妻・つるとのあいだに恒子が生まれた。恒子が亡くなったのは1924年9月のことで「シャボン玉」の作詞より後のことである。他説では、雨情が四国に旅行中に、日ごろかわいがっていた親戚の男の子が急病で亡くなったとする説がある。しかし、これらを裏付ける決定的な資料は無い。また雨情自身が子どもの死との関係について触れている資料は一切ない。シャボン玉鎮魂説は憶測の域をでないのである。

読み方の紛らわしい名前「近衛文麿」 

Photo_2    1937年7月7日、近衛内閣が成立してからわずか1ヵ月で、盧溝橋事件がおこった。政府は不拡大方針をとなえたが、軍部は大規模な軍事行動を開始した。ここに日中戦争は全面的な展開をするにいたった。 1945年12月16日、服毒自殺した近衛文麿の名を、長い間「ふみまろ」とばかり思っていたのに、ある日ふと見た英字新聞に「AYAMARO」とあったのでびっくりした、という逸話がある。コンサイス日本人名事典などでは「ふみまろ」で記されているが、正式には「あやまろ」だった。「あやまろ」では語呂が悪いといことから通称名が知られるようになったらしい。「あやまろ、ともいう」と記されている事典もある。

  幕末長岡藩家老、河井継之助。読みは「国史大辞典」「コンサイス日本人名事典」等では「つぐのすけ」で記載されている。明治31年発行の戸川残花著「河井継之助」では「つぎのすけ」とルビがふられており、近年この説が有力である。

    三悪追放運動(三悪とは売春、麻薬、性病)などで知られた昭和の実業家・菅原通済(1894-1981)も「すがはらつうさい」と知られているが、本来は「すがはらみちなり」である。こちらは事典には「みちなり」で収録されている。

 むかし図書館で働いていて、図書目録カードの著者の読みを記入する作業のことをトレーシングといった。国文学者・折口信夫を「のぶお」を書いたが、先輩に注意された。正しくは、「しのぶ」である。

    明治の詩人・土井晩翠。当初は「つちい」だったが、1932年に「どい」と改称した。大正期、平民宰相で知られた原敬。「はらけい」とつい呼んでしまうが、「はらさとし」「はらたかし」、いったいどれが正しいのか紛らわしい。事典では一応「はらたかし」とある。ただし、原敬記念館、原敬日記は「はらけいきねんかん」「はらけいにっき」と読むのでますますややこしい。

 

戦艦大和の絵画と美保関事件

Photo_3  1939年12月16日、呉海軍工廠で戦艦大和は竣工した。1945年4月7日、大和が米空母機の攻撃により徳之島西方で沈没するまでの5年間、大和の艦長は5人いる。高柳儀八、松田千秋、大野竹二、森下信衛。そして最後の艦長が有賀幸作である。出航の前に取り外された絵画が呉市の大和ミュージアムに展示されている。中村研一の「美保関」(1941)という松江市内の風景画。大和には3枚の絵画があったが、その内の1枚で仕官室に飾られていたらしい。有賀には若い頃美保関事件(水城圭次自決)に遭遇しているのでこの絵画には深い思いがある。

2016年12月11日 (日)

ディエゴ・ロペス・デ・セケイラ

   ポルトガル人の航海者。Diego Lopez de Sequeira(1465-1530) 1508年4月、4隻の艦隊を率いてリスボンを出発し、マダガスカル島を経て、1509年4月インドのコチンにつく。船団のなかにはマゼランおよびフランシスコ・セランがいた。1509年9月マラッカについた。国王マフムード・シャーに貿易の開始と商館設立の許可を求め、いったんは認められたが、イスラム商人の進言により10月20日頃マフムード・シャーはポルトガル人に奇襲をかけた。約60人が殺され、24人が捕虜となった。セケイラはそのまま本国ポルトガルに向かい、マゼランたちはコチンへ戻った。

2016年12月10日 (土)

龍馬、総司の墓所

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  幕末青春群像のなかで圧倒的人気は坂本龍馬と沖田総司であろう。対照的な二人の青春の軌跡であるが、若くして燃え尽きた点では共通している。享年龍馬31歳、総司27歳(一説では25歳)である。坂本龍馬(1835-1867)は慶応3年12月10日京都近江屋で中岡慎太郎とともに惨殺された。墓は京都霊山護国神社。

  沖田総司(1842-1868)は龍馬より7つ年下である。沖田は不幸なことに、胸を患い、千駄ヶ谷池尻橋の植木屋平五郎の離れで慶応4年7月19日に病没。享年は25歳説と27歳説がある。一般に知られている25歳説は、沖田の口碑として伝えられている。27歳説は、小島鹿之助の「両雄実録」と、文久3年の浪士組上洛時の名簿が早川文太郎、千葉弥一郎のもの、とともに22歳と記していることによる。25歳説では弘化元年(1844年)、27歳説では天保13年(1842年)の生まれということになる。東京・元麻布の専称寺に墓がある。

   龍馬の妻楢崎龍、一説によると総司にも石井秩という妻がいたらしい。身長は龍馬が大柄、総司が小柄と対照的である。もし2人が明治まで生きていれば日本はどのようになっていたであろうか。

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 坂本龍馬、中岡慎太郎の墓

 

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 沖田総司の墓

2016年12月 8日 (木)

神の7人

80f4e48f3bf9381f6c47c52ab0e7c61a_vi   2005年12月8日、東京・秋葉原に「秋葉原48劇場」(現:AKB劇場)がオープンし、第1回公演が行われた。収容人数250人の同劇場に入場者72人中、65人が関係者で一般の観客はわずか7人であった、この7人の観客は「神の7人」と呼ばれている。12月8日という日は真珠湾攻撃から66年を経て、AKB48の記念日となった。

2016年12月 7日 (水)

貧乏人は麦を食え

   むかし中国で生まれつき暗愚な皇帝(西晋の恵帝)がいて、飢饉で多くの餓死者が出ているのに、「飯が食べられないなら肉のおかゆを食べればよいのに」といった話が残っている。

    古い話だが、日本でもこんな話があった。昭和25年12月7日、池田勇人が大蔵大臣の時代、木村禧八郎の米価値上げに関連する質問で、「ご承知の通り戦争前は米100に対して麦は64%ぐらいの割合であります。そして今は米100に対して小麦95、大麦は85ということになっております。そうして日本の国民全体の、上から下と言っては何でございますが、大所得者も、小所得者も同じような米麦の比率でやっております。これは完全な統制であります。私は所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食う、というような、経済の原則にそういうほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります」と答弁した。これが「貧乏人は麦を食え」という見出しで新聞に載り、各方面から強い批判が出された。

    最近では玄米や麦は健康にいいという。また野菜中心のベジタリアンは本当に健康的なのかも疑問がある。家内は10年間野菜中心のダイエット食だが、お腹が空くらしく間食が多く、どうみても不健康だ。

新吾十番勝負

Ps_ctoe0302_0001_011   大川橋蔵、1984年の忌日。まだ55歳の若さだった。「新吾十番勝負」(1959)の葵新吾は彼以外には考えられず、橋蔵にとって最大の当たり役となり、二十番勝負、そして番外勝負と1964年まで5年間に8作品が作られた。公開当時リアルタイムで見た映画だ。第1部、第2部の出演者をみると、大川橋蔵、岡田英次、山形勲、大友柳太郎、大河内伝次郎、月形龍之介など主なキャスト男優陣はすべて故人となっている。若き山城新伍も町人で出演しているが2009年に逝去している。それに比べ女優陣はいまだ健在で花の命の長いことである。完結編の丘さとみの扱いをみると、当時彼女がトップだったらしい。(12月7日)

2016年12月 6日 (火)

中村是好は生没同日

Image00055   「エノケンのちゃっきり金太」(1937)などで知られる俳優の中村是好は1900年12月6日生まれで1989年12月6日に亡くなっている。坂本龍馬や小津安二郎と同様にいわゆる生没同日である。また満鉄総裁の中村是公(1867-1927)とは似ている名前で紛らわしいが、生没同日と一字違いの同姓同名の2つを有する著名人はひじょうに珍しい。その趣味の盆栽は有名である。

2016年12月 5日 (月)

引き揚げ船

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    敗戦後、外地に居住する日本の軍人軍属、一般日本人は祖国に引き揚げた。その数およそ660万人といわれる。とりわけ旧満州を含む中国・朝鮮方面からの引き揚げは凄惨をきわめた。NHKドラマ「どこにもない国」は旧満州に取り残された在留邦人引き揚げのために貢献した一民間人、丸山邦雄の半生を描く。「国家の品格」で知られる数学者・藤原正彦(昭和18年生れ)もその一人だ。母ていのベストセラー「流れる星は生きている」に描かれるように、幼い子どもを抱えて途方にくれる引き揚げ者も多かった。また引き揚げ者のなかには、途中で親と死別し、無縁故者となった子どもを多くいた。写真は樺太からの引き揚げ船第1号「雲仙丸」が函館から品川駅に着いた引き揚げ孤児。(昭和21年12月5日)先頭のおかっぱ頭の少女は両親の遺骨を抱いている。引き取り先が決まるまで、上野の同胞援護婦人連盟ホームに収容された。「♪霞む故国よ小島の沖じゃ夢もわびしくよみがえる」なつかしの写真館。誰もが生きたあの時代を写真でたどる。

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2016年12月 4日 (日)

最後の脱盟者・毛利小平太に萌え

 只今、放送中の「忠臣蔵の恋」。なぜか脱盟者で知られる毛利小平太の扱いが大きいような気がする。注目の若手俳優、泉澤祐希が演じている。来年の朝ドラ「ひよっこ」でさらにブレイクの予感がする。

   毛利小平太は二十石三人扶持の微禄だが、吉良邸探索には最も活躍し、大きな功があった。だが、兄のもとに暇乞いに行った際、うっかり大事をもらしてしまった。この兄は内匠頭の従弟にあたる三河国畑村の領主の戸田弾正氏成の家臣であったから、主家に迷惑の及ぶのを恐れ、お公儀に訴え出ると脅迫した。進退きわまった小平太は、討入りの数日前に、一書を残して姿を消した。同志たちは彼の脱落を、殊に惜しんだそうだ。(参考:一条明「脱盟の浪士」『仇討ちと騒動』所収)

金玉均のクーデター

Photo     韓国歴史ドラマには反対派による残酷な拷問や刑罰シーンがある。これは現実の話であり、李朝末期まで行われた。朝鮮の開明派の指導者、金玉均(キム・オクキュン 1851-1894)は近代化の殉難者といえる。金は日本の明治維新を模範として清朝からの独立、朝鮮の近代化を目指した。1884年清仏戦争が起こり、清は連戦連敗、このみじめな敗戦の情報が朝鮮につたわると、清国の権威は下落し、かわって親日派の勢力が台頭してきた。12月4日、金らは閔氏政権打倒のクーデターを起こした。しかしこのクーデターはかんたんに失敗し、金玉均らは日本へ亡命した。その後、再起計画のため上海に赴いたところを、刺客洪鐘宇(ホン・ジョンウ)のためホテル東和洋行の一室で暗殺された。遺体は朝鮮に送還されたが、凌遅刑(肉を少しづつ切り削がれていくという残酷な刑)に処された。その遺体はバラバラにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された。

2016年12月 3日 (土)

恐怖の人喰いサメ

   1916年7月1日、米国ニュージャージー州のリゾート地の海岸で、遊泳中の男性がサメに襲われて死亡した。しかし、当時の認識では鮫が人を喰うということは考えられなかった。それから2週間の間に4人がサメに喰われて死んだ。この事件を新聞が大々的に報じたため、海水浴客が来なくなり、現地のリゾート地は大きな打撃を受けることとなる。この事件はのちにピーター・ベンチリーが「ジョーズ」の題材として取り上げられた。

香川県独立記念日

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    本日は香川県の独立記念日。香川は面積が1876k㎡と、47都道府県の中で一番狭い。1888年12月3日、愛媛県から分離独立し、現在の都道府県がすべて確定したのである。1876という数字と因縁があるのは、愛媛県に1876年に編入されたからである。江戸以来、讃岐とよばれ独立の気風が強く、県民には単独の県の設置を望んだ。奇しくも面積と屈辱の年とが同一の数字。

2016年12月 2日 (金)

「永遠の0」と空母バンカーヒル

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    映画「永遠の0」はフィクションであるが、太平洋戦争中のいろいろな実話がたくみに取り入れられている。そのひとつが空母に特攻するラストシーン。宮部久蔵少尉が海面スレスレの低空飛行して接近し、急上昇して急降下して敵艦に突入した。これは1944年5月11日、沖縄侵攻の支援中のバンカーヒルが大破した事実と酷似する。鹿屋基地を特攻機95機が飛び立っていった。その中の2機が沖縄南西諸島沖東方122kmに空母を発見、「ワレ突入ス」との無電の後、安則盛三中尉(21歳)搭乗の零戦が体当たり特攻し、空母は大火災を引き起こした。続いて小川清少尉(22歳)の零戦が対空砲火を通り抜けて、500㎏爆弾を投下後、艦橋に激突。ガソリンに引火し戦死者402名、負傷者264名。大破した空母バンカーヒルはその後、真珠湾経由でワシントン州ブレマートンに帰還した。

ラクロスの起源

  ラクロスと呼ばれる網の付いたスティックを用いて、10名編成の2チームが相手ゴールにボールを打ち込み得点を競う。もともと北米インディアン(スー族やチョクトー族)が「バガタウェー」と呼んで、戦勝祈願として舞や踊りのときの儀式として行っていた。現代競技はカナダの歯科医ウィリアム・ピアーズ(1843-1900)が1869年頃スポーツとして広めた。Baggataway、William Greorge Beers

龍田丸、最期の航海

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 海の女王・龍田丸

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 司厨長・板倉作次郎による料理は評判だった

   日米開戦が噂される中、昭和16年12月2日、日本郵船の豪華客船龍田丸(16955トン)が静かに横浜港を出航した。行く先はロサンゼルス経由バルボア(パナマ)である。大本営は龍田丸の出航停止を検討していた。しかし、それでは日米開戦を知らせることになってしまう。そこで当初11月20日であった出航日を、12月2日に変更させることにした。11月20日の場合、ロス着12月3日、バルボア着17日、18日ごろになる。真珠湾攻撃日が決定されている以上、バルボアでは確実にアメリカ軍に拿捕されることが明らかである。そこで、日程をずらした。12月2日に出航した龍田丸は、12月8日は、まだ180度あたり(日付変更線)なので、敵に拿捕されないギリギリの地域でUターンし、全速力で横浜に向かい、12月14日横浜に寄港した。この計画を知っていたのは、乗船した海軍軍務局の市川少佐と本村船長だけだった。

    龍田丸は航海運航終了後は海軍に徴用された。昭和18年2月8日、風速20mの暴風雨の中、トラック島に向けて横浜港を出航した龍田丸は、米潜水艦ターホンの雷撃を受け、御蔵島近海で沈没した。乗組員198名、乗船員1283名、全員死亡、生存者は一人もいないという悲劇的な最期を遂げた。太平洋横断を100回以上を超えた龍田丸Ⅰ世(1930-1943)は今も東京湾から南西約200㎞の御蔵島沖に静かに眠っている。

スーラとマリア・カラス

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   ジョルジュ・スーラ         マリア・カラス

    今日は画家ジョルジュ・スーラとソプラノ歌手マリア・カラスの誕生日。スーラは1859年12月2日、パリのド・ポンディ通りで生れた。マリア・カラスは1923年12月2日、ニューヨークで生れた。2人にはもう1つ共通点がある。パリ東部にあるペール・ラシェーズに埋葬されていることである。

   この墓地はパリ最大の広さをもち、ほかにも多くの著名人がここに眠っている。アベラーズとエロイーズ、バルザック、コンスタン、アポリネール、ラディゲ、オスカー・ワイルド、プルースト。作曲家ではショパン、ビゼー、ロッシーニ。イブ・モンタンやエディット・ピアフなどシャンソン歌手。画家ではダヴッド、コロー、アングル、ドラクロワ、ピサロ、モディリアーニ。

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  ショパン

2016年12月 1日 (木)

ラ・サール卿の非業の最期

   1682年フランスの探検家ラ・サール卿は五大湖からミシシッピ川を下って探検を進め、ミシシッピ流域の領有権を主張し、その領土をルイ14世に因んで「ルイジアナ」と名付けた。しかし彼は1687年本国からの物資が途絶えるなか、テキサス州ナバソタ付近で部下のピエール・デュオ―によって殺害された。参考;「トンティによるラ・サール踏査行の記録 1678~1690」 ロベール・カブリエ・ド・ラ・サール、Robert Cavelier de la salle、Pierre Duhaut

カイロの日

Sp1030979    日本使いすてカイロ同業会が1991年に制定した記念日。日本製カイロが中国でよく売れているとか。カイロは戦国時代、忍者が携帯していた「胴火」がそのルーツと考えられる。第二次世界大戦中、対日本基本政策を決定するためエジプトのカイロで行われたカイロ会談、フランクリン・ルーズヴェルト、ウィンストン・チャーチル、蒋介石の会談が行われた。使い捨てカイロとエジプトのカイロが同日というのは偶然の一致なのだろうか。カイロとは本来「勝利」という意味であるがこれも偶然なのだろうか。(Cairo conference,12月1日)

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