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2016年12月31日 (土)

年末年始必見番組

   お正月まであと12時間。本日は快晴。食材の買い物客でスーパーは大混雑。年末年始は特別番組も多い。観たい番組を見逃さないように事前にチェックしておきたい。テレ東で人気の「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」第25弾で太川&蛭子コンビが最終回。ルートは福島から秋田へ向かい、マドンナは新田恵利。三船美佳香港映画版は大晦日に放送。「関口知宏のヨーロッパ鉄道の旅」(30日)も面白い。新ドラマで注目は木村拓哉が外科医に扮する「A LIFE 愛しき人」。吉高由里子、大島優子の「東京タラレバ娘」。瀬戸朝香のサスペンス「女の中にいる他人」。金曜ドラマテン波瑠「お母さん、娘をやめていいですか?」。大杉漣ら6人の名脇役が結集した「バイプレイヤーズ」。黒木メイサが男装の剣士に扮する「花嵐の剣士」中沢琴は群馬県に生まれ利根法神流の達人。女ながらも浪士隊に参加。戊辰戦争では庄内戦争に参加。「世界の中心で、愛をさけぶ」ここの数年なぜか年末になると放送される。映画版とドラマ版を見比べ。どちらも死がテーマだが、年の瀬になると「ああ、今年もなんとか生きて年を越えられそうだ」と実感する。いくつになっても死は怖い。

   注目はやはり紅白。SMAP解散でピリピリムード感漂う。ピコ太郎、RADIO FISH、星野源、欅坂、土屋太鳳などダンス。三山ひろしのけん玉も必見。1日「殺人狂時代」「四谷怪談」(日本映画)。「奇跡のリンゴ」(BSジャパン)。「秀麗伝」。2日「陰日向に咲く」「お・と・な・り」(日本映画)。「スヌーピーと幸せのブランケット」(Eテレ)。2日「新宿スワン」(テレビ大阪)深夜1時30分.2日「二つの顔」「毒のある花」(BSTBS)。2日「天空の蜂」。4日「幸せを呼ぶミナの文房具店」(LaLa)。5日「美丘 君がいた日々」(ホームドラマ)。8日「おんな城主」(NHK)。「女の中にいる他人」。「しあわせの記憶」(MBS)。10日「監視者たち」(NECO)。12日「就活家族」「女の中にいる他人」瀬戸朝香。13日「下剋上受験」「お母さん娘をやめていいですか」。14日「花嵐の剣士」(BSプレミアム)。18日「東京タラレバ娘」。「レンタルの恋」。「朗読屋」。20日「奪い愛、冬」。「三国志 Three Kigdoms」。23日「突然ですが、明日結婚します」。

金大中のような左右対称の名前

030608_03    古くから鏡文字といって左右対称の文字は縁起がよいとされる。姓名学でも当然のこと、左右対称はよいとされるようだが、歴史人名を探すと意外と少ない。韓国大統領の金大中(1925-2009)が一番有名だろう。日本では山内一豊。ほかは田中王堂、森田草平、山本鼎、三木竹二、中山太一、大中寅二、高木東六、筒美京平、大西一、高市早苗、桂南天、大西一平、田中美里。西武・阪神に在籍した投手、谷中真二は2010年に引退した。演歌の山川豊、女優の吉田羊。

年越しそばの由来

    大晦日の夜を年越しともいい、除夜ともいう。現代のわれわれは「NHK紅白歌合戦」を見て、「ゆく年くる年」で除夜の鐘を聞くことを年越しと思うかもしれないが、これは比較的に新しい習慣であって、日本では大昔から、一日というのは日が暮れてから、次の日が暮れるまでであった。一日の境は真夜中の12時ではなく、日暮であった。だから大晦日の夜に、年棚に灯をつけ、神饌を供えて、家内そろってつく膳は、年を迎える祝いの膳であった。この夜にきまった食べものを摂ることになっていたのは、そのためである。土地によっては、新年最初の食事として、大晦日の夜に晴れの膳を家族にすえる所もあるが、これは年越しの古風である。

    年越しそば、みそかそばを食べる風習は、だいたい江戸時代に定着したものであるが、必ずしも全国的なものではない。地方によって食べ物は異なり、ある地方では田楽を食べる風習があった。豆腐と蒟蒻を焼いて味噌をつけたものである。

    年越しそばの由来については、①そばのように長く幸福にという縁起説、②金箔師が仕事場に散らばった金銀の粉を集めるのにそば粉をこねた塊をもちいたことから、金銀をかき集めるという説、③大晦日の深夜まで借金の取立てのため、夜明けまで集金して歩く町場の掛取りの慰労のため、など諸説ある。

 

大晦日の餃子

   日本では大晦日の夜は年越しそばを食べるという習慣があるが、中国北方の北京では大晦日の晩に家族が集まって餃子をつくる。映画「妻への家路」(2014)にもそのようなシーンがある。ちなみに中国で餃子というば水餃子のこと。焼き餃子は「鍋貼(ゴーティエ)」と言う。年越しに餃子を食べるという習慣は明代のころから始まったといわれる。

「絆」その語感の変化について

303667_350935604990164_1238304966_n   最近、「家族の絆」というように「キヅナ」がよく使われる。わたしはこの言葉があまり好きではない。束縛感があるからだろうか。 思えば2011年「今年の漢字」は「絆」だった。東日本大震災で人と人とのつながりの大切さを改めて感じたという選定理由である。書道家の波多の明翠は日本一周マラソン「絆」一筆書きプロジェクトを実施している。「きずな」(古語では「きづな」)という少し古風な言葉は、その使われ方がここ50、60年で大きく変化していった。マス・メディアによる影響が強いと思われるが、あまりそのような指摘をされる人はいないようである。

   戦前「きずな」という言葉は今日盛んに使用されるほどに一般的な言葉ではなかったと思われるが、文献上は古くから見える。「沙石集」(13世紀後半)には「恩愛の絆を断ち」とある。おそらく戦前までは、「きづな」は「綱」であり、「断ち切る」という言葉と対になって、使われていたように思われる。いつごろから、「絆を大切に」となったのであろうか。

  世相を毎年恒例のように言葉で現す習慣は諸外国にもあるのだろうか。たとえば「絆」は英語になおせば「bond」あるいは「tie」だが情感がない。おそらく日本特有のものだろう。漢字の本家中国でも日本の今年の漢字が「絆」と報じられて違和感を感じたらしい。中国では「足をすくう」「わなにひっかかる」「からめつく」「拘束」「束縛」などの意味があるが、「人と人とのつながり」という意味はない。もともと「絆」は馬・犬など動物をつなぎとめるという意味である。それから「人を束縛する義理・人情」「夫婦の絆」などと意味するようになった。モームの小説の邦題が「人間の絆」である。むかしは「人間」と限定して初めて意味が通った。そして絆の本来の意味は「人と人とのつながり」ではなく、「自分を束縛する」という意味のほうが強い。言葉はビミョーに変化していく。そこで青空文庫で「絆」を検索して、文学作品中に「絆」がどのように使用されてきたか調べてみる。

1「数百年間の封建日本の重い絆」(宮本百合子「生活においての統一」)

2「わしを過去に結びつけていたあらゆる絆は断たれた」(豊島与志雄「故郷」)

3「愛欲の絆もあきらめられない」(坂口安吾「今後の寺院生活に対する私考」)

4「断とうとしても断てない執着の絆を思い」(種田山頭火「片隅の幸福」)

5「公転の絆を断ち切って自由軌道を採用することになろう」(海野十郎「予報者告示」)

6「私たちは、これからこそ、重苦しい過去の絆をふりはらって、思慮と勇気とに満ちた」(宮本百合子「婦人民主クラブ趣意書」)

7「そこには何か、捨て難い絆、縁のある証拠ではないだろうか」(宮本百合子「思い出すかずかず」)

8「見捨てることのできない深い絆にくくられる」(倉田百三「愛の問題」)

9「私を締めつけた多くの家族の絆」(伊東静雄「わがひとに与ふる哀歌」)

絆につく形容は「重い」「執着の」「重苦しい」「捨て難い」「深い」「締めつけられた」などである。とくに「糸」が語源なので「締めつける」(9)という表現は適切である。絆の語のあとに続くのは、「断つ」「断ち切る」「くくる」などである。おそらく戦前では「絆」は封建的な個人を束縛する「紐帯」であった。「絆」は断つものであった。戦後、家族関係が希薄になって、「絆」という語が逆に「人と人をつなぐ大切なもの」という正反対の意味で使われだしたことは不思議である。「家族の絆の大切さ」という表現は戦前ではありえなかった。NHKなどの放送でさかんに「絆」が使われ、東北大震災でも復興の合言葉となっている。言葉は生きものなので、是否を論ずるつもりはない。注視するだけである。「人と人との離れがたい結びつき」をメディアが連呼する現代こそ絆がない時代を反映しているのではないだろうか。

大晦日の祖先祭祀の風習について

    青森県三戸郡五戸町では今でも年の暮れから正月にかけてミタマノママと呼ばれる風習が残っていると聞く。白餅と赤餅とを菱に切って神棚に供える。盛岡では卵のように飯を握って年の内に供え、後で苞に入れて乾かしておく。山形県最上郡安楽城村では米飯を擬宝珠形に握るのを本式とする。ミタマノママとは「御魂の飯」(みたまめし)と書き、「みたま」を御先祖様と解し、大晦日の夜の先祖祭への供物である。オミタマサマ、ミタマメシ、ミタマ、ニダマなどともいう。

     かつて日本には一年に盆(7月)と正月(12月)、先祖祭の日があった。「徒然草」第19段に「亡き人の来る夜として魂祭るわざは、このごろ都にはなきを、東の方にはなほすことにてありしこそあはれなりしか」とある。つまり兼好の時代には京都ではもう12月には祖先祭祀の風習はなくなっていたが、関東には昔の風習が残っていたようだ。お盆が仏教による魂祭りであったのに対し、大晦日の祭りは仏教的な色彩がうすれて、地方において神祭的なものになっていったのはなぜだろうか。(参考:田中久夫「みたまのめし」史泉第50号 昭和50年) 12月31日

除夜の鐘の由来

大晦日定めなき世の定めかな(西鶴)

ともかくもあなたまかせの年の暮れ(一茶)

高窓に星吹き寄せぬ除夜の鐘(花野女)

 大晦日を「除日(じょじつ)」ともいう。旧年を除く日ということである。除日の夜が除夜だ。除夜の鐘を108つくのは、中国の仏教儀式で、宋時代から始まったという。ただつけばよいというわけではなく、交互に、強く54点、弱く54点、そして107点までは旧年に、最後の一点を新年につく。

   108の数は、1年12ヵ月と、立春などの24節気、それを三分した72候、の合計だというが、後に108の煩悩を一つずつ消すためといわれるようになった。108の煩悩とは、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)と六塵(色、声、香、味、触、法)におのおの好、悪、平があるので、計36程の煩悩が生じ、それが過去、現在、未来あるので108となる。

    古くは1日が夜からはじまって朝につづくと考えられていたので、祭は多く前夜から行われた。年越しの祭も前夜からはじまるとし、大晦日の夜を「おおとし」「としのよ」といい、年神(歳神)を迎るために厳重な物忌をし、夜通し起き明かすのが古風な作法であった。今でも除夜の鐘を聞くまで床に入らなかったり、早く寝ると白髪になるとか、しわがよるとかいい、また寝るというのを忌んで、「寝る」ことを「稲を積む」という地方もある。また年ごもりといって、この夜は神社に参籠(さんろう)して夜を明かすところがあったが、現代では一般にそれを簡略して夜中に参るか元旦未明に参るようになった。また「歳籠り」といって氏神の社にこもって夜を明かす風習もあり、京都祇園社の「おけら祭」などのように、古い社では除夜に、新しく火を鑽り出し、氏子に配る行事がある。農家などでは、大歳の晩から元旦にかけて、いろりの火を絶やさぬようにするところも多い。この際、火種にする薪を「ようぎほだ」「せちほだ」などと呼び重要視した。そのほかいろりや氏神の境内で大火をたくところもあり、兵庫県では「年越しとんど」といって、古い注連縄などの神飾りの不用なものを焼くところもあった。

除日、講起ス

歳暮ニ、菅得庵、林羅山ニ謂ヒテ曰ク、

「余、イマダ通鑑綱目ヲ読マザル。

請フ、先生、明春ヲ以テ、余ノタメニ之ヲ講ゼント」

羅山曰ク、「子ノ心誠ニ之ヲ求メバ、何ゾ来年ヲ待タント」

即チ、除日ニ講起ス。

                       (先哲叢談)

2016年12月30日 (金)

勘太郎を殺した板割浅太郎

016    松竹キネマは新国劇「国定忠治」を題材に初のトーキー映画「浅太郎赤城の唄」を昭和9年に公開するや、映画主題歌である東海林太郎の「赤城の子守唄」が、流行歌の時代の到来を告げる大ヒットとなった。ただし新国劇では忠治の子分は定八や巌鉄だったが、脇役の板割浅太郎が、この映画では主役に昇格している。また、浅太郎に殺されたはずの勘太郎も生きて登場するし、浅太郎が勘太郎を背負って「赤城の子守唄」を歌って聞かせる場面がある。当時の人にとっては、かなり斬新な解釈の映画であり流行歌(作詞は佐藤惣之助という新感覚派の詩人)だったにちがいない。

   そもそも勘太郎の父というのは、博徒で目明しを兼ねた二足のわらじの男で中島勘助といい、浅太郎の叔父にあたる。浅太郎は勘助と内通していたと忠治に疑われ、その証のために勘助と勘太郎親子を斬るはめになる。伊勢崎市には勘助・勘太郎の墓がある。

   講釈師がいたいけな子供が犠牲になった事実をまげて語ったところ、大いに聴衆に受けたことが発端となり、その後「赤城の子守唄」の大ヒットで、浅太郎が勘太郎を背負って赤城山に登ることが定着する。東海林太郎の浅太郎、高峰秀子の勘太郎という芝居まで上演され大評判となった。

   浅太郎はその後、『赤城録』に「浅梟首」とあり、捕らえられて晒し首にされたとなっているが、浅太郎は逃亡の後、仏門に入り二人の菩提を弔いながらその生涯を終えたという説も有力である。神奈川県藤沢市の真徳寺に浅太郎の墓がある(画像)。明治26年12月30日没。享年74歳。(参考:川井正「勘太郎の頭蓋骨」歴史読本昭和59年1月号)

 

2016年12月29日 (木)

年末年始の東京の美術館展示

   国立西洋美術館「クラーナハ展」。江戸東京博物館「戦国時代展」。練馬区立美術館「粟津則雄コレクション」。鴎外記念館「賀古鶴所という男」。賀古鶴所は陸軍軍医で、日本における耳鼻咽喉科の基礎を築いた人物。鴎外より6歳年上で、「一切秘密無ク交際シタル友」と記している。

登山の起源

 登山ブームである。山に登るということは先史時代から行われていたようであるが、何世紀ものあいだ、山は神と人間とが出会う神聖な場所だと思われていた。モーセはシナイ山で十戒を授かっている。ハンニバルは前218 年、6万人の兵と37頭の象とともにピレネーやアルプスの山脈を越えたとされる。125年にローマ帝国のハドリアヌス帝は朝日を見るためにエトナ火山に登った。1336年4月26日にイタリアの詩人、ペトラルカは弟ジェラルドを連れてフランスのヴァントゥ山の頂に登った。このことからペトラルカは「登山の父」と呼ばれている。我が国で最初に富士登山に成功した人物は聖徳太子という俗説がある。ある日、聖徳太子は黒駒に乗ってフワフワと空中に浮き、そのまま富士山をめぐりあるいて二日で帰ってきた。太子信仰の隆盛にともない生まれた伝説の一つで、本当に登山をしたという確証はない。太子は達磨に会ったという逸話もある。達磨の方が太子よりも一世代も前の人だが、太子の前世が中国・天台宗の高僧・南嶽慧思であるという。この慧思が達磨の教えを受けて、日本に転生して仏教を広めにきたという。時代は北魏末の仏教文化が衰退するので、東伝の布教するためであった。

シャンソンの日

5969788 1990年のこの日、銀座のシャンソン喫茶の老舗「銀巴里」が閉店した。

   日本にシャンソンが紹介されたのは、昭和2年11月15日に宝塚少女歌劇団がグランド・レビュー「モン・パリ」を初演したときで、以後「パリゼット」「花詩集」などの主題歌として歌われた。そして無声映画時代「巴里の屋根の下」「巴里祭」など映画主題歌のシャンソンも流行した。またダミアの「暗い日曜日」「人の気も知らないで」が淡谷のり子の歌謡でヒットした。戦後、昭和30年にイベット・ジローが来日して、シャンソン・ブームが起った。そしてエディット・ピアフ、イブ・モンタン、ジャクリーヌ・フランソアの歌がラジオから流れた。銀座にはシャンソン喫茶「銀巴里」が出現、石井好子や越路吹雪らが活躍した。岩谷時子による訳詩もシャンソンの大衆化に貢献した。シャルル・アズナブール、エンリコ・マシアス、サルバトーレ・アダモら若手も登場した。なかでもアダモは「サン・トワ・マミー」「雪が降る」など日本で最も愛されたシャンソン歌手といえる。シャンソン歌手にはフランスだけでなく他国出身者も多い。イブ・モンタン、アダモはイタリア生れ。エンリコ・マシアスはアルジェリア生れのユダヤ人。(12月29日)

2016年12月28日 (水)

「わ」ファースト・ネームから引く人名一覧

Wattylersculpturebyrobertworley  「ワット・タイラー」イギリスの農民一揆の指導者。1381年、ロンドン市長の謀略によって斬殺される。▽「ワイアット・アープ」OK牧場の決闘で知られる保安官。▽「ワイナ・カパック」インカ帝国11代皇帝。▽「ワシーリー・ドクチャ―エフ」気候や生物の影響を受けて土壌が生成されるという近代土壌学を最初に提唱したロシアの地質学者。▽「ワヒディン・スディロフソド」インドネシアの医師、民族主義運動の先覚者。▽「ワン・ワイタヤコーン」タイ国の外相。1891-1976。Wan Waithayakon

ワイアット・アープ
ワイナ・カパック
ワイルド・ビル・ヒコック
ワシリー・アクショーノフ
ワシリー・カンディンスキー
ワシリー・ドクチャーエフ
ワシントン・アーヴィング
ワチラロンコン
ワーナー・バクスター
ワヒディン・スディロフソド
ワールター・グロピウス
ワルガシュ
ワレンチナ・テレシコワ
ワンへレーラ
ワン・ワイタヤコーン

名は人の運命を左右する

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謎の戦艦陸奥(新東宝 昭和35年) 小畑絹子 天知茂

   天知茂といえば眼光鋭く眉間の皴と陰のあるニヒルな魅力で人気のあった大スター。本名は臼井登(うすいのぼる)といい、昭和24年京都の松竹の大部屋俳優だった。通行人ばかりで人からその名のとおり「陰がうすい」といわれた。昭和26年、新東宝のニューフェースに合格、芸名を天知茂に変えた。名古屋出身の天知は中日ドラゴンズの天知俊一と杉下茂投手から名前をパクった。以後、ニヒルな悪役で準主役級になり、「東海道四谷怪談」でスターとしての地位を築いた。テレビでは「非情のライセンス」のハードボイルドな刑事や明智小五郎シリーズで人気を不動のものにした。

    実名と芸名と2つの名前を持つことは幸福になることが多い。実名は呪詛を封じるため忌み名として隠しておく。名前を変えることで、幸運をつかんだ事例は芸能界には枚挙にいとまない。「美空ひばり」「松田聖子」が本名のまま活動していたら、あるいはあれほどに人気はでなかったかもしれない。名は人の運命を左右する力がある。

   ドラマ「刑事コロンボ」も「刑事コロンブス」だとあれほど世界でヒットしなかっただろう。英語で Christopher Columbusと表記するが、イタリアでは Christoforo Colombo。つまりイタリア移民色を前面に出したことがヒットの要因の一つと考えられる。

八百屋お七に焼かれた芭蕉庵

    枯枝に烏のとまりたるや秋の暮

    延宝8年、深川に移る。これが芭蕉庵の始まりである。天和2年3月、「武蔵曲」においてはじめて芭蕉の号を用いた。この年12月28日、駒込の大円寺を火元とする大火(お七火事)があって、芭蕉庵も類焼した。芭蕉は辛うじて難を免れ、門人高山麋榯に招かれて甲斐国谷村の高山邸に身をよせ、ここに半年あまり寓居した。翌年5月江戸に帰ったが、其角によれば、この災難によって芭蕉は「猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発」したという。6月には郷里の実母の死去の悲報に接し、冬には素堂ら友人門弟の勧進によって新庵が落成し、ここに落着いた。このころから芭蕉の人生観、俳諧観が大きく変わったものと考えられる。

31  朝顔は 酒盛知らぬ盛りかな

32  蕣は 下手のかくさへ哀なり

33 朝茶のむ 僧静なり菊の花

34 朝露に汚れて涼し瓜の泥

35 朝な朝な 手習すすむきりぎりす

36 あさむつや 月見の旅の明けばなれ

37 あさよさを 誰まつ島ぞ片心

38 紫陽花や 帷子時の薄浅黄

39 明日は粽 難波の枯葉夢なれや

40 遊び来ぬ 鱁釣りかねて七里迄

2016年12月27日 (火)

チャオプラヤー・チャクリー

   今年10月、タイのプミポン国王が88歳でご逝去された。チャクリ朝のラーマ9世である。チャクリ朝の始祖はチャオプラヤー・チャクリー(1737-1809)である。アユタヤ朝がビルマに占領されると、1768年にタークシンがこれを駆逐して、トンプリー朝を起こして王位に就く。このときチャオプラヤー・チャクリーは部将として国王に仕えた。晩年、王が精神錯乱に陥ったとき、チャオプラヤーは国内の混乱をおそれて、王位に就く。これが現シャム王朝(チャクリ朝)ラーマ1世である。ルワンヨック・クラバット、プッタヨートファーチュラーローク、トーン・ドゥワンなど様々な名前で呼ばれる。ラーマ1世は首都をトンプリーからバンコクに移転した。熱心な仏教徒としてワット・プラケオなど多くの寺院を建立したほか、アユタヤ朝崩壊後に散逸した法典を新たに「三印法典」として編纂させた。

小野道風忌日

Photo_2    漢字の和様化をなしとげた平安時代の能書家小野道風(894-966)は国民にたいへん親しまれた人物である。それは柳の枝に飛びつこうとして幾たびも跳躍を試みる蛙を見て発奮、精進の結果ついに書道の奥義を極めたという逸話によるものであろう。しかしその生涯には謎が多い。道風は小野妹子の子孫で、小野篁の孫、大宰大弐小野葛絃の子である。その生年は「日本紀略」によって寛平6年に生まれ、康保3年、73歳で没したことは定説になっている。名の「道風」は本来、「みちかぜ」と訓読すべきであるが、「とうふう」と音読しているのは、唐風化の影響である。しかしながら、道風の生まれた寛平6年には菅原道真の建議により、遣唐使の派遣が停止され、道風が生きた時代は国風化が流行したときである。また若いときから書道家として認められたが、生涯官位は低く73歳で没したとき、正四位下内蔵権頭にすぎなかった。小野妹子の末裔にしては不自然であろう。生まれは愛知県の春日井市と伝えられる。小野葛絃(くずお)が任地の時、里人の娘との間に生まれたのが、小野東風だというのである。この説は尾張藩士天野信景による「塩尻」に記述され、それをうけて松平君山が「張州府志」で小野道風生誕地と述べ、以後尾張藩諸学者の通説のようになった。現在、春日井市には「道風記念館」があり、ゆるキャラの「道風くん」まで生まれた。だが、本当に道風が春日井市出身が史実であるかは疑わしい。(12月27日)

2016年12月26日 (月)

地下鉄で見かけた美女

   映画「彼が二度愛したS」(2008年)。ニューヨークウォール街で真面目に働く青年ユアン・マクレガー。遊び人のヒュー・ジャクマンと歓楽街へ。そこで彼のケータイを取り違える。ある日、そのケータイに見知らぬ女から誘いの電話がかかってくる。そこにはおそるべき罠があった。官能的な娼婦Sにミッシェル・ウィリアムが扮する。もう若くないが魅力的なムードをもつ。新作「フランス組曲」でもヒロインになっている。

世界史の文献目録

20thcentury    人類の発生から今日にいたる人間の生活のいとなみと政治や社会の発展の過程を知ることによって、歴史的思考力を養うことは重要である。すべての人は自国だけでなく世界全体についての知識が求められている。およそ100年間にわたる世界史の基本図書を整理してみよう。

世界歴史譚 博文館 1909
通俗世界全史 全19巻 早稲田大学出版部 1915
世界興亡史論 レオナルド・フォン・ランケ著 川村堅固訳 平凡社 1930
世界古代文化史 全6巻 東京堂 1931
世界歴史大系 全26巻 鈴木俊ほか 平凡社 1933-1936
世界文明史物語 ヘンドリック・ヴァン・ルーン著 前田晁訳 早稲田大学出版部 1933
世界文化史概観 上下 岩波新書 ウェルズ著 長谷部文雄訳 岩波書店 1939
 3冊 山川敏夫ほか著 河出書房 1942
世界の歴史 全6巻 毎日新聞社 1947-1954
世界史のおける東洋社会 飯塚浩二 毎日新聞社 1948
世界文化史 1・2 北川三郎著 大鐙閣 1949
詳解世界史 木村正雄 昇龍堂 1951
世界史 村川堅太郎・江波波夫共著 山川出版社 1951
世界歴史地図 亀井高孝ほか編 吉川弘文館 1952
世界歴史講座 全6巻 民主主義科学者協会歴史部会編 三一書房 1953-1954
世界文化交流史 伊瀬仙太郎 金星堂 1953
世界史の研究 中崎米次 堀書店 1954
世界文化史物語 図説文庫 富永次郎 偕成社 1954
世界文化地理大系 平凡社 1954-58
世界史におけるアジア 歴史学研究会 1955
世界歴史事典 全25巻 平凡社 1955
少年少女世界史物語 全6巻 朝日新聞社 1955
世界文化史年表 加茂儀一編 三省堂 1956
世界史における現代のアジア 上原専禄 未来社 1956
世界史大系 全17巻 誠文堂新光社 1958-1960
世界文学大系 全96巻+別巻2 筑摩書房 1958-1968
図説世界文化史大系 全27巻 角川書店 1958-1961
世界文明史物語 上下 ヴァン・ルーン著 角川文庫
世界史の基礎研究 岸辺成雄・藤田重行著 山田書院 1959
要約世界史 根本誠、五十嵐久仁平著 旺文社 1959
歴史 全17巻 中央公論社 1960
世界考古学大系 全16巻 大修館書店 1960
世界史 大学教養演習講座 吉岡力編 青林書院 1960
世界の歴史 全17巻 筑摩書房 1960
世界の歴史 目で見る学習百科9 尾鍋輝彦 偕成社 1960
世界の歴史 全8巻 ホームスクール版 中央公論社 1962
世界文化交流史 伊瀬仙太郎 金星堂 1963
世界文化史物語 少年少女・世界の名著11 ウェルズ著 金沢誠訳 偕成社 1964
世界史の基礎 バイタルズシリーズ 鈴木健一 研数書院 1965
世界歴史 全7巻 人文書院 1965
ライフ人間世界史 全21巻 タイムライフブックス 1966
世界史の研究 吉岡力 旺文社 1967
大世界史 全26巻 文芸春秋 1967-1968
世界の文化史蹟 全16巻 講談社 1967
世界歴史シリーズ 全23巻 世界文化社 1968
目で見る大世界史 全18巻 国際情報社 1968
世界の歴史 カラー版 全26巻 河出書房 1968
世界の歴史 全12巻 集英社 1968
世界の歴史 全17巻 中公バックス 1968
世界の歴史 年表要説 現代教養文庫 三浦一郎・金沢誠編 社会思想社 1968
アシェット版・世界の生活史 全23巻 河出書房 1976
日本と世界の歴史 全22巻 学習研究社 1969
デュラント世界の歴史 全32巻 日本メールオーダー 1969
岩波講座世界歴史 全31巻 岩波書店編 岩波書店 1969-1974
世界歴史シリーズ 世界文化社 1969
沈黙の世界史 全13巻 新潮社 1970
世界古代史双書 全10巻 創元社 1971
新しい世界史の見方 謝世輝 講談社 1972
岩波講座世界歴史 31 総目次・総索引 岩波書店 1974
世界の歴史 現代教養文庫 全12巻 社会思想社 1974
ランドマーク世界史 全15巻 講談社 1975
世界の歴史 全25巻 講談社 1976
世界歴史 図詳ガッケン・エリア教科事典3 学習研究社編 学習研究社 1976
世界の民族 大林太良監修 平凡社 1979
世界歴史地図 朝日タイムズ G・バラクラフ総監修 朝日新聞社 1979
ビジュアル版・世界の歴史 全20巻 講談社 1984
世界の戦争 全10巻 講談社 1985
世界歴史大事典 全22巻 江上波夫・梅棹忠夫監修 教育出版センター 1986
世界文化小史 角川文庫 ウェルズ著 下田直春訳 角川書店 1991
戦争の世界史 技術と軍隊と社会 ウィリアム・ハーディー・マクニール著 刀水書房 2002
人類と家畜の世界史 ブライアン・フェイガン著 河出書房新社 2016
図説世界史を変えた50の指導者(リーダー) チャールズ・フィリップス著 原書房 2016
性病の世界史 ビルギット・アタム著 瀬野文教訳 草思社 2016
マクニール世界史講義 ウィリアム・ハーディー・マクニール著 筑摩書房 2016

美保関事件、水城圭次艦長の死

Navymizuki01     水城圭次(みずしろけいじ、1883-1927)は、長野県出身、海軍大佐。軽巡洋艦「神通」の艦長であった。大正10年のワシントン条約により、日本の海軍軍艦保有量が米・英の5に対して3に抑えられた。このハンディを猛訓練で補おうと、台風が近づく中、夜間演習を行っていた。昭和2年8月24日、島根県美保関沖で軽巡洋艦「神通」(水城圭次艦長)と駆逐艦「蕨」(五十嵐恵艦長)と衝突、「蕨」は火災をおこして船体が二つに折れ沈没、「神通」も艦首を大破した。駆逐艦「葦」も巡洋艦「那珂」と衝突し、両艦とも大破した。この海難事故(美保ヶ関事件)で「蕨」が92名、「葦」が27名の死者が出た。「蕨」の艦長は死亡したため、事故後の査問に対して、神通艦長・水城が、119名の犠牲者を出した事故の責任すべてを一身に背負うことになった。軍法会議の判決の出る前日、12月26日、水城は自宅で自決した。過重な訓練を課した連合艦隊司令長官・加藤寛治(1870-1939)や参謀への責任を問うことはなかった。帝国海軍最大の汚点といわれる。その後「神通」は船首をクリッパー型に代えて、太平洋戦争中で活躍したことがせめてもの救いであった。

2016年12月25日 (日)

チャンドラグプタ

   世界中の人名や地名には言いにくかったり覚えにくいものが無数にある。チャンドラグプタは古代インド・マウリア朝の始祖。アウラングゼーブはムガル帝国第6代の皇帝。ダルマトゥンガはシャイレンドラ朝の王でボロブドゥールを建設。ジャヤバルマン7世はクメール朝の王でアンコール・トムを建設。ペーダー・シューマッカ・グリッフェンフィルドは17世紀デンマークの宰相。タイの国王にはとても長い名前がある。ラーマ1世はプッタヨートファーチュラ―ローク。スリランカの首都スリジャワルダナプラコッテ、モーリタニアの首都ヌアクショット、ブルネイの首都バンタルスリブガワンは三大語呂の良い首都。

中国史関係文献目録

20120716_660715   高度な文明を始まりとして、東アジア世界の中心に君臨した中華帝国。6000年という悠久の歴史の中で中国は、数多くの王朝が興亡を繰り返した。現在に至るまでの歴史はどのような展開をしたのであろうか。中国史の時代区分の問題については、わが国では現在二つの見方が行われている。

    一つは内藤湖南(1866-1934)による説で、彼は唐宋の間に中国の社会・文化は一大転換をとげたとみ、それまでを古代、以後を近世とした。貴族階級の消滅、したがって貴族政治の終焉、君主独裁制の確立、庶民文化の向上・発展などがこの時に行われたとみたのである。この内藤説は、主として彼の教えを受けた京都の東洋史学者の間に継承されてきている。もっとも後漢末より唐末までを、内藤は中古という呼び方をしているから、後の学者にはこれを中世とみなしている。しかし彼らも近世の設定については、ほぼ内藤説をそのまま承認しているのである。

    一方、第二次世界大戦後、前田直典(1915-49)が、唐宋間に大きな変化があったことは認めるとしても、唐末までを古代、宋以後を中世とすべきであるという説をたてた。 前田の主張は生産関係に注目し、唐末までは大土地所有者の土地が奴隷によって耕作され、一般農民が徭役など半奴隷的収奪を受けており、宋からはそれが農奴使用による耕作へと変化したとみたのである。

   ところで中国では、1930年代に唯物史観の影響を受け社会史論戦なるものが起こり、多くの学者が色々な発展段階説によって時代区分をたてた。一般に奴隷制を古代、封建制を中世、資本制を近代と一応規定したが、それらを現実に中国史に当てはめる点では種々の主張が現れた。代表的な郭沫若(1892-1979)の説を例にとると、殷以前を原始共産制、西周期を奴隷制、春秋以後アヘン戦争までを封建制、以後を近代としている。現在の中国の大学テキストを調べてみても復旦大学「中国通論」(1986年刊行)などは原始社会、夏朝・商朝・西周・春秋を奴隷社会、戦国・秦漢から清末までを封建社会、以後を近代社会としていることから、おおむね郭沫若の説が定説となっていることがわかる。

    現在では時代区分論争は、日本における二つの主張、中国人の種々の考え方とともに結論を得ることなく実りある成果なく消滅したと言わざるを得ない。(参考:「東洋史概説」佛教大学)

  中国史関係文献目録

支那開化小史 田口卯吉 嵩山房 1888
支那通史 5冊 那珂通世 大日本図書株式会社 1888
支那史 6巻 市村讃次郎、滝川亀太郎 1888~1892
中学中国歴史教科書 夏曾佑 1902(のちに改題「中国古代史」)
中国歴史教科書第1冊 夏曾佑 金港堂 1905
通俗西漢紀事 通俗東漢紀事 通俗21史3 称好軒徽庵著 早稲田大学出版部 1911
清史稿 趙爾巽・柯劭忞等編 1914~1928
東洋史学要書目録 那珂通世 大日本図書株式会社 1915
史記・漢籍国字解全書本 8冊 桂五十郎、菊池三九郎、松平康国、牧野謙次郎 早稲田大学出版部 1919-1920
支那古代社会史論 郭沫若 藤枝丈夫訳 内外社 1921
史記・国訳漢文大成13・14・15・16  公田連太郎・箭内亘共著 国民文庫刊行会 1922
支那古代史論 東洋文庫論叢5 飯島忠夫 東洋文庫 1925
東洋文化の研究 松本文三郎 岩波書店 1926
制度史 瞿兌之 広業書社 1928
支那古代史 フリードリッヒ・ヒルト 西山栄久訳補 丙午出版社 1929
史漢研究 鄭鶴声 商務印書館 1930
中国古代社会研究 郭沫若 上海連合書房 1930
東洋史概説 松井等 共立社 1930
東洋史概説 白鳥清 大観堂 1930
漢晋西陲木簡彙編 張鳳 有正書局 1931
世界古代文化史1 緒論・先史時代概観・アジア文化 西村真次 東京堂 1931
古代文化論 松本信広 共立社 1932
古代文化史 J・H・ブレステッド著 間埼万里訳 刀江書院 1933
中国古代史 賈曾佑 1933
史学及東洋史の研究 中山久四郎 賢文館 1934
城子崖 中国考古報告集1 李済・梁思永著 国立中央研究院歴史語言研究所 1934
秦漢経済史稿 中国史学叢書 馬元材 商務印書館 1934 
東洋文明発生時代 第1期前編 東洋史講座2 橋本増吉 雄山閣 1934
支那史概説 上 岡崎文夫 弘文堂書房 1935
世界歴史大系3 東洋古代史 橋本増吉 平凡社 1935
世界歴史大系11 朝鮮・満州史 稲葉岩吉・矢野仁一 平凡社 1935
中国古代史  大学叢書 夏曾佑 商務印書館 1935
中国文化史 柳詒徴 鍾山書局 1935
東洋史講座7 漢人復興時代 高桑駒吉、有高巌 雄山閣 1935 
西漢社会経済研究  陳嘯江 新生命書局 1936
戦国式銅器の研究 東方文化学院京都研究所研究報告7 梅原末治 1936
周秦漢三代の古紐研究 上・下 高畑彦次郎 京都・東方文化学院京都研究所 1937
古代の支那 支那正史1 オットー・フランケ著 高山洋吉訳 東学社 1938
古代北方系文物の研究 梅原末治 京都・星野書店 1938
支那通史 上中下 岩波文庫 那珂通世著 和田清訳 岩波書店 1938
世界歴史大年表 改訂普及版 鈴木俊・井上幸治・宮城良造編 平凡社 1938
アロー戦争と円明園(支那外交史とイギリス2) 矢野仁一 弘文堂 1939
支那地方自治発達史 和田清編 中華民国法制研究会(中央大学出版部) 1939
東洋史概観 上野菊爾 清教社 1939
漢書及補注綜合引得 燕京大学引得編纂処編 1940
古代の蒙古 支那歴史地理叢書5 内田吟風 冨山房 1940
隋唐制度淵源略論稿 陳寅恪 商務印書館 1940
漢土の王道思想 亘理章三郎 金港堂 1941
近世満州開拓史 満州事情案内所 新京 1941
近世欧羅巴植民史 1 大川周明 慶応書房 1941
支那古代史論 補訂版 飯島忠夫 恒星社 1941
東洋史観 鳥山喜一 宝文館 1941
秦漢時代政治史 支那地理歴史体系4 宇都宮清吉 白揚社 1943
アジア全史 ハーバーツ・H・ガウェン 白揚社 1944
亜細亜遊牧民族史 ルネ・グルセ 後藤十三雄訳 山一書房 1944
春秋繁露通検(盧文弨抱経堂校定本)  中法漢学研究所 1944
中国古代史学の発展 貝塚茂樹 弘文堂書房 1946
東亜の古代文化 梅原末治 養徳社 1946
秦漢史 上下 呂思勉 開明書店 1947
新観東洋史潮 有高巌 開成館 1947
漢代土地制度 王恒 正中書局 1947
中国古代文化史研究1 史学選書1 橋本増吉 鎌倉書房 1947
中国史鋼 翦伯賛 生活書店 1947
中国中古の文化 教養文庫 内藤虎次郎 弘文堂書房 1947
世界史における東洋社会 飯塚浩二 福村書店 1948
明代建州女直史研究 園田一亀 東洋文庫 1948
漢の武帝 岩波新書 吉川幸次郎 岩波書店 1949
居延漢簡考釈 釈文之部1・2 労榦 国立中央研究院歴史語言研究所専刊21 1949
古代の世界 木村正雄 金星堂 1950
中国史概説 岩波全書 上下 和田清 岩波書店 1950
中国史綱 翦伯賛 三聯書店 1950
中国史綱 2 秦漢史 翦伯賛 三聯書店 1950
貴族社会 京大東洋史2 外山軍治 内田吟風ほか著 創元社 1951
古代帝国の成立 京大東洋史1 宮崎市定、宇都宮清吉ほか著 創元社 1951
西廂記 塩谷温 昌平堂 1951
ユーラシア古代北方文化 江上波夫 山川出版社 1951
支那史概説 上 岡崎文夫 弘文堂 1952
秦漢史 労榦 中華文化出版事業社 1952
中国の古代国家 アテネ文庫 貝塚茂樹 弘文堂 1952
匈奴史研究 内田吟風 創元社 1953
中国史 京大東洋史 上下 外山軍治ほか 創元社 1953
新中国 岩村三千夫 要書房 1953
新中国 目ざめた五億の人人 村上知行 櫻井書店 1953
新中国 木村荘十二 東峰書房 1953
東洋史学論集 東京教育大学東洋史学研究室編 清水書院 1953
古代北方文化の研究 角田文衛 祖国社 1954
中国史 世界各国史9 鈴木俊編 山川出版社 1954
中国土地制度史研究 周藤吉之 東京大学出版会 1954
目で見る歴史 日本・東洋・西洋 毎日新聞社 1954
アジア史講座 6巻 田村実造・羽田明監修 岩崎書店 1955-1957
殷墟発掘 胡厚宣 学習生活出版社 1955
簡明中国通史 呂振羽 人民出版社 1955
史可法 魏宏運 新知識 1955
秦会要訂補 孫楷、除復訂補 上海・群聯出版社 1955
中国古代史概観 ハーバート・燕京・同志社東方文化講座8 宮崎市定 1955
中国古代漆器図案選 北京歴史博物館編 北京・栄宝斎新記 1955
中国史 国民文庫 ソヴエト大百科事典 山田茂勝訳 国民文庫社 1955
中国史 1・2・3 アジア史講座 田村実造・羽田明監修 岩崎書店 1955
西ウイグル国史の研究 安部健夫 京大人文科学研究所 1955
近世のアジア 絵で見る世界史7 小島真治、小山正明 国民図書刊行会 1956
世界史におけるアジア 現代アジア史4 大月書店 1956
東洋史 NHK教養大学 和田清 宝文館 1956
アジア史研究 第1 宮崎市定 京都・東洋史研究会 1957
居延漢簡 図版之部 台北・国立中央研究院歴史語言研究所専刊40 労榦 1957
古代殷帝国 貝塚茂樹編 みすず書房 1957
司馬遷与史記 文史哲雑誌編輯委員会編 北京・中華書局 1957
秦漢史 瞿益錯 華北編訳館 1957
中国古代の社会と文化 中国古代史研究会編 東京大学出版会 1957
中国史学史 金毓黻  商務印書館 1957
中国史学論文索引 中国科学院歴史研究所第一、二所 北京大学歴史系合編 科学出版社 1957
中国史の時代区分 鈴木俊・西島定生編 東京大学出版会 1957
中国歴代口語文 太田辰夫 江南書院 1957
東洋史 榎一雄・鎌田重雄 小川書店 1957
東洋史 小竹文夫・鈴木俊編 有信堂 1957
居延漢簡 釈文之部   労榦 台北・国立中央研究所歴史語言研究所専刊21  1958
商鞅変法 楊寛 上海人民出版社 1958
新・韓非子物語 中国古典物語6  千田久一 河出書房新社 1958
新唐書吐蕃伝箋証 王忠 科学出版社 1958
西漢経済史料論叢 陳直 陝西人民出版社 1958
中国史談 全6冊 奥野信太郎・佐藤春夫・増田渉 河出書房新社 1958-59
中国通史 第1編上 范文蘭瀾著 貝塚茂樹・陳顕明訳 岩波書店 1958
秦会要訂補 孫楷 中華書局 1957
十六国彊域志 洪亮吉撰 商務印書館 1958
十六国春秋輯補 湯球撰 商務印書館 1958
アジア史研究 第2 宮崎市定 京都・東洋史研究会 1959
アジア歴史事典 平凡社編 平凡社 1959-62
居延漢簡甲編 中国科学院考古研究所編 科学出版社 1959
史記 中華書局標点本 10冊 中華書局 1959
秦末農民戦争史略 劉開揚 商務印書館 1959
隋唐五代史 呂思勉 中華書局 1959
中国史十話 世界の歴史1 植村清二 中村書店 1959
古代文明の発見 世界の歴史1 貝塚茂樹編 中央公論社 1960
秦漢思想史研究 金谷治 日本学術振興会 1960
秦漢史の研究 栗原朋信 吉川弘文館 1960
中国古代の社会と国家 秦漢帝国成立過程の社会史的研究 増淵竜夫 弘文堂 1960
後漢書語彙集成 上中下 藤田至善編 京都大学人文科学研究所 1960-62
漢書補注弁証 施之弁 香港・新亜研究所 1961
古代史講座 13巻 学生社 1961-66
史前期中国社会研究 呂振羽 三聯書店 1961
新中国的考古収穫 中国科学院考古研究所 北京・科学出版社 1961
隋唐五代史 呂史勉 中華書局 1961
中国古代帝国の形成と構造 二十等爵制の研究 西嶋定生 東京大学出版会 1961
唐とインド 世界の歴史4  塚本義隆編 中央公論社 1961
ゆらぐ中華帝国 世界の歴史11 筑摩書房 1961
漢書 全12冊 校点本 中華書局 1962
中国古代工業史の研究 佐藤武敏 吉川弘文館 1962
古代文明の形成 古代史講座3 学生社 1962
古中国と新中国 カルピス文化叢書4 矢野仁一 カルピス食品工業株式会社 1962
アジア史研究 第3 宮崎市定 京都・東洋史研究会 1963
古代の商業と工業 古代史講座9 学生社 1963
古代の土地制度 古代史講座8 学生社 1963
史論史話 1 鎌田重雄 南雲堂エルガ社 1963
The Ancient east(古代の東洋) D・G・Hogarth 丸善 1963
中国史学論文引得 1902年ー1962年 余秉権編 香港・亜東学社 1963
アジア史研究 第4 宮崎市定 京都・東洋史研究会 1964
朱元璋伝 呉晗 三聯書店 1964
中国征服王朝の研究 上中下 田村実造 京都大学東洋史研究会 1964
中国の歴史 上中下 岩波新書 貝塚茂樹 岩波書店 1964
古代中国 文庫クセジュ ジャック・ジェルネ 福井文雅訳 白水社 1965
古代における政治と民衆 古代史講座11 学生社 1965
楊貴妃伝 井上靖 中央公論社 1965
中国古代帝国の形成 特にその成立の基礎条件 木村正雄 不昧堂書店 1965
永楽帝 中国人物叢書10  寺田隆信 人物往来社 1966
漢書索引 黄福鑾 香港・中文大学崇基書院遠東学術研究所 1966
漢の高祖 中国人物叢書第二期1 河地重造 人物往来社 1966
中国文化の成立 東洋の歴史1 水野清一、樋口隆康、伊藤道治、岡田芳三郎 人物往来社 1966
秦漢帝国 東洋の歴史3 日比野丈夫、米田賢次郎、大庭脩 人物往来社 1966
秦漢隋唐史の研究 上下 浜口重国 東京大学出版会 1966
新中国あんない 日中友好代表団編 法蔵館 1966
殷墟卜辞綜類 島邦男 大安 1967
古代殷王朝のなぞ 角川新書 伊藤道治 角川書店 1967
古代トルコ民族史研究1 護雅夫 山川出版社 1967
古代の復活 貝塚茂樹 講談社 1967
史記1 項羽本紀、伯夷列伝、魏公子列伝 大安 1967
史論史話 2 鎌田重雄 新生社 1967
中国古代の田制と税法 秦漢経済史研究 平中苓次 東洋史研究会 1967
武王伐紂王平話・七国春秋平話語彙索引 古屋二夫編著 采華書林 1967 
奴児哈赤 中国人物叢書 若松寛 人物往来社 1967
古代文明の発見 世界の歴史1 中公バックス 貝塚茂樹編 中央公論社 1968
史記 上 中国古典文学大系10 野口定男・近藤光男他訳 平凡社 1968
秦漢史 李源澄 台北・商務印書館 1968
瞽説史記 村松暎 中央公論社 1968
中国古代の家族と国家 守屋美都雄 東洋史研究会 1968
中国史文鈔 大野実之助編 早稲田大学出版部 1968
モンゴル帝国史 1・2(東洋文庫) C・ドーソン 平凡社 1968-1975
乱世の英雄 桃源選書 栗原益男 桃源社 1968
五四運動 紀伊国屋新書 丸山松幸 紀伊国屋書店 1969
中華帝国の崩壊 世界歴史シリーズ20   世界文化社 1969
中国史研究 第1 佐伯富編 東洋史研究会 1969
中国の近代 世界の歴史20 市古宙三 河出書房新社 1969
中国文化の成熟 世界歴史シリーズ15 世界文化社 1969
中国チベット蒙古古代史考 三木偵、渋沢均 鷺の宮書房 1969
モンゴル帝国 世界歴史シリーズ12 世界文化社 1969
アジア史論 上 白鳥庫吉全集8 岩波書店 1970
漢代代田賦与土地問題 呉慶顕 油印本 1970
漢とローマ 東西文明の交流1 護雅夫編 平凡社 1970
陳書 和刻本正史 長沢規矩也解題 汲古書院 1970
後漢書 中国古典新書 藤田至善 明徳出版社 1970
東洋史研究 歴史地理篇 森鹿三 東洋史研究会 1970
鑑真 東洋美術選書 杉山二郎 三彩社 1971
アジアの歴史 松田壽男 日本放送出版協会 1971
後漢書 1~3 和刻本正史 長沢規矩也解題 古典研究会 1971-72
古代北方系文物の研究(復刻) 梅原末治 新時代社 1971
中国古代文明 世界古代史双書10  ウィリアム・ワトソン著 永田英正訳 創元社 1971
漢書 和刻本正史 評林本 古典保存会 汲古書院 1972
周秦漢政治社会結構之研究 徐復観 香港・新亜研究所 1972
乱世の英雄 史記2 司馬遷 奥平卓・守屋範太共訳 徳間書店 1972
漢代之長安与洛陽 馬先醒 油印本 1972
中国の先史時代 考古学選書6 松崎寿和 雄山閣出版 1972
中国の歴史と民衆 増井経夫 吉川弘文館 1972
隋書 全3冊 魏征、令狐徳棻撰 中華書局 1973
中国近代史論文資料索引 1960~1973.6  復旦大学歴史系資料室 1973
中国古代史教学参考地図 北京大学歴史系編 1973
中国神話の起源 角川文庫 貝塚茂樹 角川書店 1973
中国と中国人 岡田武彦 啓学出版 1973
中国歴史に生きる思想 重沢俊郎 日中出版 1973
漢代的以夷制夷政策 刑義田 油印本 1973
アジア専制帝国 世界の歴史8 現代教養文庫 山本達郎、山口修 社会思想社 1974
元・明 中国の歴史6 愛宕松男・寺田隆信 講談社 1974
古代文明の発見 世界の歴史1 中公文庫 貝塚茂樹編 中央公論社 1974
西蔵仏教研究 長尾雅人 岩波書店 1974
中国文明の形成 薮内清 岩波書店 1974
中国文明と内陸アジア 人類文化史4 三上次男・護雅夫・佐久間重男 講談社 1974 
中国の歴史 全13巻 講談社 1974~1975
乱世の詩人たち 「詩経」から毛沢東まで 松本一男 徳間書店 1974
ユーラシア東西交渉史論攷 鈴木治 国書刊行会 1974
古代の東アジア世界 江上波夫・松本清張編 読売新聞社 1975
司馬遷史記入門 勝者と敗者の人間百科 ダルマブックス 竹内照夫 日本文芸社 1975
新唐書 全10冊 欧陽脩・宋祁撰 中華書局 1975
中国地方自治発達史 和田清編 汲古書院 1975
中国土地契約文書集 金~清 東洋文庫 明代史研究室編 平凡社 1975
アジア史論考 上中下 宮崎市定 朝日新聞社 1976
漢書 中国詩文選8 福島吉彦 筑摩書房 1976
古代東アジアの国際交流 市民講座・日本古代文化入門5 江波波夫・松本清張編 読売新聞社 1976
史記 南宋・黄善夫本(百衲本二十四史所収影印本上・下) 台湾商務印書館 1976
中国近代史論文資料篇目索引 杭州大学歴史系中国古代史近代史組 1976
中国古代文化 今枝二郎 高文堂出版社 1976
中国古代史論集 楠山修作 海南・著者刊 1976
中国史稿 第1冊 郭沫若 人民出版社 1976
中国の歴史 全15巻 陳舜臣 平凡社 1976
中国の歴史 貝塚茂樹著作集8 中央公論社 1976
漢史文献類目 増訂版 馬先醒編 簡牘社 1976
中国の古代国家 貝塚茂樹著作集 中央公論社 1976
漢書 上中下 小竹武夫訳 筑摩書房 1977-79
漢書 3冊 国宝宋慶元本 平中博士追悼出版委員会編 朋友書店 1977
門閥社会成立史 矢野主税 国書刊行会 1976
古代の中国 世界の歴史4 堀敏一 講談社 1977
古代の東アジアと日本 教育社歴史新書 佐伯有清 教育社 1977
中国近代史歴表 宋孟源編 中華書局 1977
中国古代中世史研究 東洋学叢書 宇都宮清吉 創文社 1977
中国の後宮 大空不二男 竜渓書舎 1977
秦漢帝国の威容 図説中国の歴史2  大庭脩 講談社 1977
中国史と日本 三島一 新評論 1977
中国史 上 岩波全書 宮崎市定 岩波書店 1977
アジア史研究 第5 宮崎市定 同朋舎 1978
古代東アジア史論集 上下 末松保和博士古稀記念会編 吉川弘文館 1978
中国文明の原像 上下 放送ライブラリー 宮川寅雄・関野雄・長広敏雄編 日本放送出版協会 1978
秦漢帝国史研究 好並隆司 未来社 1978
秦漢思想研究文献目録 坂出祥伸編 関西大学出版広報部 1978
中国史 下 岩波全書 宮崎市定 岩波書店 1978
中国南北朝史研究 増補復刻 福島繁次郎 名著出版 1978
アジア史論 斎藤実郎 高文堂出版会 1979
アジア遊牧民族史 上・下 ユーラシア叢書 ルネ・グルセ 後藤富男訳 1979
漢書藝文志・隋書経籍志 楊家駱主編 台北・世界書局 1979
漢の武帝 教育社歴史新書・東洋史 影山剛 教育社 1979
史論史話 鎌田重雄 大学教育社 1979
中国歴代皇帝文献目録 国書刊行会編 国書刊行会 1979
乱世の皇帝 後周の世宗とその時代 栗原益男 桃源社 1979
中国古代再発見 岩波新書 貝塚茂樹 岩波書店 1979
中国古代の再発見 1978-1979年 NHK大学講座 貝塚茂樹 日本放送出版協会 1979
中国史学論文索引 第二編 中国科学院歴史研究所資料室編 中華書局 1979
漢書食貨志訳注 黒羽英男 明治書院 1980
中国古代史籍挙要 張舜徽 湖北人民出版社 1980
中国古代の「家」と国家 皇帝支配下の秩序構造 尾形勇 岩波書店 1979
中国古代の文化 講談社学術文庫 白川静 講談社 1979
中国史稿地図集 上冊 郭沫若 地図出版社 1979
中国史における革命と宗教 鈴木中正 東京大学出版会 1980
中国史における宗教受難史 ホロート著 牧尾良海訳 国書刊行会  1980
中国史における仏教 アーサー・F・ライト著 木村隆一・小林俊孝訳 第三文社 1980
中国歴代年表 斉召南著 山根伸三訳補 国書刊行会 1980
楊貴妃後伝 渡辺龍策 秀英書房 1980
北アジア史 世界各国史12・新版 護雅夫・神田信夫編 山川出版社 1981
五四運動 丸山松幸 紀伊国屋書店 1981
人物中国の歴史 陳舜臣編 集英社 1981
秦漢音楽史料 吉聯抗輯訳 上海文芸出版社 1981
秦漢思想史研究 増補復刊 金谷治 平楽寺書店 1981
西安史話 武伯綸・武復興 陝西人民出版社 1981
戦国時代の群像 人物中国の歴史3 司馬遼太郎 集英社 1981
大統一時代 秦・前漢(中国の歴史3) 陳舜臣 平凡社 1981
中国古代の社会と経済 歴史学選書 西嶋定生 東京大学出版会 1981
中国史 そのしたたかな軌跡 人間の世界歴史10 増井経夫 三省堂 1981
中国歴史の旅 陳舜臣 東方書店 1981
三国志 完訳 全8巻 羅貫中 岩波書店 1982-83
史学論文索引 1979~1981 上 北京師範大学歴史系資料室 中華書局 1982
秦漢法制史の研究 大庭脩 創文社 1982
中国人の自然観と美意識  東洋学叢書 笠原仲二 創文社 1982
アジア歴史研究入門 1~5 別巻 宮崎市定ほか編 同朋舎  1983-1987
秦始皇陵兵馬俑 田辺昭三監修 平凡社 1983
中国古代国家と東アジア世界 西嶋定生 東京大学出版会 1983
中国古代の東西交流 考古学選書21  横田禎昭 雄山閣 1983
中国史における社会と民衆 増淵龍夫先生退官記念論集 汲古書院 1983
アジア史論叢 市古宙三教授古稀記念会 中央大学白東史学会編 刀水書房 1984
古代殷帝国 貝塚茂樹編 みすず書房 1984
三国志 4 秋風五丈原 谷崎旭寿 新人物往来社 1984
支那通史 全3冊 岩波文庫 那珂通世著 和田清訳 岩波書店 1984
秦漢官制史稿 上下 安作璋・熊鉄基 山東・斉魯書社 1984
中国史大事紀年 蔵雲浦・王雲度・朱崇業・何振東・叶青 山東教育出版社 1984
中国の古代国家 中公文庫 貝塚茂樹 中央公論社 1984
中国の歴史書 中国史学史 刀水歴史全書20 増井経夫 刀水書房 1984
中国文明の起源 NHKブックス453 夏鼐著 小南一郎訳 日本放送出版協会 1984
司馬遷と「史記」の成立 大島利一 清水書院 1985
秦漢思想史の研究 町田三郎 創文社 1985
秦漢土地制度与階級関係 朱紹侯 中州古籍出版社 1985
秦始皇帝 A・コットレル 田島淳 河出書房新社 1985
秦都咸陽 秦漢史研究双書 王学理 陝西人民出版社 1985
西漢人物故事 倉陽卿、張企栄 浙江教育出版 1985
中国の歴史と故事 旺文社文庫 藤堂明保 旺文社 1985
中国文明の成立 ビジュアル版世界の歴史5 松丸道雄・永田英正 講談社 1985
東アジアの変貌 ビジュアル版世界の歴史11  小山正明 講談社 1985
楊貴妃・安禄山 現代視点・中国の群像7 旺文社編 旺文社 1985
五・四運動史像の再検討 中央大学出版部  1986
昭和の戦争9 アジアの反乱 丸山静雄 講談社 1986
秦兵馬俑 張文立編写 西安・西北大学出版社 1986
秦陵同車馬 劉雲輝編写 西安・西北大学出版社 1986
西漢人口地理 葛剣雄 北京・人民出版社 1986
中国古代を掘る 城郭都市の発展 中公新書 杉本憲司 中央公論社 1986
中国史における乱の構図 野口鉄郎編 雄山閣 1986
中国の英傑 10 洪秀全 ユートピアをめざして 小島晋治 集英社 1986
アジア史概論 中公文庫 宮崎市定 中央公論社  1987
女たちの中国 古代を彩る史話 李家正文 東方書店 1987
漢書藝文志 顧實講疏 上海古籍 1987
漢の武帝 中国の英傑3 福島吉彦 集英社 1987
中国からみた日本近大史  劉恵吾主編 早稲田大学出版部 1987
中国古代国家の支配構造 西周封建制度と金文 伊藤道治 中央公論社  1987
中国古代の身分制 明治大学人文科学研究所叢書 堀敏一 汲古書院 1987
中国の考古学 隋唐篇 岡崎敬 同朋舎 1987
新アジア学 板垣雄三、荒木重雄編 亜紀書房 1987
秦始皇帝とユダヤ人 鹿島曻 新国民社 1987
漢書古今人表疏證 王利器 斉魯 1988
漢武帝評伝 羅義俊 上海人民出版社 1988
古代中国の性生活 先史から明代まで R・H・ファン・フーリック 松平いを子訳 せりか書房 1988
中国古代史論 平凡社選書 宮崎市定 平凡社 1988
中国古代の法と社会 栗原益男先生古稀記念論集 汲古書院 1988
中国古代文明の謎 光文社文庫 工藤元男 光文社 1988
中国の歴史人物事典 中国の歴史別巻 集英社 1988
漢三国両晋南北朝の田制と税制 藤家禮之助 東海大学出版会 1989
秦漢帝国と稲作を始める倭人 マンガ日本の歴史1 石ノ森章太郎 中央公論社 1989
秦漢法制史論 堀毅 名著普及会 1989
真史ジンギス汗 谷崎旭寿 新人物往来社 1989
中国古代史を散歩する 李家正文 泰流社 1989
中国古代農業技術史研究 東洋史研究叢刊43 米田賢次郎 同朋舎  1989
中国の歴史と故事 徳間文庫 藤堂明保 徳間書店 1989
中国の歴史近・現代 全4巻 陳舜臣著 平凡社 1986-1991
アジア史を考える 田村実造 中央公論社 1990
アジア諸民族の歴史と文化 白鳥芳郎教授古稀記念論叢刊行会 六興出版 1990
漢書地名索引 陳家麟編 中華書局 1990
東洋史概説 岩見宏・清水稔編 佛教大学 1990
マンガ中国の歴史 陳舜臣・手塚治虫監修 中央公論社 1990
司馬遷 集英社文庫 林田慎之助 集英社 1991
中国古代国家論集 楠山修作 朋友書店 1991
中国の歴史と民俗 伊藤清司・大林太良ほか 第一書房 1991
中国文明史 ヴォルフラム・エーバーハルト著 大室幹緒・松平いを子訳 筑摩書房 1991
十八史略の人物列伝 守屋洋 プレジデント社 1992
図説中国近現代史 池田誠・安井三吉・副島昭一・西村成雄 法律文化社 1993
秦漢財政収入の研究 山田勝芳 汲古書院 1993
秦始皇陵研究 王学理 上海人民出版社 1994
中国古代漢族節日風情 中国文化史知識叢書44 朱啓新・朱篠新著 台湾商務印書館 1994
中國史1~5 松丸道雄ほか 山川出版社 1996
天空の玉座 中国古代帝国の朝政と儀礼 渡辺信一郎 柏書房 1996
三国志 英雄たちの100年戦争 瀬戸龍哉編 成美堂 1997
アジアと欧米世界 世界の歴史25 加藤祐三、川北稔 中央公論社  1998
中国史 新版世界各国史3 尾形勇・岸本美緒 山川出版社 1998
漢帝国の成立と劉邦集団 軍功受益階層の研究 李開元 汲古書院 2000
中国史論集 楠山修作 朋友書店 2001
中国史なるほど謎学事典 島崎晋 学習研究社 2001
すぐわかる中国の歴史 宇都木章監修 小田切英著 東京美術 2003
長城の中國史阪倉篤秀 講談社 2004
中国史のなかの諸民族 世界史リブレット 川本芳昭 山川出版社 2004
中国の歴史 全12巻 講談社 2004-2005
中国の歴史 上・下 愛宕元・冨谷至編 昭和堂 2005
清朝とは何か 別冊環16  岡田英弘編 藤原書店 2009
中国古代の財政と国家 渡辺信一郎 汲古書院 2010
中国の歴史 山本英史 河出書房新社 2010
史記秦漢史の研究 藤田勝久 汲古書院 2015
中国の歴史 濱下武志・・平勢隆郎編 有斐閣 2015
中国の歴史 ちくま学芸文庫 岸本美緒 筑摩書房 2015
性からよむ中国史 男女隔離・纏足・同性愛 スーザン・マン著 小浜正子訳 平凡社 2015
中国の文明3 北京大学版 潮出版社 2015
武帝 始皇帝をこえた皇帝 世界史リブレット人 冨田健之 吉川弘文館 2016
漢唐文化史 熊鉄基 湖南出版社
漢唐文化史論稿 汪籤 北京大学

 

サンタの服が赤いのは!? 

Photo_4     一般に、イエスは12月25日に生れたとされている。「クリスマス」は「キリストのミサ」、つまりキリスト降誕を祝うミサを意味する。しかし聖書にはイエスの誕生の日付は記されていない。12月25日は、農耕神サトゥルヌスを讃えるサトゥルナリア祭やローマのソルとペルシャのミトラという太陽神の祝祭を合体させたものである。それらの異教の祝祭日を教皇ユリウス1世が西暦350年にキリスト教の誕生日であると宣言したことにはじまる。研究者によると、実際のイエスの誕生日は古代ユダヤ暦のエタニムの月(9~10月)だそうだ。初期キリスト教の伝道者たちはイエスの誕生を祝ったりせず、イエスの死だけを記念して祝った。もちろんサンタクロースの話などはイエスと無関係。小アジア(現在のトルコ)のミラの聖ニコラウス大司教に由来する。聖ニコラウスを意味するオランダ語がなまって「シンテルクラース」から派生した。今日の、赤と白の衣裳に白いあご髭をたくわえた優しそうなおじいさんのサンタは、当時の有名な画家サンドプロムが描いたコカ・コーラの広告(1931年)が世界中に広がって、知られるようになった。クリスマスにプレゼントを贈ったり、ゲームを楽しんだり、パーティで馬鹿騒ぎすることは、古代ローマ人の太陽の誕生を祝うという偽りの宗教に由来する習慣である。教会の指導者たちは、真理を教えることよりも、教会の信者席をいっぱいにすることに熱心になり、コンサートとか行事を催している。クリスマスに愛する異性と夜を過ごすという日本の風潮も嘆かわしいもの。世俗化・商業化されたクリスマスは地域経済の活性化に大きく貢献していると人はいうかもしれない。しかし経済的負担をかけることは神の崇拝とは無縁のことである。最近ではデパートなどショッピング・センター以外にも公共の場でも大きなクリスマス・ツリーをみかける。ツリーを飾る習慣は、ドイツで行われていた樹木信仰を取り入れたもので、19世紀以降に北ヨーロッパや北米に広まった。イエスをたたえるはずの時が、子供をだます時になるのはおかしなことではないだろうか?

蕪村忌

    芭蕉、蕪村、一茶を三大俳人というが、それは明治になって正岡子規が蕪村を俳人として高く評価したからであって、それ以前は蕪村はむしろ画家として知られていた。
    与謝蕪村(1716-1783)。父母の名も明らかでなく、蕪村の幼時については不明な点も多い。姓を谷口といい、故郷は摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)と推定され、享保元年生まれで、幼時もそこで過ごしたらしい。17、18歳頃に毛馬を出て、江戸に下り、京都に永く住んで、再び郷里に帰ることはなかった。蕪村は大阪生まれであるにかかわらず、彼の句碑が大阪に少なく、大阪人に知られていないのが残念である。(12月25日)

800年カールの戴冠

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    西暦800年のクリスマスは、ヨーロッパ世界にとっては忘れられない記念の日となった。この日、ローマのサン・ピエトロ大聖堂で教皇レオ3世はフランク国王カール1世に西ローマ皇帝冠を授けた。カールは戴冠式のためにアーヘン(仏名エクス・ラ・シャペル)からピレネー山脈を越えて、ローマに来たのである。カールは西ローマ帝国滅亡後324年にしてローマ帝国の再興を実現し、大帝と呼ばれ、古典古代の文化とキリスト教にゲルマン精神が融合した文化を花開かせる。それがカロリング・ルネサンスである。(世界史、12月25日)

2016年12月24日 (土)

ベツレヘムの星

    イエス・キリスト生誕の地はエルサレムの南方約8キロにあるベツレヘムとされている。一般にイエスの生年はヘロデ大王(在位前67年ー前4年)の死んだ紀元前4年の少し前とされる。誕生から間もなく救世主の誕生を祝う星が東方からやって来た3人の博士(マギ)たちを導いて、幼児イエスのいるベツレヘムまでゆき、その上でとどまった。ベツレヘムの星である。まさしくイエスはメシア・キリストという証明なのだ。東方三博士の名はガスパール、バルタザール、メルチョールの三人。ガスパールは金髪で白人の若い博士。イエスに乳香を贈った。バルタザールはひげの褐色の肌の壮年博士。イエスに没薬という高価な薬を贈った。メルチョールは白いひげの白人の老博士。イエスに黄金を贈った。黄金はイエスの生まれながらにもつ王権をあらわす。

    イエスが誕生したことを知ったヘロデはベツレヘムの2歳以下の男子を皆殺しにしようとした。ヨセフ、マリア、イエスたちは、危うくエジプトへ逃れた。

一行豆知識集

Trivia  人間は知りたがる動物である。「地下鉄の電車はどこから入れたの?」だれでも素朴な疑問はふっとわいてくる。雑学ネタは人類の好奇心の数だけ、つまり星の数ほどある。世界中の多くの雑学ネタを集めてみよう。ただし、ほとんど役に立たないものばかりだが。

赤坂サカス。赤坂には坂がたくさんある。「乃木坂」もその1つ。江戸時代、幽霊坂と呼ばれていた。明治時代、軍人の乃木希典が辺りに住んでおり明治天皇の後を慕って殉死したため、大正元年赤坂区議会が地名を乃木坂と改名した。▽カトリック教会の最高司祭であるローマ法王を元首とするバチカン市国。ここを警備する衛兵は、すべてスイス人である。▽「オーヴォ ovo」とはエスぺラント語で卵のこと。▽「学校をさぼる」などの「さぼる」は、もともと外来語で、フランス語の「サボタージュ(怠業)」を略して、語尾に「る」を付けたもの。労働者が木靴(サボ)で機械を破壊したのが語源である。▽キリスト教の祈りの結びに唱えることば「アーメン」は「まことに、たしかに」後に「かくあれ」の意味。▽天草四郎時貞の洗礼名は「ジェロニモ」もしくは「フランシスコ」。▽俳優の筒井道隆はよく小説家の筒井康隆の子と思い違いされる。実際は赤の他人。筒井康隆はエッセイで「道隆は息子にあらず」と書いている。▽ジャッキー・チェンがブルース・リーに勝っている所は?ジャッキーは器用に自転車をこいで逃げるシーンが映画でよくみるが、ブルース・リーは自転車に乗ることができなかった。▽リンカン大統領の妻メアリーは、目前で夫が暗殺されたショックから、死ぬまで精神病院で過ごした。▽イソギンチャクは英語で「海のアネモネ(sea anemone)」という。▽日本人で初めて鉛筆を使ったのは徳川家康。▽日銀短観とは、日本銀行が四半期に一度発表する経済指標で、正式名称は「企業短期経済観測調査」といいます。▽風呂敷はもともとお風呂の着替えを包んだ布のことをそう呼んだのである。

Buzn_de_correos__001▽スペインのポストは黄色。世界では赤色より黄色の郵便ポストの国のほうが多い。▽本の最終ページにある「奥付」は大岡越前が本の海賊版を取り締まるために1722年に出版者に義務づけたのが起源である。▽孔子は英語でコンフィーシャスConfuciusという。▽イチロー選手(本名は鈴木一朗)は次男。▽大相撲の行司の掛け声「ハッケヨイ(発気揚々)」は本来、易占いの「八卦良い」である。▽オードリー・ヘップバーンはインドの詩人ラビントラナート・タゴールを尊敬していた。▽夏目漱石24歳のときの身長と体重。158.8cm、53.3㎏。当時としては平均よりやや良好な体格である。▽東京渋谷にある「原宿」は駅名としてはあるが、地名は「神宮前」であり、原宿という町は存在しない。▽村田英雄と言えば「王将」だが、この歌がヒットした頃、彼は将棋の指し方を殆ど知らなかった。▽「さそり座の女」美川憲一。本当の彼は「おうし座の男」である。

Miyazakiyosiko▽1886年の夏、東京でコレラが大流行。新聞に「炭酸ガスがコレラの予防になる」という記事が新聞に掲載され、ラムネがコレラ予防になるというデマが広がり爆発的に売れ出した。▽「The かぼちゃワイン」のエルのモデルは宮崎美子である。▽北島三郎「風雪ながれ旅」は津軽三味線奏者の高橋竹山をモチーフにした曲である。▽小和田雅子さんの母、優美子さんのいとこが作家の江藤淳。本名は江頭淳夫で、タレントの江頭2:50は親戚。▽1906年チャールズ・スチュアート・ロールズとフレデリック・ヘンリー・ロイスが合同で自動車会社「ロールスロイス社」を設立した。▽公職選挙法では得票同数だった場合、くじ引きをやって決める、と定められている。▽「右」と「左」の書き順。右は「ノ」を書いてから「一」、左は「一」を書いてから「ノ」である。▽フランスのノーベル賞作家アナトール・フランスはパリのセーヌ川ほとりにある古本屋のひとり息子として生れた。▽夏目漱石が住んだ本郷西片町の家に、のち留学中の魯迅ら5人が移り住んだ。

視聴熱とは?

  エンタメ業界の新たな指標「視聴熱」。ツイッター上でつぶやかれた「テレビ番組名」「タレント名」「テレビ発信の新ワード」を集計し、人々が今、熱を持って注目していることを徹底解析したもの。2016年テレビ年間視聴熱ランキング。ドラマ部門では桐谷美玲主演「好きな人がいること」、バラエティーでは「SMAP×SMAP」が第1位だった。

ベトナムのチャン朝、蒙古軍を撃退

   鎌倉時代、日本には2度にわたりモンゴル軍が襲来してきたが、モンゴルから国を守り退却せしめたのは日本だけではない。ベトナムは1257年、1285年、1288年の3回モンゴルの攻撃を受けたが、いずれも撃退した。13世紀のベトナムは北の陳朝と南のチャンパ王国に分かれていた。チャン(陳)朝は蒙古襲来により衰退の一途をたどり、1400年に黎季犛(れいきり)によって滅ぼされる。

  1288年3月、興道王チャン・クオック・トゥアン(チャン・フン・タオ 陳国峻)が白藤江の戦いでドカン率いる元軍水軍を撃破。チャンは、内地から湾へ抜けようとする元軍を待ち受け、あらかじめ川の中に杭を打ち込み、草でおおい隠しておき、満潮時に戦闘を仕掛けて逃れるふりをして元軍をおびき寄せた。まんまと罠にはまった元の水軍は、杭に引っ掛かって壊滅的な打撃をこうむり、元の侵攻は失敗となる。

近代明治の西洋思想の受容

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       高山樗牛                   姉崎正治

    高山樗牛(1871-1902)は、はじめは井上哲次郎らと盛んに日本主義を唱えてキリスト教、仏教を攻撃した。だが明治34年頃からニーチェの哲学思想を讃美し、「美的生活を論ず」などの評論を発表、これをめぐって坪内逍遥、島村抱月らと論争を展開した。明治35年12月24日、危篤状態に陥ったとき、叔父に「自分は人生の光をみつけたが、これを世に伝えることは嘲風に頼みたい」と言い残した。32歳だった。遺言のなかの嘲風とは、友人で宗教学者の姉崎嘲風(姉崎正治)のことである。ともに「帝国文学」の発刊に携わり、宗教的色彩の強い文芸評論で知られた人物である。高山樗牛と姉崎嘲風との友情は厚く、二人の往復書簡は当代の青年層に大きな影響を与えた。明治の頃のニーチェの研究はまだ原典にもとづかない西洋流の解釈をそのまま紹介しただけのものだった。明治44年に生田長江によって初めて「ツァラツストラ」が刊行された。生田は初め夏目漱石に翻訳の助言を求めた。しかし漱石は断った。なぜ漱石は生田を嫌ったのか。それは底の浅い学問で有名になった樗牛を生田が崇拝したからだといわれている。大正期になると本格的なニーチェ研究がおこり、和辻哲郎や阿部次郎のようなすぐれた研究が盛んになる。

2016年12月23日 (金)

ボロブドゥール遺跡

   インドネシアのジャワ島中部のケドゥ盆地に所在する大規模な仏教寺院。シャイレーンドラ朝の時代、大乗仏教を奉じたシャイレーン王家によって、ダルマトゥンガ王(在位755年~782年)治下の780年頃から建造が開始され、792年頃に一応の完成をみたと考えられ、サマラトゥンガ(在位812年~832年)のときに増築されている。ボロブドゥールという名の由来は不明であるが、ストゥーパとみなすのが定説とされている。しかしインドには同様のストゥーパが皆無であることから、本来の使命である仏舎利の保存とは無関係のようである。シャイレードラ王家の霊廟として考える学者もいる。Borobudur

参考:「ボロブドゥール遺跡・ジャワ島;海のシルクロードで栄えたインドネシア王朝」邸景一、柳木昭信 日経BP出版センター

モンゴル族の南侵とタイ・スコータイ王国の成立

   13世紀に起こったモンゴル族の侵略は、東南アジアの歴史に大きな影響を与えることになる。中国に隣接するヴェトナムやチャンパは元の大軍に数度の侵略を受けたが、弱小国ながら国をあげての抵抗によって追い返している。これよりさき、1253年に元軍が雲南のタイ族の大理国を滅ぼしたことは、タイ族の南下を促した。タイ族はもともと中国の華南に居て小部族国家を建てていたが、次第に南下し、カンボディアのアンコール朝の衰弱に乗じて、1238年タイ族の指導者シーインタラーティットがラヴォ王国からの独立を宣言し、1257年にスコータイ王国を建国した。スコータイ王は独立後、大いに領土を広げ、第3代ラーマ・カムヘン王の時にその最盛期を迎え、クメール系文字を改良したタイ文字がこの王自身によって作られたといわれる。またビルマから上座部仏教(小乗仏教)が採り入れられたのもこのころである。

帝国の滅亡ラスト・エンペラー

7720tokugawayosinobu   君主の最後は1つの時代の終わりと新しい時代のはじまりを告げる役割を担う。徳川慶喜が江戸幕府最後の将軍として有名である。鎌倉幕府最後の執権は赤橋守門(1333年)、室町幕府最後の将軍は足利義昭(1573年)である。

    西洋史では、前330年、ダリウス3世は逃走中にバクトリア総督ベッソスに殺害されアケメネス朝ペルシアは滅んだ。古代エジプト最後の王はプトレマイオス15世(前30年)。パルティア最後の王アルダバヌス4世(224年)。ローマの将軍カエサルとクレオパトラの子でカエサリオンともいう。フラウィウス・エウゲニウスはローマ帝国最後の皇帝で(394年)、翌年から帝国は東西に分裂した。西ローマ最後の皇帝はロムルス・アウグスツルス。ササン朝ペルシアのヤズデギルド3世は641年ネハーヴェントの戦いでイスラム軍に敗れて滅亡(651年)。ガズナ朝ホスロー・マリク(1186年)。インドネシアのシンガサリ王国の最後の王はクルタナガラ(1292年)。シュリヴィジャヤ王国の最後はパラメスワラ(1414年)。東ローマ帝国コンスタンチヌス11世(1453年)。ティムール帝国ムザッファル・フサイン(1507年)。インカ帝国の最後の皇帝トゥパック・アマルはスペイン人に殺害される(1572年)。ムガール帝国最後の王バハードゥル・シャー2世(1858年)。琉球王国最後の王・尚泰王(1879年)。清朝最後の皇帝・宣統帝溥儀(1912年)。ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世(1917年)。最後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(1918年)。イタリア国王ウンベルト2世(1946年)。ルーマニア国王ミハイ1世(1947年)。ギリシャ王国コンスタンティノス2世(1947年)。オスマン・トルコ帝国最後の皇帝メフメト6世(1922年)、ベトナム阮朝の皇帝はパオ・タイ(1945年)。エチオピア帝国最後の皇帝ハイレ・セラシエ(1975年)。パフレヴィー朝ムハマンド・レザー国王(1979年)。

アイルランガ王

  インドネシア古代の歴史は文献資料が少ないため詳しくわからないことが多い。シュリヴィジャヤは7世紀にスマトラ島に成立し、海上貿易によって繁栄し、10世紀に全盛期を迎えたが、王都(一説にパレンバン)の位置や王名表すらわからない。10世紀後半、ジャワ島にクディリ王朝が起こった。13世紀シンガサ王国、14世紀マジャパヒト王国と続く。クディリ朝のダルマヴァンシャ(在位985?~1006)は、シュリヴィジャヤ国から攻撃を受け、王都を占領されて死去した。女婿アイルランガ(当時16歳、在位1019-1042)は、一時中部ジャワのウェノギリに避難し、1019年に即位した。その間領土は分裂し、またシュリヴィジャヤ国の介入の危険が彼の意図を妨げたが、1022年ごろ実夫の跡をついでバリ島の王を兼ね、チョーラ王国のスマトラ遠征(1025年)によって、シュリヴィジャヤの圧迫が弱まった機会に、しだいに旧領を回復した。1030年ごろ、シュリヴィジャヤ王はついに王女を彼に与えてその実権を認め、彼は再び東部ジャワを手中におさめた。臣下ナロッタマは終始彼を補佐し、その海港スラバヤ、トゥバンはスマトラをしのいで貿易の中心となった。宮廷詩人カンワが作った「アルジュナ・ヴィヴァハ」(アルジュナの結婚)は、マハーバーラタを翻案して、アイルランガとスマトラ王女との結婚をうたったジャワ最初の叙事詩である。彼は死去の数年前に退位し、領土は2人の王子に分割され、パンジャール(またはクディリ)およびジャンガラとよばれた。なおAirlanggaはラテン文字転写でジャワ語名前に近い。エルランガはサンスクリット語名前。

参考文献;深見純生「アイルランガ王碑文の怪 プララヤは1006年か1016年か」東南アジア史学会会報71、1999年10月

東条英機命日

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    狐が檻の中のライオンを見て、そばにいって、ひどくばかにした。そこで、ライオンは狐に向かって言った。「私をばかにするのは、お前でなくて、私にふりかかった悲運だ」

    この寓話は石田三成や東条英機を思いおこさせる。三成は関ヶ原の戦場を脱出して近江の古橋村におちのびたところを捕えられ、京都六条河原で処刑された。

    本日12月23日は天皇誕生日だが、東条英機の命日でもあることを知る日本人は少ない。昭和20年12月8日、占領軍は戦犯を指名した。近衛文麿は、軍事裁判の前に自決したが、東条は自決に失敗した。「生きて虜囚の辱をうくることなかれ」と布達した当の本人が、死にそびれたのだから惨めなことこのうえない。占領軍は皇太子(今上天皇)の誕生日(12月23日)をあえて選んで、東条英機を同日に絞首刑にした。

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2016年12月22日 (木)

東西文明の交流(シルクロード文献目録)

101011160122625 世界の諸地域にはそれぞれの独特の文明が発展してきたが、それらは孤立したものでなく、現代から見れば緩慢ではあるが、政治・経済・文化にわたって伝播・交流をくりかえし、互いに他地域の文明と直接・間接に関連しながら現代にいたっている。古くは石器時代末期から青銅器初期にわたる彩陶文化があげられるが、ここでは甘粛省敦煌市にある仏教遺跡「敦煌莫高窟」の事例をふりかえってみよう。莫高窟・西千仏洞・安西楡林窟・水峡口窟など600あまりの洞窟があり、その中に2400余りの仏塑像が安置されている。開掘され始めたのは五胡十六国時代の355年あるいは366年とされ、その後、元代に至るまで1000年に渡って掘り続けられた。しかし永い歳月がたって、敦煌は忘れ去られたが、1900年5月26日に王円籙が発見し、このニュースは世界中に知れ渡った。オブルーチュフ(ロシア、1905)を初めとして、スタイン(イギリス、1907、1914)、ペリオ(ランス、1908)、ウォーナー(アメリカ、1922)等が敦煌写本の大部分を莫高窟から持ち去ったのである。

 敦煌を経て新疆に入ると、道は3つに分かれる。天山山脈を挟んで天山北路、天山南路、そして西域南道である。タクラマカン砂漠の北をトルファン、ウルムチ、コルラ、クチャ、アクスを経てカシュガルに到る天山南路を行きユーラシア大陸を横断する。

西域発見の絵画に見えたる服飾研究 原田淑人 東洋文庫 1925
鳴沙余韻 敦煌出土未伝古逸仏典開宝 矢吹慶輝編著 岩波書店 1930
敦煌秘籍留真 神田喜一郎 小林写真製版所 1938
西域画聚成 結城素明 審美書院 1941
古代絹街道 アルベルト・ヘルマン著 安武納訳 霞が関書房 1944
西域経営史の研究 伊瀬仙太郎 日本学術振興会 1955
中国西域経営史研究 伊瀬仙太郎 :巌南堂書店 1955
東西文化の交流 アテネ文庫 伊瀬仙太郎 弘文堂 1955
古代天山の歴史地理学的研究 松田寿男 早稲田大学出版部 1956
西域 中国の名画 熊谷宣夫 平凡社 1957
敦煌 中国の名画 長広敏雄 平凡社 1957
敦煌仏教資料 西域文化研究 西域文化研究会編 法蔵館 1958
敦煌 井上靖 講談社 1959
東方見聞録 青木一夫訳 校倉書房 1960
西域 グリーンベルト・シリーズ 現代教養文庫 井上靖・岩村忍 筑摩書房 1963
敦煌美術の旅 北川桃雄 雪華社 1963
敦煌資料 1 中国科学院歴史研究所資料室 大安 1963
シルクロードと正倉院 林良一 平凡社 1966
西域 世界の文化15 水野清一編 河出書房新社 1966
シルクロード踏査記 角川新書 長沢和俊 角川書店 1967
西域 大世界史10 羽田明 文芸春秋 1968
西域 カラー版世界の歴史10 羽田明 河出書房新社 1969
西域仏典の研究 敦煌逸書簡訳 宇井伯寿 岩波書店 1969
敦煌学五十年 神田喜一郎 筑摩書房 1970
シルクロードの詩(うた) 森豊 第三文明社 1971
西域 筑摩教養選 井上靖・岩村忍 筑摩書房 1971
敦煌の文学 金岡照光 大蔵出版 1971
絲綢之路 漢唐織物 新彊維吾尓自治区博物館出土文物展覧工作組編 文物出版社 1972
敦煌の民衆 その生活と知恵 東洋人の行動と思想8 金岡照光 評論社 1972
明代西域史料 明実録鈔 明代西域史研究会 京都大学文学部内陸アジア研究会 1974
おばあさんシルクロードを走る 森村浅香 日本交通公社 1975
アレキサンダーの道 アジア古代遺跡の旅 井上靖 文藝春秋 1976
古代遊牧帝国 中公新書 護雅夫 中央公論社 1976
敦煌出土于闐語秘密教典集の研究 論説篇・賢劫佛名経と毘盧舎那仏の研究 田久保周誉著 春秋社 1976
敦煌の旅 陳舜臣 平凡社 1976
シルクロード地帯の自然の変遷 保柳睦美 古今書院 1976
シルクロードのドラマとロマン 青江舜二郎 芙蓉書房 1976
西域紀行 シルクロードの歴史と旅 藤堂明保 日本経済新聞社 1978
シルクロード探検 大谷短剣隊  長沢和俊編 白水社 1978
敦煌の美百選 円城寺次郎編 日本経済新聞社 1978
シルクロード史研究 長澤和俊 国書刊行会 1979
シルクロードと仏教文化 岡崎敬編 東洋哲学研究所 1979
チムール帝国紀行 クラヴィホ著 山田信夫訳 桃源社  1979
シルクロード 全6巻 日本放送出版協会  1980
シルクロードと仏教文化 続 岡崎敬編 東洋哲学研究所 1980
シルクロードと仏教 金岡秀友・井本英一・杉山二郎著 大法輪閣 1980
シルクロードのアクセサリー 砂漠の華 並河萬里 文化出版局 1980
敦煌の歴史 講座敦煌2 榎一雄編 大東出版社 1980
敦煌の石窟芸術 潘絜茲編著 土居淑子訳 中央公論社 1980
敦煌の美術 莫高窟の壁画・塑像 常書鴻ほか 大日本絵画 1980
敦煌莫高窟 全5巻 岡崎敬・鄧健吾編 平凡社 1980-1982
シルクロードと日本 雄山閣 1981
シルクロードの文化交流 その虚像と実像 大庭脩編 同朋舎 1981
西域 人物と歴史 教養文庫 井上靖・岩村忍 社会思想社 1981
シルクロードと日本文化 森豊 白水社 1982
シルクロードに生きる  踏査記録 森田勇造 学習研究社 1982
西域美術1~2 敦煌絵画 大英博物館スタイン・コレクション ロデリック・ウィットフィード 上野アキ訳 講談社 1981
シルクロードの化粧史 シルクロード史考察18  森豊 六興出版 1982
敦煌莫高窟壁画 中国の文様3 上海人民美術出版社 美乃美 1982
敦煌石窟 美とこころ 田川純三 日本放送出版協会 1982
敦煌の風鐸 常書鴻著 秋岡家栄訳 学習研究社 1982
果物のシルクロード 城山桃夫 八坂書店 1983
シルクロード踏査行 長沢和俊 くもん出版 1983
シルクロードの文化と日本 長沢和俊 雄山閣 1983
敦煌書法叢刊 全29冊 拓本 饒宗頤編 二玄社 1983-84
シルクロードの風 カメラ紀行 平山美知子写真、平山郁夫挿画 読売新聞社 1984
西域紀行 旺文社文庫 藤堂明保 旺文社 1984
シルクロードの謎 前嶋信次 大和書房 1985
.シルクロード考古学  全4巻 樋口隆康 法蔵館 1986
敦煌資料による中国語史の研究 東洋学叢書 高田時雄 創文社 1988
敦煌の伝説 上下 陳鈺編 東京美術 1989
シルクロードの謎 光文社文庫 町田隆吉 光文社 1989
敦煌の文学文献 講座敦煌9 金岡照光編 大東出版社 1990
シルクロードの開拓者 張騫 田川純三著 筑摩書房 1991
西域 後藤正治写真集 日本カメラ社 1992
西域仏跡紀行 井上靖 法蔵館 1992
図説シルクロード文化史 ヴァレリー・ハンセン著 田口未和訳 原書房 2016
ユーラシア文明とシルクロード ペルシア帝国とアレクサンドロス大王の謎 山田勝久、児島建次郎、森谷公俊 雄山閣 2016
シルクロードに仏跡を訪ねて 大谷探検隊紀行 本多隆成 吉川弘文館 2016

漢武帝と漢帝国の全盛期

5199031764146760844   前141年、16歳で即位した武帝は、54年にわたって漢帝国の頂点に君臨した。そしてこの時代こそ、西漢王朝の全盛期といえる。国内に大きな争いはなく、国力は充実し、首都長安には莫大な銭や穀物が備蓄されていた。国庫に納められた穀物のなかには、あふれて腐るものも少なくなかった。

武帝時代 年号の創始・建元、皇帝の権威誇示

中央集権体制の完成

儒教の官学化 董仲舒の献策 五経博士の設置(参考:小倉芳彦「孔子から董仲舒へ」古代史講座12)

官吏任用法として 郷挙里選を制定

塩・鉄・酒の専売

経済政策 均輸・平準法 五銖銭の流通

対外政策 匈奴討伐 将軍衛青・霍去病派遣

西域経営の拠点として武威・酒泉・張掖・敦煌の4郡設置

李広利は軍馬を求め、フェルガナ(大宛)に遠征

衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡以下4郡を設置

巫蠱の乱 宮廷内での権力争い。巫蠱(ふこ)とは、木の人形を土中に埋め、これを呪詛する邪信仰。

  漢武帝関係文献目録
漢・武氏祠画像題字 書跡名品叢刊 田中有解説 二玄社 1979
漢武帝 尹湘豪編著 南昌・江西人民出版社 1981
漢の武帝 中国の英傑3 福島吉彦 集英社 1987
楚漢春秋 漢武故事 漢武事略 叢書集成初編 中華書房 1991

小野篁

Photo  852年のこの日、小野篁の忌日。享年50歳。小野篁は病気を理由に遣唐使乗船を拒否したため隠岐に流された。彼の死から42年後、894年9月29日、菅原道真の建議によって遣唐使の廃止が決定した。遣唐使を派遣するには、唐の朝廷に対する朝貢品、使節・乗組員全員への支給物など膨大な費用を必要とする。しかし50年ほど前から疫病・凶作・飢饉が続いており、過重な財政に耐えられる状況ではなかった。また中瓘(ちゅうかん)より疲弊した唐の状況が伝えられた。遣唐使は停止されたが、民間の貿易、通交は以後も続いた。

    小野篁は不羈な性格で「野狂」ともいわれ奇行が多い。また、なぜか閻魔王宮の役人ともいわれ、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁につとめていたという奇怪な伝説がある。かかる伝説は、大江匡房の口述を筆録した「江談抄」や「今昔物語」「元亨釈書」等にもみえることより平安末期頃には、篁が閻魔庁における第二の冥官であったとする伝説がすでに語りつたえられていたことがうかがわれる。(12月22日)

国木田治子忌日

    国木田哲夫(独歩の本名)は、佐々城信子(1878-1949)との恋愛と結婚、離婚によって独歩が生まれたといえなくもない。だが後妻の榎本治(1879-1962)が女流小説家であったことは今日ほとんど忘れさられているようだ。

    東京三鷹駅北口には独歩の代表的な詩の一編ともいえる「山林に自由存す」の碑がある。(昭和26年3月建立)武者小路実篤の書で刻まれ、独歩の子息で彫刻家の佐土哲二によるレリーフがはめ込まれている。

山林に自由存す

われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ

嗚呼山林に自由存す

いかなればわれ山林をみすてし

あくがれて虚栄の途にのぼりしより

十年の月日塵のうちに過ぎぬ

ふりさけ見れば自由の里は

すでに雲山千里の外にある心地す

眥を決して天外を望めば

をちかたの高峰の雲の朝日影

嗚呼山林に自由存す

われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ

なつかしきわが故郷は何処ぞや

彼処にわれは山林の児なりき

顧みれば千里江山

自由の郷は雲底に没せんとす

   明治27年、徳富蘇峰の勧誘に応じ、民友社に入る。明治28年8月16日から「国民新聞」にはじめて「独歩吟」と題する新体詩を発表する。同年、佐々城信子と結婚するが、翌年離婚。明治30年4月、宮崎湖処子編集し、松岡国男、田山花袋、太田玉茗、嵯峨の山人、湖処子らの合著『抒情詩』の刊行に国木田哲夫はこれまで新聞雑誌に発表した詩をまとめて「独歩吟」と題した。4月21日、田山花袋と共に日光照尊院に赴き、6月21日まで滞在。日光から帰京し、麹町一番町に住む。ここで隣家の榎本治子と知り合う。

200pxharuko_kunikida   榎本治子は、明治12年8月7日、東京市神田区末広町に生まれた。父は榎本正忠といい旧幕臣で画家であった。士官学校助教授として図画を教えていた。母は米、治子はその長女である。榎本正忠と榎本武揚の関係についてはよく分からないが姻戚かもしれない。そうすると独歩の父である国木田専八(明治37年1月19日、病没)は播州赤穂藩の脇坂藩の家臣で榎本武揚討伐のために脇坂藩が仕立てた船の乗組員だったことが知られているが、不思議な因縁といわなければならない。

   榎本治子、9歳の時、麹町一番町に転居。明治31年独歩と治子結婚。同年、長女貞子が生まれる。当時「源おぢ」を始めとして短編、詩篇を発表していたが文名揚がらず、翌33年には定職たる報知新聞記者もやめ、生活は窮迫し、一時民声新聞に入社したがこれも半歳にしてつぶれ、独歩は治子と貞子を榎本家へ預け、神田駿河台の西園寺公望邸に寄寓した。治子が文筆に親しみ出したのは明治36年頃からで婦人雑誌などに発表した。「愁ひ」(明治39年)「破産」(明治41年)「小夜千鳥」(大正3年)「モデル」。独歩が明治41年死後、長女貞子、長男虎男、二女みどりをかかえて生計は苦しく、三越の食堂部に勤務しながら、女流作家、青鞜の同人として知られるようになった。晩年は、文壇から遠ざかり、昭和37年12月22日、二女柴田みどりの家で83歳の生涯を閉じた。

   黒岩比佐子著 『編集者国木田独歩の時代』に独歩が経営する雑誌社に愛媛県出身の日野水ユキエ(1887-1964)という女性写真家がいたことを記している(朝日新聞2010.3.17 夕刊)。名前のみであるが記すという行為が貴重だと思いたい。

2016年12月21日 (水)

かぼちゃと柚子湯

   本日は冬至。年中で昼がもっとも短く、夜がもっとも長い日である。冬至粥を食べ、カボチャを食べ、柚子湯に入る習慣がある。なぜカボチャを食べるのか?かぼちゃを漢字で書くと「南瓜(なんきん)」。つまり、「ん」のつくものを食べると「運」が呼び込めるという運盛りのひとつ。小豆(あずき)を使った冬至粥は、昔から小豆の赤は邪気を払うといわれているから。柚子風呂に入るのは、柚子(ゆず)=「融通」がきく、冬至=「湯治」。こうした語呂合わせから柚子風呂に入る習慣があるが、もともとは運を呼び込む前に厄払いするための禊(みそぎ)だと考えられている。柚子湯に入ると1年中風邪をひかないといわれる。

庭掃除すませ今宵は柚子風呂に  大原雅尾

すっきり眠れてますか?

Photo

   「睡眠」は英語でスリープ sleep、ドイツ語でシュラ―フェン Schlafen、フランス語でソメイユ sommeil。 仕事や家庭の悩みなど、ストレスで不眠になる人も多い。睡眠には、「レム睡眠」と「ノンレム睡眠」があり、この2つが交互に訪れて睡眠のリズムをつくる。レム睡眠では、体の力は抜けているが、脳の一部は活動している。ノンレム睡眠では、脳は完全に休んでいる。ストレスが加わると、この睡眠のリズムが乱れ、ノンレム睡眠が減り、レム睡眠が増える。不眠を改善し、質のよい眠りを得るためには、次のような方法がある。

遅寝・早起き

眠くなってから床につく

昼間に太陽の光を浴びる

刺激物を避ける

ぬるめの入浴

軽い運動

寝具を選ぶ

心地よい睡眠は、リラックスした体と環境をつくることが大事である。

土佐日記の門出

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年(承平4年)のしはすの二十日あまり一日の、戌の時に門出す。   

   紀貫之(868-945)は、4年前(930年)に土佐守となって赴任し、任果ての934年12月21日、帰京日記が有名な「土佐日記」である。国府(高知)→奈半(奈半利)→室津(室津)→泊→土佐の海(鳴門)という海岸線のコース。

2016年12月20日 (火)

先生のご専門は何ですか?

    ヘンリー・ベッティンガーHenry Bechingerという学者はかつて「三角測量法」という読書法をすすめていた。自分から遠く離れた2地点を観測して自分の位置を明らかにするというもの。つまり自分の専門領域だけでなく、全く異なる分野の本も多く読むということをすすめている。バートランド・ラッセルは数学者でもあり、哲学者でもある。明治期にお雇い外国人として来日したフェノロサは、東京大学では美術ではなく、政治学、哲学、経済学を講義している。自然科学はほとんど分野がボーダーレス。シュレティガーは物理、化学、生物にまたがっている。

    たとえば歌劇「イーゴリ公」や「中央アジアの草原にて」の作曲家ボロディンは、自分のことを音楽家としてではなく、化学者、医師と自称していた。17世紀のイギリスの数学者ジョン・ウォリスは微分積分学への貢献で知られるが、1685年に書いた「Gramatica Linduae Anglicanae」によって、彼は「英文学の父」と称されるようになった。福岡の平野四郎(1885-1963)は医師のかたわら、動物、とくに鳥の生態の研究で知られた。東京音楽大学の山根章弘は専門は美学ということだが、実に広い分野に関心を持っている。出版された本が同じ著者かと思われるほどである。映画ファンの間では映画評論家として認識されているだろう。東映動画「白蛇伝」の原案者でもある。上原信(ペンネーム)は山根章弘と同一人物である。アニメ「龍の子太郎」のプロデューサー、「世界映画芸術史 エロティシズム50年の流れ」1966、「スクリーン・エロティシズム」久保書店1962。また羊毛の専門家「羊毛文化物語」講談社1989、「羊毛が語る日本史」PHP研究所 1983。またエチケット研究家「美しい人、美しいマナー」1982、「愛と結婚のエチケット」銀河選書 1982、「誰も言わなかった知的マナー」青春出版社 1978、「日本の折形」講談社 1987。むかし日本テレビの11PMにも出演していた。芸術、映画、民俗、風俗、マナー、衣服、羊毛、文化史と相互に関連しているのである。

23007001563     映画評論家の荻昌弘(1925-1988)も映画、料理、音楽のほか幅広い趣味がある。新しいもの好きでワープロによるデーターベースの構築を1982年夏ころ試みている。効率的・機能的な書斎をつくるため、「私の書斎ワープロ戦略」(1986年)を刊行した。

  京都大学の安田徳太郎(1898-1983)は、医師でフロイド研究で知られるが、ほかにも風俗・エロチック美術の研究など著書の分野は広い。戦後は「人間の歴史 全6巻」「万葉集の謎」はベストセラーとなった。同じく京大の多田道太郎(1924-2007)も専門はフランス文学、ボードレール、サルトルだが広い分野で評論活動をしていた。カイヨワの「遊び」、映画評論、大衆文化、現代風俗、漫画論、晩年は生活美学というものを提唱していた。澤瀉久敬(1904-1995)はフランス哲学が専門だが、阪大で医学概論を講義した。万葉集研究で著名な澤瀉久孝の弟である。小説家岡本かの子(1889-1939)は仏教研究家として知られていた。松田道雄(1908-1998)は小児科の医者が本職であるが、ロシア研究家、など幅広い読書家として知られた。光吉夏弥は、「ちびろくさんぼ」など英米児童文学の翻訳者として知られているが、舞踏評論家でもある。硯友社で言文一致体の小説家で知られる山田美妙(1868-1910)は、晩年フィリピン独立運動家アギナルドの伝記を著している。芸能人では荒木一郎。俳優、シンガーソングライター、小説家、手品など多芸多才である。

刑事コロンボ、ルノワール、チャイコフスキーの共通点

201107021452335c9   刑事コロンボ、印象派の画家ルノワール、作曲家のチャイコフスキーの共通点は何?とんちクイズみたいだが、答えは、3人とも名前が「ピーター(Peter)」。刑事コロンボに扮するのは俳優ピーター・フォーク。フランスのピエール・オーギュスト・ルノワール。ロシアのピョートル・イリイチ・チャイコフスキー。英語の「ピーター」、ドイツ語「ペーター(Peter)」、フランス語の「ピエール(Pierre)」、ロシア語の「ピョートル(Pyotr)」は同じ名前。ドイツの気候学者ウラジミール・ペーター・ケッペンも「鉄道員」のイタリア映画監督ピエトロ・ジェミルなども言語による相違であり、もともとはイエスの弟子ペテロ(Petros)である。ロシアの革命家ピョートル・アレクセイヴィッチ・クロポトキン。

   ところで「刑事コロンボ」の中で、ピーター・フォークがおどけた調子で口ずさむメロディーがある。「おじいさんが、ひとつおしばい。親指人形で芝居する。おじいさんが、ふたつおしばい。くつ人形で芝居する。」マザー・グースの数え歌「おじいさんの歌(This old man)」である。歌詞の意味はよくわからないが、ただなんとなくクスクス笑えてくる。「別れのワイン」でコロンボが電話中に手持ちぶさたアドリフで口ずさんだが、以後その曲がシリーズでしばしば使われてコロンボのテーマ曲となった。

「く」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Gwyneth_paltrow_015   「セブン」で共演したブラッド・ピットの恋人として有名になった女優グィネス・パルトローは当初「ギニース」と表記されていたこともあった。「く」(C)や「ぐ(G)」は「クリスチャン」「クリストファー」「クラーク」などがあるので多い。

グイド・フルベッキ
クィーン・ラティファー
クインシー・ジョーンズ
グウィネス・パルトロー
グエン・カオ・キ
グエン・タン・ズン
グエン・バン・チユー
クエンティン・マサイス
クェンティン・タランティーノ
グスターヴ・ホルスト
グスタフ・アドルフ
グスタフ・クリムト
グスタフ・シュトレーゼマン
クトゥブッディーン・アイバク
クヌート・ハムスン
クライヴ・オーウェン
クラウディア・カルディナーレ
クラウディア・シーファー
クラーク・ウィッスラー
クラーク・ゲーブル
グラツィア・デレッダ
クララ・ボウ
クララ・ヨゼフィーネ・シューマン
グラルドゥス・メルカトル
グリア・ガースン
グリエルモ・マルコーニ
クリス・アージリス
クリス・エヴァンズ
クリス・オドネル
クリス・クリストファーソン
クリス・コロンバス
クリス・へムズワース
クリス・ミッチャム
クリスチャン・スレーター
クリスチャン・ディートリッヒ・グラッベ
クリスチャン・ドップラー
クリスチャン・ベール
クリスティ・スワンソン
クリスティ・マクニコル
クリスティアン・ヴィルヘルム・ヴァルター・ヴルフ
クリスティアン・ホイヘンス
クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル
クリスティアーノ・ロナウド
クリスティナ・リッチー
クリスティーナ・ロセッティ
クリスティーネ・カウフマン
クリステン・スチュアート
クリステン・ベル
クリストフ・ヴァルツ
クリストファー・ウォーケン
クリストファー・ノーラン
クリストファー・プラマー
クリストファー・ランバート
クリストファー・リー
クリストファー・リーブ
クリストファー・レイサム・ショールズ
クリストファー・レン
クリストファー・ロイド
クリント・イーストウッド
クリフ・ローバートソン
グルーチョ・マルクス
クルツ・ワルトハイム
クルト・シューマッハー
クルト・ユルゲンス
クレア・デーンズ
クレア・トレヴァー
クレア・ブルーム
グレアム・グリーン
グレゴリー・ペック
グレゴリー・ハインズ
グレゴリー・ラスプーチン
グレゴール・ヨハン・メンデル
グレース・ケリー
グレタ・ガルボ
グレタ・スカッキ
グレッグ・キネアー
グレッチェン・コルベット
グレテ・ワイツ
クレメンス・ブレンターノ
クレメンス・メッテルニヒ
グレン・クロース
グレン・フォード
グレンダ・ジャクソン
クロエ・グレースモレッツ
クロエ・セヴィニー
クローデッド・コルベール
クロード・チアリ
クロード・オスカール・モネ
クロード・ベルナール
クロード・モーリアック
クロード・ルルーシュ
クロード・レインズ
クロード・レヴィ・ストロース
クロード・ロラン
グロバー・クリーブラント
グロリア・スワンソン
グロリア・マカバガル・アロヨ
クワメ・ンクルマ

辞典の最後の単語は?

Cd7f17fb27d3fd09c32bb34c3d2d4b7e  英独仏諸国の分厚い辞典の最後の単語はなにか気になる。「zzz 」ズーズーズー、漫画などで用いられるいびきの音。「Zytoplasma」(独語)細胞質。「zymosis」発酵。「zwieback」乾パン。ラスクの一種。「zwischen dem Essen」食間

「Zurich」チューリッヒ、スイス最大の都市。「Zunyite」ズニアイト、ズニ石。「zulu」ズールー族。

   最大の辞書Webster's New International Dictionaryの最後の単語は「zyzzogeton」。

  100年の歳月をかけて英国学士院が「英国の文典に基づく中世ラテン語辞典」を編纂した。全17冊にも及ぶ大部な本である。この辞典は、最初はもちろん「a」から始まるのだが、最終巻の最後の単語は「zythum」だということ。「古代エジプトのビール」の意味。「スタンダード仏和辞典」にも「zython」とある。

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のんべ安は作り話

  忘年会やクリスマスとお酒を飲む機会が多い季節である。中国には陶淵明、李白、杜甫、白楽天、蘇東坡などの詩人が飲酒を高らかに詠う伝統のようなものがあるので、偉人、文人は酒飲みという風潮がみえる。ところが西洋ではキリスト教の影響かあまり偉人が酒を好むという話は知らない。キリスト教とは無関係のシーザー、チンギス・ハーンも体質的に酒を好まなかったようだ。ナポレオンは高級ブランデーにその名がついていることから、さぞかし酒好きと思われるだろうが、実はあまり酒が飲めず、コーヒーを好んだといわれる。トランプ大統領もその過激な発言や行動から酒を好むタイプかと思いきや、実は全くお酒は飲まない。これは下戸というわけではなく、「飲まない主義」という方が正しいらしい。日本でも源義経、毛利元就、明智光秀、芭蕉らは下戸である。意外なところでは西郷隆盛、大久保利通、武市瑞山、近藤勇らもあまり酒は飲めなかったらしい。高田の馬場での決闘や吉良亭邸討入りで知られる堀部安兵衛は講談で「のんべ安」とされるが下戸である。「徳利の別れ」赤垣源蔵が大酒のみというのも作り話である。(8月24日)

お菓子が入ったクリスマスブーツの起源は?

Photo   銀のブーツにお菓子やおもちゃが入ったクリスマス・ブーツが店頭でよくみかける今日この頃。日本独自のもので外国にはない(韓国にはあるかもしれない)。戦後からだと思うがその起源についてははっきりしない。クリスマスプレゼントは1906年に救世軍が籠に果物や菓子・パン・玩具などを詰め込んだものを貧しい人にプレゼントしたという記事があるが、今日みられるような駄菓子を詰め込んだ市販用のクリスマス・ブーツが一般に普及したのは1960年頃といわれる。一説によると滋賀県の草津市の業者「近江物産」が1947年に売り出し、全国に広まったといわれている。1960年当時、わたしは小学生だったが市場の菓子店にクリスマスブーツがたくさん並んでいるのをはっきりと記憶しているので、おそらく1950年代にはどこの家庭でも、クリスマスを祝うスタイルが定着していたものと推測する。

史上最大の海難事故ドニャ・パス号の沈没

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   史上最大の海難事故は、あのタイタニック号ではなくてドニャ・パス号である。1987年12月20日、フィリピンタブラス海峡で客船ドニャ・パス号が沈没した。死者は公称では1575名(定員1518名)だが、実際は4375名の死者を出していた。これは史上最大の海難事故である。ちなみにタイタニック号の犠牲者は1513名といわれる。

    ドニャ・パス号はもともと1963年、尾道造船で建造された琉球海運の「ひめゆり丸」(定員608名)で、元の面影がなくなるほどの改造で1493人の定員に増加されていた。ところが当日はクリスマスを5日後にひかえた帰省客で切符のない人が多数乗っていた。乳幼児や兵士たちもおり、4000人以上が乗っていたと推測される。乗客の証言によると、満杯の乗客で船は初めから傾いていたという。しかし、悪天候の中、定員オーバーで、レイテ島のタクロバンからマニラへ向けて出航した。フィリピン国内航路では、乗客名簿が徹底されていないことが、後で大きな問題となった。

    事故は夜中の10時に起こった。ミンドロ島附近のタブラス海峡で小型タンカー「ビクトル号」と衝突した。ビクトル号には8000バレル以上の石油や灯油を積んでおり、大爆発を起こし、火災となった。パニックになった乗客は海に飛び込んだが、多くの人は燃える海で焼け焦げて死んだ。生存者はわずかに乗客24人、乗組員2人だった。ミンドロ島にはたくさんの焼死体が流れ着いた。

    衝突の原因は過載積による機動性に欠けるドニャ・パス号の操縦ミスと考えられるが、海事調査委員会の結論は、スルピシオ社に責任はなく、ビクトル号側にあるものとした。ビクトル号には適切なライセンスをもった航海士や見張りもなかった。またなぜ2隻の船は無線で交信しなかつたのか、事故当時、生存者の証言からドニャ・パス号の船上では乗組員らがパーティーをしていたという話もあるが、結局は事実の解明はなされなかった。こうして史上最大の海難事故ドニャ・パス号沈没事故は謎のまま20年以上が過ぎて人々の記憶から忘れさられようとしている。

     1980年代はソ連軍による大韓航空機サハリン沖撃墜事故・死者269人(1983.9)、日航ジャンボ機墜落事故・死者520人(1985.8)、大韓航空機爆破事件・死者115人(1987.11)など飛行機事故・事件も相次いだ。だが史上最悪の惨事であるドニャ・パス号沈没事故が吉川弘文館「世界史年表」など多くの記録にないことは一つの謎である。日本の中古貨物船の払い下げが悲惨な事故の背景であることの事実を隠蔽しようとする日本人の体質なのだろうか。Dona Paz

2016年12月19日 (月)

ザ・ザ・ガボールのおしりのエクボ

  18日、ハリウッド女優のザ・ザ・ガボールさんが死去。99歳だった。代表作は「赤い風車」「黒い罠」。生涯9回結婚し、夫にはブルハン・アザス・ベルガ(トルコの政治家)、コンラッド・ヒルトン(ホテル経営者)、ジョージ・サンダース(俳優)などがいた。

   カーティス・クリーク・バンドに「ザ・ザ・ガボールのおしりのエクボ」というちょっと風変わりのタイトルの曲がある。

近世日本史の重要人物6人

   1751年のこの日、江戸町奉行の大岡忠相が死去した。享年75歳。

荻原重秀(1658-1713)は幕府勘定奉行を務め、元禄時代に貨幣改鋳を行った。新井白石の上書により歴史の悪役に貶められた。村井淳志の近著に「勘定奉行荻原重秀の生涯」がある。

田中丘隅(1662-1730)は農政家。通称、田中休愚。「民間省要」を著して吉宗に認められ、幕府普請役に任命されて多摩川などの治水工事を行い、大岡忠相のもとでは支配勘定役も務めた。

細川重賢(1721-1785)は江戸中期の熊本藩主。財政立て直しは「宝暦の改革」と呼ばれた。藩校「時習館」や医学校「再春館」を創設した。

レザノフ(1764-1807)は1804年ロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えて長崎に来航した。しかし半年余りも待たされたあげく、親書は突き返され、交易は拒絶された。

光格天皇(1771-1840)は、第119代天皇で孝明天皇の祖父となる。現在の皇統は、光格天皇から続いている。

佐竹義和(1775-1815)は出羽国秋田藩主。「秋田藩における寛政の改革」と呼ばれる改革政治を実施した。(12月19日)

ユン・ポンギル

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File1238   1932年4月29日、上海爆破事件がおこる。上海で行われていた天長節官民合同祝賀会で、突然壇上の後ろから手榴弾が投げられた。そのため壇上に並んでいた上海派遣軍司令官白川義則大将、第三艦隊司令長官野村中将、駐華公使重光葵らが倒れ、白川大将は重傷を負って入院、5月26日に死亡した。重光は片足を失い、野村は負傷した。犯人は朝鮮人・尹奉吉(1908-1932)で、日本帝国主義反対のテロ行為だと胸を張り、現場で取り押さえられた。12月19日、金沢で銃殺刑に処せられた。今年4月29日、金沢市で尹奉吉の記念館が開館する。記念事業会側では「上海にも記念館はあるが、尹義士が立ち向かい殉死した日本に記念館ができることは意味がある」と話している。日本でもお馴染みの人気女優ソン・へギョも尹奉吉記念館の建設には協力している。ユン・ポンギルの名前は韓国で小学校で教わり、だれもが知っている抗日の英雄である。日本では歴史専攻の大学生でさえ、その名前を知る人は少ない。

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2016年12月18日 (日)

増え続ける資料

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     国立国会図書館には、1日で何冊くらい増えているのだろうか?納本制度なので単行本なら300冊から400冊くらいは届けられる。雑誌・新聞ならダンボール約10箱分が届いている。(2007年の月報より)これらの資料が永く保存され、正確な目録が作成されて、いつでも利用できるようにされている。しかし、おそらくすべての資料に実際に目をとおしたり、読んで記憶したりする人は誰もいない。たぶんほとんどの資料は多くの人に目もふれることなく、書庫の奥深く保管されていく。いかなる読書家・収集家であろうと、これら資料の1パーセントも人の目にふれることはないだろう。だが図書館の基本的な使命は、利用者が必要とする資料を提供することにある。そして、現在の利用者だけでなく、未来の利用者に対しても資料を提供していかなければならい。あるとき、会議で本の背ラベルに受け入れ年、西暦の2桁を入れる提案がだされたことがある。理由は廃棄のときに5年以上前の本をぬきだす作業がしやすくなるというのである。効率的、機械的なことが優先される時代であったが、私は猛反対した。資料保存が未来の身だ見ぬ人のためであることを忘れてはならない。

何度観ても楽しめる映画とは?

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  ストーリーや結末がわかっていても、何度観ても楽しめる映画がある。その反対に面白くても一度観たら十分という映画もある。その違いはどこにあるのか。第1のポイントはカタルシス効果のある、なしがその違いを生むと考える。たとえば映画「スピード」(1994)。主役はキアヌー・リーブスで見所はアクションであることは言うまでもないが、実は女性のサンドラ・ブロックがバスを運転することで全編に緊張感が生れている。このようなカタルシスを生む映画は何度観ても楽しめることができる。第2のポイントは主演者が豪華であること。パニック映画の代表作「ポセイドン・アドベンチャー」は顛覆した豪華客船が舞台の群像劇で、一種のグランドホテル形式である。「ナバロンの要塞」や「大脱走」(1963)のようなオールスターの戦争アクションも楽しい。マックイーンが草原をバイクで疾走することでカタルシスが生ずる。「ターミネーター」(1984)「インディー・ジョーンズ魔宮の伝説」(1985)「トップガン」(1986)などヒットシリーズの第1作は新鮮さがある。だがアクション映画だけにカタルシスがあるのではない。韓国映画のハン・ソッキュの「八月のクリスマス」(1998)やイ・ビョンホンの「我が心のオルガン」(1999)にも清涼感がある。カタルシスとは抑圧されて無意識の中にとどまっていた精神的外傷によるしこりを、言語・行為または情動として外部に表出することによって消散させようとする心理療法の技術をいう。アリストテレスは悲劇を見て涙をながしたり、恐怖を味わったりすることによって心の中のしこりが浄化できると考えた。アルフレッド・ヒッチコックは現代人の不安や恐れという心理をドラマ化して、スリラーやサスペンスという分野を開拓した。「ダイヤルMを廻せ」(1954)「めまい」(1958)「北北西に進路を取れ」(1959)「鳥」(1963)など何度観ても楽しめる。第2は多くのスターが出演する映画。「大脱走」(1963)はそれぞれの個性ある俳優の名前を覚えるだけでも楽しみがある。「大脱走」の出演者の多くは故人となった。存命している俳優は?土処理を考案したアシュレー役のデヴィッド・マッカラムは83歳になる。暗いトンネル工事のためトラウマになる青年ウィリーはジョン・レイトン。現在80歳。当時は歌手として有名で「霧の中のジョニー」が大ヒットしていた。1963年には映画主題歌「大脱走のマーチ」をリリースしている。第3のポイントは「永遠のマンネリズム」。渥美清主演の「男はつらいよ」シリーズや勝新太郎の座頭市などは、一度見た映画でもすぐに忘れて2度見しても楽しめる。

「糀」この漢字、読めるかな?

  新大阪駅改札横のカフェでランチ。お店の名前が「糀」、この漢字、読めますか?「こうじ」です。読めない漢字を見つけると、手帳に書き留めておく。あとで辞書を引いていろいと調べる。「女三人寄れば姦しい」女性はおしゃべりだが、寄り集まるとさらにうるさい、という意味だが、なぜ三人か。「姦(かしま)しい」という字が「女」の字三つからなっていることに通わせて言ったものらしい。次の漢字を読んでください。

1 蚯蚓

2 守宮

3 

4 

5 栄螺

6 章魚

7 

8 若布

9 萱草

10 枳殻

11 蛞蝓

12 海月

13 公魚

14 杜若

15

16 蜀魂

17 雲丹

18 

19 海鼠

20

21

22 這般

23 剴切

24 真秀

25 孑孑

26 飛蝗

27 天牛

28 螽斯

29 壁蝨

30 蝦蛄

31 熨斗

32

33 覆盆子

34 胡獱

35 木賊

36 素面

37 羚羊

38 裾濃

39

40

41 水雲

42

1みみず 2やもり 3いたち 4むじな 5さざえ 6たこ 7ぶり 8わかめ 9わすれぐさ 10からたち 11なめくじ 12くらげ 13わかさぎ 14かきつばた 15ひわ 16ほととぎす 17うに 18しじみ 19なまこ 20まぐろ 21かじか 22しゃはん 23がいせつ 24まほ 25ぼうふら 26バッタ 27かみきりむし 28きりぎりす 29だに 30しゃこ 31のし 32ともづな 33いちご 34とど 35とくさ 36しらふ 37れいよう 38すそご  39そひ 40インチ 41もずく  42ふいご

熟字訓

  熟字訓(じゅくじくん)とは、本来の日本語に漢字をあてたものや、既成の漢字熟語に日本語をあてたもの。例えば、「明日」に「あす」という訓を当てているが、単字の「明」や「日」に「あす」の要素はない。

今日(きょう)、七夕(たなばた)、二十歳(はたち)、梅雨(つゆ)、土筆(つくし)、心太(ところてん)、下手(へた)、大人(おとな)、足袋(たび)、流石(さすが)

ハリウッドのイタリア女優

Photo  イタリア女優ヴィルナ・リージ2014年12月18日、ローマの自宅で死去。60年代ハリウッドに進出し国際派女優として活躍。イタリア女優がハリウッド進出の成功例が数少ないのは、ドイツのエルケ・ソマーのように語学が堪能でないと言葉の壁がある。ソフィア・ローレンやクラウディア・カルディナーレですら成功したとはいえない。

   戦後、イタリアからハリウッドに進出した女優をあげてみる。

アリダ・ヴァリ 「パラダイン夫人の恋」  1947

ジーナ・ロロブリジーダ 「悪魔をやっつけろ」 1953

ピア・アンジェリ「傷だらけの栄光」 1956

ソフィア・ローレン「誇りと情熱」 1957

クラウディア・カルディナーレ「ピンクの豹」 1963

ヴィルナ・リージ「女房の殺し方教えます」 1965

シルヴァ・コシナ「キッスは殺しのサイン」 1967

モニカ・ベルッチ「ドラキュラ」 1992

よくある間違い

Img60223031   NHK連続クイズホールドオン(190回)の問題。主人公が天ぷらそばを食べる場面の「その晩は久しぶりに蕎麦を食ったので、うまかったから天麩羅を四杯たいらげた。翌日何の気もなく教場へはいると、黒板いっぱいぐらいな大きな字で、天麩羅先生とかいてある。」という一節が登場する夏目漱石の小説の題名は何でしょう?正解は「坊っちゃん」。ところがテロップの文字が「坊ちゃん」と、「っ」がぬけて表記されている。よくある間違いだが、「っ」がないのは「坊ちゃんかぼちゃ」だ。▽アイドルが青海駅(江東区)を青梅駅(多摩地区)と間違え公演に間に合わなかったというアクシデントが発生。▽流石景の新作コミックは「ドメスティックな彼女」。すぐにDVを連想してしまうが、ドメスティックとは「家庭的な」という意味。暴力的な何かと勘違いしてしまいそう。▽ポンペイはイタリア、ボンベイはインド。▽ボブ・ディランの名曲「ライク・ア・ローリングストーン」ローリング・ストーンズが好き、と勘違い。▽後鳥羽上皇の承久の乱は、長い間「じょうきゅうのらん」と読んでいたが、正しくは濁らずに「しょうきゅうのらん」という。▽ドラクロアの「民衆を導く自由の女神」1830年に起きたフランス七月革命を主題にしているが、ネットをみると1789年のフランス大革命と勘違いしている。

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2016年12月17日 (土)

おそるべしクミコ

  五木ひろしが司会するBS朝日「日本の名曲・人生歌がある5時間スペシャル」総勢47人が生で歌を披露する。菅原洋一・クミコのデュエット「今日でお別れ」とても良かったです。ところで今とても気になる歌手がシャンソンのクミコ。テレビの歌番組で、「一本の鉛筆」「誰のための愛」「黒い瞳」「風に吹かれて」など聞いた。それぞれジャンルや雰囲気の違う曲に果敢に挑戦している。クミコおそるべし。メッセージ性の高いものを好むようだ。むかしディック・ミネが歌った「黒い瞳」など歌いこなすなどその実力は並大抵ではない。

オンド・マルトノ

  1928年にフランスで発明された電子楽器。外見はオルガンに似ていて鍵盤があるが、単音しかだせない。ヘンリー・マンシーニ「刑事コロンボ」のテーマ曲でトランペットのあとに、指笛のようなメロディが流れるが、オンド・マルトノで弾いている。Ondes Martenot

シューベルト「未完成」

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「シューベルトと婚約者テレーゼ・グローヴ」 オットー・ノーヴァク(1874-1950)の絵

 

 青春の夢と希望は未完のまま美しく閉じられる。

   1822年秋、25歳の青年フランツ・シューベルト(1797-1828)は「交響曲第8番ロ短調」を書き上げた。この曲が「未完成」と呼ばれるのは、当時の交響曲がふつう第4楽章だったのに、シューベルトは第3楽章を書きはじめたところで作曲を中止してしまい、2度と取り上げなかったためである。理由はわからない。往年の映画「未完成交響楽」(1933年)を見た人は「我が恋の終わらざるごとく、この曲も終わらざるべし」と失恋のためと理解したがるが、もちろん後世のフィクションである。実際にはテレーゼ・グローヴという歌の上手い女性がいたそうだが、3年後にパン屋に嫁いでしまった。「未完成」は、曲の外観が未完成であるがゆえに、シューベルトの生前にはついに演奏されなかった。シューベルトの親しい友人だったヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーが「未完成」の自筆楽譜のある場所をウィーンの高名な指揮者ヨハン・ヘルベックに教え、ヘルベックの尽力で自筆楽譜は世に出、かつウィーンで初演されたのだった。初演は1865年12月17日、作曲者の死後37年、作曲から実に43年間が経過していた。この日は奇しくもベートーベンの誕生日。生前、栄光が与えられなかったという点では、シューベルトはベートーベン以上に悲劇の天才であった。

2016年12月16日 (金)

アイドル戦国時代

  浪曲「天保水滸伝」でお馴染みの剣客「平手造酒」。墓は千葉県の延命寺境内にあり、れっきとした実在の人物。「平手」という苗字は珍しいが、欅坂46のセンターに「平手友梨奈」がいる。クールビューティーな美貌で注目を集めるが、現在女性アイドルグループは乱立気味でその顔と名前を覚えるのはたいへんである。紅白9度目の出場を果たしたAKB48も、メンバー48人は視聴者の投票によるのでまだ誰が出場できるかはわからない。AKBグループのほかに、モー娘。などのハロプロ、ももクロ、私立恵比寿中学、ふわふわ、アンジュルムなど数えきれない。次の女子はどのグループか?

須田亜香里、松岡はな、齋藤飛鳥、渡邊理佐。岩崎春果。

答え 須田(SKE)、松岡(HKT)、齋藤(乃木坂)、渡邊(欅坂)。岩崎(ふわふわ)。

シャボン玉の謎

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  「シャボン玉」は野口雨情作詞、中山晋平作曲の童謡である。歌詞が雑誌「金の塔」に発表されたのは1922年のことである。そして翌年に中山晋平の譜面集「童謡小曲」に童謡「シャボン玉」が掲載された。野口雨情(1882-1945)が「シャボン玉」を書いたのは、幼児が急病で亡くなった悲しみから鎮魂の気持ちが込められているというのが通説である。最初の妻・ひろとの間に生れた長女みどりは一週間ほどで亡くなっている。1907年10月のことである。のちに雨情は再婚し、妻・つるとのあいだに恒子が生まれた。恒子が亡くなったのは1924年9月のことで「シャボン玉」の作詞より後のことである。他説では、雨情が四国に旅行中に、日ごろかわいがっていた親戚の男の子が急病で亡くなったとする説がある。しかし、これらを裏付ける決定的な資料は無い。また雨情自身が子どもの死との関係について触れている資料は一切ない。シャボン玉鎮魂説は憶測の域をでないのである。

白木屋ズロース伝説

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    昭和7年12月16日、新装なったばかりの東京・日本橋のデパート白木屋(現・COREDO日本橋)の4階玩具売り場のクリスマス・ツリーの電飾から出火した火災は、死者14人、重軽傷者百数十人を出す大惨事となった。わが国初の高層ビル火災(当時、白木屋は8階建て)であった。

    「当時の女性は和装でズロースをはいていなかったため、裾の乱れを気にして犠牲者を増やした」という噂が巷間まことしやかに伝えられ、日本女性がズロースをはくようになったのは、この火事の教訓から始まったとする「白木屋ズロース伝説」が生まれた。

    この説に対して、高倉テル(1891-1986)は『女はなぜズロースをはくか』という本を書いて反論した。高倉は、大正中期から職場に進出した女性たちが、手縫いのパンツをはきはじめたことをあげ、ズロースは銀座から普及したものではなく、工場や女性の職場から生まれたと主張している。

   当時の新聞には「外出にはズロースを」という女性のズロース着用を促す論調の記事が見られるものの、白木屋火災の後に目だってズロースを着用する女性が増えたという事実は見られない。一般に日本女性がパンツをはくようになったのは、戦後からといわれている。

読み方の紛らわしい名前「近衛文麿」 

Photo_2    1937年7月7日、近衛内閣が成立してからわずか1ヵ月で、盧溝橋事件がおこった。政府は不拡大方針をとなえたが、軍部は大規模な軍事行動を開始した。ここに日中戦争は全面的な展開をするにいたった。 1945年12月16日、服毒自殺した近衛文麿の名を、長い間「ふみまろ」とばかり思っていたのに、ある日ふと見た英字新聞に「AYAMARO」とあったのでびっくりした、という逸話がある。コンサイス日本人名事典などでは「ふみまろ」で記されているが、正式には「あやまろ」だった。「あやまろ」では語呂が悪いといことから通称名が知られるようになったらしい。「あやまろ、ともいう」と記されている事典もある。

  幕末長岡藩家老、河井継之助。読みは「国史大辞典」「コンサイス日本人名事典」等では「つぐのすけ」で記載されている。明治31年発行の戸川残花著「河井継之助」では「つぎのすけ」とルビがふられており、近年この説が有力である。

    三悪追放運動(三悪とは売春、麻薬、性病)などで知られた昭和の実業家・菅原通済(1894-1981)も「すがはらつうさい」と知られているが、本来は「すがはらみちなり」である。こちらは事典には「みちなり」で収録されている。

 むかし図書館で働いていて、図書目録カードの著者の読みを記入する作業のことをトレーシングといった。国文学者・折口信夫を「のぶお」を書いたが、先輩に注意された。正しくは、「しのぶ」である。

    明治の詩人・土井晩翠。当初は「つちい」だったが、1932年に「どい」と改称した。大正期、平民宰相で知られた原敬。「はらけい」とつい呼んでしまうが、「はらさとし」「はらたかし」、いったいどれが正しいのか紛らわしい。事典では一応「はらたかし」とある。ただし、原敬記念館、原敬日記は「はらけいきねんかん」「はらけいにっき」と読むのでますますややこしい。

 

戦艦大和の絵画と美保関事件

Photo_3  1939年12月16日、呉海軍工廠で戦艦大和は竣工した。1945年4月7日、大和が米空母機の攻撃により徳之島西方で沈没するまでの5年間、大和の艦長は5人いる。高柳儀八、松田千秋、大野竹二、森下信衛。そして最後の艦長が有賀幸作である。出航の前に取り外された絵画が呉市の大和ミュージアムに展示されている。中村研一の「美保関」(1941)という松江市内の風景画。大和には3枚の絵画があったが、その内の1枚で仕官室に飾られていたらしい。有賀には若い頃美保関事件(水城圭次自決)に遭遇しているのでこの絵画には深い思いがある。

ボストン茶会事件

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   1770年3月5日、ボストンで重い税金に反対した市民とイギリス軍が衝突。兵士が群集に向けて発砲し死者5人。1773年12月16日、インディアンに変装した急進的愛国派がボストン港に停泊中のイギリス船に侵入し、積み荷の茶を海中に投げ込んだ。組織したのはサミュエル・アダムズ(1722-1803)といわれる。この事件を植民地政策への挑戦と受け取ったイギリス側はアメリカに対する制裁をしたため、独立戦争へと発展していく。(Boston Tea Party,Samuel Adamus)

2016年12月15日 (木)

明治のクリスマス

Tumblr_mfhf4o9lle1qbn3ato1_500   日本人が初めてクリスマスを祝ったのは、1874年、米国長老教会の宣教師の指導の下、原胤昭(1853-1942)が東京・築地湊の第一長老教会で催したクリスマス祝会で、戸田忠厚という者が裃をつけ、大小脇差を携えて、大森カツラをかぶったお殿様姿でサンタクロースとして登場した。同年中、この教会で受洗し後牧師となる田村直臣も、この祝会に参加したが、「さんたくろすがとんなものか見たことはなく、クリスマスとどう関係があるかも知らず、ただのその名前が大変奇妙に聞えた」と述懐している。1898年、進藤信義が日曜学校の子供向け教材として作成した冊子「さんたくろう」(三太九郎)の扉絵は、ロバを従えクリスマスツリーを抱えて、ややドイツ風のサンタクロースであった。

「ハイジャック」は飛行機じゃなくて駅馬車や機関車の強盗だった(雑学百科事典)

   自然現象から人間の活動、文化・芸術・科学ほか日常生活まで、ありとあらゆる事柄について調査研究する雑学ブログ。

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 1970年12月15日オランダのハーグで「飛行機の不法な奪取の防止に関する条約」通称ハイジャック防止条約が締結された。この「ハイジャック」の語源は、西部開拓時代に強盗が「ハーイ、ジャック君」と呼びかけて機関士を脅したことからきている。▽ダンカンの息子の名前は「甲子園」。▽衣笠祥雄の愛称「鉄人」というのは背番号が「28」だから。▽イチローのプロ入り初ホームランは1993年6月22日、野茂英雄投手より放っている。▽キャンディーズ「春一番」の作曲家、穂口雄右の奥様は歌手の神田広美。▽便所を「雪隠」というのは、中国浙江省の雪隠寺の雪宝和尚が便所掃除が好きだったから。▽世界の国の政体。アメリカ合衆国は大統領制、イギリスは立憲葷酒・議院内閣制。では日本は?天皇の国事行為をどうとらえるかで意見がわかれる。立憲君主制説と共和制説がある。▽スイスにはスイス語というものはない。▽相撲甚句。「じんく」の語源は、江戸中期(宝永)に流行した盆踊歌のなかの「甚九節」(長崎の商人海老屋甚九郎のこと)が越後に伝わって「越後甚句」になったといわれる。▽ドライアイス(固体二酸化炭素)は1925年米国ドライアイス社が商標登録した商品名である。▽アメリカの能率学者フランク・ギルブレスは「1ダースなら安くなる」を実践して、12人の子供をもうけた。▽江戸初期の陶工、野々村仁清は、作品に銘印を入れることを最初にした人である。▽三角関係は森鷗外の訳語▽青木光一「柿の木坂の家」東京目黒のマンションではない。特定の地名ではなく、田舎によくある柿の木のある風景である。

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風と共に去りぬ

090525_r18492_p465  南北戦争をはさんだスカーレット・オハラの波乱万丈の人生を描く「風と共に去りぬ」。1939年のこの日、アトランタで映画「風と共に去りぬ」が封切り。(12月15日)

蝦夷共和国

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    明治元年12月15日、蝦夷地・箱館五稜郭を本営とする佐幕派の政権が誕生した。一般に蝦夷共和国という。投票によって、総裁に榎本武揚、副総裁に松平太郎、海軍奉行に荒井郁之助、陸軍奉行に大鳥圭介、陸海裁判官に竹中重固、今井信郎、陸軍奉行並に土方歳三らが選ばれた。蝦夷共和国は明治2年5月18日、箱館戦争終結とともに消滅した。

2016年12月14日 (水)

114106 裕木奈江

130321476599816420622_2005129134_20   「平清盛」のオープニングにサイコロが映しだされる。小学生が父親に「あれ、何?」とたずねた。父はサイコロは双六や人生ゲームで遊んだことを思い出したが、いまは家にサイコロはなくテレビゲームをする子供たちはサイコロを知らないことに驚いた。サイコロだけでなくトランプや将棋も知らないで大人になる子どもも多いという。もちろんトランプや将棋を知らない人は家庭の状況によるもので、むかしも多くいる。「♪吹けば飛ぶよな将棋の駒に~」は300万枚の大ヒットだったが、西条八十、船村徹、村田英雄は3人が共に全く将棋を知らなかった。1993年ドラマ「ポケベルが鳴らなくて」でアイドル的な人気だった裕木奈江も「実はポケベル・・・使ったことないんです」と告白している。ポケベルは当初、番号だけしか送ることができなかった。そのため文字を使って語呂合わせで様々なメッセージを送った。おやすみ(0833)、あいしてる(114106)

ガッキーひとり勝ち

   「地味スゴ」石原さとみVS「逃げ恥」新垣結衣、新ドラマ女王対決は恋ダンスブームでガッキーの完勝。元AKB前田敦子も6月ドラマ「毒島ゆり子のせきらら日記」で注目された。二股恋愛や過激なベッドシーンで見ごたえはあったが、あまり話題にはならなかった。また来年スタートのドラマ「就活家族」では共演者がなんと薬物疑惑の成宮寛貴で放送がピンチになっている。あっちゃんには不運が続く。派手でウザい河野悦子、セクシーな毒島ゆり子より、かわいくて純粋な森山みくりのほうが現代草食系男子には好まれるタイプみたいだ。「紅白」で星野源の傍で踊る生ガッキーを観たい、というのが世の男子の願いだろう。ネットをみると「ガッキーは女神」「やさしさで出来ている」「内面がすばらしい」と今や大絶賛。でも逃げ恥でのベッドシーンでもガッキーは色気が全然感じられずアンドロイドみたいだ。その他「演技力が乏しい」「おかめ顔」「胸が寂しい」「肩幅がある」など欠点があるものの、健康的で真面目な性格で好感度が非常に高い。

なぜ日本人は忠臣蔵が好きなのか

Img_0029 市川海老蔵の天川屋義平

   本日は赤穂義士討ち入りの日。今日の時刻では15日の午前4時頃だが、むかしから慣例として14日に祭りがある。映画「最後の忠臣蔵」舞台あいさつで、佐藤浩市が共演の桜庭ななみを暴露。大石内蔵助の娘・可音を演じる桜庭は初め忠臣蔵の話を全然知らなかった。亡君復讐劇ということも、赤穂義挙も、内匠頭と上野介も、松の廊下刃傷も、四十七士吉良邸討ち入りも、本懐達成、高輪泉岳寺墓参も知らない。つまり若い人で知らない世代もでてくるから、忠臣蔵はいつも新鮮な話で永遠に終わらないということだ。視点を変えれば、いくらでも話のタネはつきない。増上寺畳替、烏帽子大紋、脇坂淡路守、判官切腹、赤穂開城、勘平と定九郎、与市兵衛、お軽・勘平、山科閑居、一力茶屋、南部坂雪の別れ、徳利の別れ、天川屋義平、垣見五郎兵衛、神崎与五郎東下り、堪忍袋詫び証文、笹売り源五、毛利小平太、茶会、吉良邸絵図面、本所松阪町、俵星玄蕃、清水一角、南部坂雪の別れ、寺坂吉衛門など忠臣蔵外伝、エピソードの宝庫つまり忠臣蔵。それにしても何故日本人は復讐劇の忠臣蔵が好きなのだろうか? (12月14日)

「今日は何の日」の特異日

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  12月14日は「今日は何の日」の特異日である。「快挙の日」とでもいうべきか。1911年、人類初の南極点到達を果たしたロアール・アムンセンに対して、スコットは翌年に南極点に到達するも隊ごと帰路に遭難し、全滅する。もちろん赤穂義士が吉良邸に討ち入りした日として「義士祭」が行われる(1702年)。ノストラダムスの誕生日(1503年)。そしてライト兄弟が世界初の有人動力飛行に成功した日(1903年)。ただしこれには注釈がいる。この日の飛行時間はわずか3秒半だった。もちろんライト兄弟も失敗したとして3日後の17日に再挑戦。ついに852フィート(255m)、59秒間の飛行に成功したので17日を「ライト兄弟の日」「飛行機の日」としている。ただし14日は日本人にとっては忠臣蔵の吉日として、7年後の1910年の12月14日に日野熊蔵(1878-1946)が60mの日本初の飛行実験に成功している。(Wilber Wright,Orville Wright,Roald Amundsen)

2016年12月12日 (月)

ラディゲとベアトリス

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 ベアトリス・ヘイスティングス

    1914年、モディリアーニ(1884-1920)は、ザッキン(1890-1967)の紹介でイギリスの女流詩人でジャーナリストであるベアトリス・へイスティングス(1879-1943)を知る。彼女は北アフリカに生まれ、へイスティングスと結婚するも、間もなく別居。ロンドンへ行き週刊誌「ニューエイジ」のパリ特派員としてモンパルナスのノルヴァン街13番地に住んでいた。詩人エズラ・バウンドを発見し、小説家キャサリン・マンスフィールドと交友があった。モディリアーニは教養が高く、女権論者の5歳年上のベアトリスに惹かれた。やがて2人は恋仲となり同棲する。ベアトリスをめぐる詩人マックス・ジャコブ(1876-1944)との三角関係も1916年半ばには破局を迎えた。その後、ベアトリスはかつてモディリアーニから紹介されたレイモン・ラディゲ(1903-1923)と関係を持つようになる。ラディゲは年上女性との体験をもとに「肉体の悪魔」を1919年ころから書き始め、1923年に完成しベストセラーとなった。ラディゲは腸チフスにかかり、1923年12月12日、パリの病院で20歳の若い生涯を閉じた。ベアトリスはその後ファシズムのシンパとなったが、1943年に自殺している。翌年、ベアトリスの昔の恋人マックス・ジャコブもユダヤ人強制収容所で病死している。

2016年12月11日 (日)

なぜ「逃げ恥」星野源に女子が夢中なのか?

  今年は奇妙な年である。ミュージシャンのボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞。長い間不動の人気を誇ったキムタク、福山雅治の人気が凋落。米大統領選ではトランプが予想に反して大勝利。世界はピコ太郎の動画が大流行。この先何が流行るのか誰にもわからない。星野源というミュージシャン、俳優、文筆業などで活躍するタレントがいる。これまで「サブカルチャー女子」や「こじらせ系女子」の間で人気があったが、昨年紅白初出場してから全国区の知名度になった。駅のキオスクで星野源のポスター「ウコンの力」を見る。

   先日「逃げ恥」の裏でNHKBSプレミアム映画「箱入り息子の恋」が放送されていた。35歳独身、恋愛経験なし、という設定は似ているが、ドラマとはテイストが大きく異なる。盲目の美少女夏帆とお見合い、そしてラブホで初体験。だが夏帆の父親大杉漣が「この男には野心がない」と反対する。もみ合ううちに車にひかれたり、2階から転落して大けがする。朝ドラ「ゲゲゲの女房」でも星野は大杉の次男貴司で共演した。突然に事故死する影のうすい役だった。役の中では独身で真面目で几帳面な印象をうけるが、リアル源は草食系でなく、エッチで病弱、女性大好きな人。これまで恋の噂もアイコ、夏帆、二階堂ふみ、そしてガッキーと共演者とはいつも親密になるタイプ。イケメンじゃないので女性は安心して気軽につきあうのだろうか。音楽活動や俳優業として知られるが、出版活動もさかんでベストセラーを出している。昭和のマルチタレント青島幸男のような平成最強のタレントになる日もちかい。

ディエゴ・ロペス・デ・セケイラ

   ポルトガル人の航海者。Diego Lopez de Sequeira(1465-1530) 1508年4月、4隻の艦隊を率いてリスボンを出発し、マダガスカル島を経て、1509年4月インドのコチンにつく。船団のなかにはマゼランおよびフランシスコ・セランがいた。1509年9月マラッカについた。国王マフムード・シャーに貿易の開始と商館設立の許可を求め、いったんは認められたが、イスラム商人の進言により10月20日頃マフムード・シャーはポルトガル人に奇襲をかけた。約60人が殺され、24人が捕虜となった。セケイラはそのまま本国ポルトガルに向かい、マゼランたちはコチンへ戻った。

長いタイトル、短いタイトル

Photo_3     楽曲や映画、小説にとって、そのタイトルをどう付けるか、というのは言うまでもなく大問題。2013年12月11日に発売されたAKB48のタイトルがやたらと長かった。「鈴懸の木の道で「君の微笑みを夢に見る」と言ってしまったら僕たちの関係はどう変わってしまうのか、僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの」。何と76字ある。miwaの新曲「あなたがここにいて抱きしめることができるなら」は22字。

   小説では2014年刊行の村上春樹の新作も長かった。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年に」は20字。2010年のベストセラー「もしドラ」は33文字あった。2011年の「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」や浅田次郎のエッセイ「君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい」は19文字。奇抜で刺激的なタイトルで人の目をひこうという魂胆がみえる。ワンセンテンスがタイトルとなるのは片山恭一の「世界の中心で、愛をさけぶ」あたりからの流行だろうか。作家が小説のタイトルをつけるには、それなりの思い入れがあるのだろうが、こうしてダラダラと長いタイトルが出てくるのだが、むしろ漢字一文字という題名が、ことさら強い印象がのこる。漱石「心」「門」、芥川龍之介「鼻」、森鷗外「雁」、長塚節「土」、谷崎潤一郎「卍」「鍵」、丹羽文雄「顔」などなど。

2016年12月10日 (土)

忠臣蔵映画

   年末恒例といえばベートーベンの「第九交響曲」と「忠臣蔵」。明治以来、忠臣蔵を題材とした映画(義士銘々伝を含む)は映画・ドラマ合わせると100本は超えるであろう。最初は明治41年(1908)の「忠臣蔵」片岡仁左衛門一座。歌舞伎劇活動写真とあるだけで内容その他不明。戦後は大映の長谷川一夫「忠臣蔵」(1958)、東映の片岡千恵蔵「忠臣蔵」(1959)、東宝の松本幸四郎「忠臣蔵」(1961)の3本が代表作。大映作品、渡辺邦男監督の「忠臣蔵」を観る。長谷川一夫、市川雷蔵、鶴田浩二、勝新太郎など男優陣はほとんどが故人となった。存命は大高源吾の品川隆二(83歳)、矢頭右衛門七の梅若正二(80歳)くらいか。

龍馬、総司の墓所

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  幕末青春群像のなかで圧倒的人気は坂本龍馬と沖田総司であろう。対照的な二人の青春の軌跡であるが、若くして燃え尽きた点では共通している。享年龍馬31歳、総司27歳(一説では25歳)である。坂本龍馬(1835-1867)は慶応3年12月10日京都近江屋で中岡慎太郎とともに惨殺された。墓は京都霊山護国神社。

  沖田総司(1842-1868)は龍馬より7つ年下である。沖田は不幸なことに、胸を患い、千駄ヶ谷池尻橋の植木屋平五郎の離れで慶応4年7月19日に病没。享年は25歳説と27歳説がある。一般に知られている25歳説は、沖田の口碑として伝えられている。27歳説は、小島鹿之助の「両雄実録」と、文久3年の浪士組上洛時の名簿が早川文太郎、千葉弥一郎のもの、とともに22歳と記していることによる。25歳説では弘化元年(1844年)、27歳説では天保13年(1842年)の生まれということになる。東京・元麻布の専称寺に墓がある。

   龍馬の妻楢崎龍、一説によると総司にも石井秩という妻がいたらしい。身長は龍馬が大柄、総司が小柄と対照的である。もし2人が明治まで生きていれば日本はどのようになっていたであろうか。

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 坂本龍馬、中岡慎太郎の墓

 

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 沖田総司の墓

雑学と図書館

Img_2605s     1851年のこの日、米図書館学者メルヴィル・ルイス・コシュート・デューイが誕生した。彼は「デューイ十進分類法」で知られる。図書館を「人類の記憶装置」というけれど、10万冊の本が並んでいれば、たいていの人は目的の本を見つけることは労力を要する。図書館の本の並び方には法則があって、日本なら「日本十進分類法」に従っている図書館がほとんどである。主題によって0から9までの数字に大きく分けられており、さらに細分されている。もちろん自分の探す目的がはっきりしていればいいのだが、「何か面白い本はないか」と気ままに本を探したいときはどうすればよいか?分類「0」は総記といって、この世のすべての事象に関することを扱っている。百科辞典などが多いが、「049」という記号の本は「雑書」である。general miscellanies。特定の主題に分類できない本がここにくる。「雑学百科」という類の本もあるが、どこにも分類できない変な本も多い。「生協の白石さん」や町のヘンなものを集めた「VOW」シリーズや「イグ・ノーベル賞」もここに分類されることが多い。049は駄本も多いが、思いもかけない本が見つかる場合もある。

    私は若い頃、図書館で目録カードを作成していた。分類、書名、著者名、件名などの種類がある。アメリカでは辞書体目録といってこれを統一したような目録があると聞いていたが、ついに日本では実現できなかった。やがてコンピューターの時代となってキーワードで検索できるシステムが開発された。目録式の索引は旧時代のものであるが、本から直接に書誌を作成できる時代に生きたことを喜びに感じている。(12月10日、雑学ブログ)

三億円事件

Img_785584_61955498_0     1968年12月10日午前9時20分頃、東芝府中工場従業員のボーナスのための現金約3億円を積んだ日本信託銀行の現金輸送車が府中刑務所北側の路上で後を追ってきた白バイ警官に止められた。白バイ警官は爆発物らしき物を発見、行員たちが車外へ出て避難すると、運転席に乗り込みそのまま走り去った。このようにして3億円はまんまと奪われてしまったのである。1968年当時の3億円は現在の貨幣価値に直すと約10億円にあたる。1988年12月に民事時効が成立。戦後最大の未解決事件となった

2016年12月 9日 (金)

漱石と則天去私

Photo_2   夏目漱石は大正5年11月21日、築地の精養軒における辰野隆、江川久子(山田三良)の結婚披露式に出席した。翌日、机上の原稿紙に189と『明暗』の回数を書いたままうつぶせ、ひとり苦しんでいた。胃潰瘍の5度目の発作が起こった。真鍋嘉一郎が主治医となったが、11月28日、大内出血があり、12月9日午後6時50分、永眠。享年49歳。12日、青山斎場で葬儀が行われた。導師は釈宗演。戒名「文献院古道漱石居士」。狩野亨吉が友人代表として弔辞を読む。28日、雑司ヶ谷墓地に埋葬された。漱石の死は明治という時代が終わったという感がある。

   その最期は、物静かに「有難い」と一口云って息を引き取ったと伝えられる。(別冊太陽、夏目漱石)漱石の臨終記録は、このほかに、

いよいよ臨終となった時、寝間着の胸をはだけ、「ここに水をかけてくれ!死ぬと困るから…」と叫んで意識を失い、そのまま息を引き取っている。

   とある。「則天去私」の境地とは程遠いが、おそらくこちらが真実であろう。

  また漱石家もその頃、家族8人、鏡子夫人、長男純一(1907生)、長女筆子(1899生)、次女恒子(1901-1936)、三女栄子(1903生)、四女愛子(1905生)、次男伸六(1908生)が住んでいた。それに、小宮豊隆、阿部次郎、森田草平、内田百閒、赤木桁平、松根東洋城、野上豊一郎、鈴木三重吉、岩波茂雄、安倍能成などの木曜会のメンバーたちが臨終にいたであろう。(未確認)

つまり漱石の最期はかなり賑やかなものだったと想像される。

  漱石の脳がエタノールに漬けられた状態で、東京大学医学部で保管されている。その重さは1425グラムで、日本人の男子の平均より75グラム重く、天才的頭脳の型であった。

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Photo  道後温泉本館三階の一室「漱石の間」には「則天去私」の掛け軸がある。直筆ではなく平田抱山の書。そこには「小さな私を去って自然にゆだねて生きる」と簡潔な説明がある。弟子の小宮豊隆は「漱石先生は晩年に至って則天去私という悟りの境地に達しておられた」と書いている。東洋的な調和の境地はすでに初期の作品にもみれるが、漱石自身が晩年に至るまで「則天去私」という言葉を一度も書き残していないことから、ついに最後まで悟りの境地に達することができなかったのではないだろうか。つまり則天去私とは漱石の晩年の思想というより、悲願、こうありたい、という切実な求道であった。

 漱石揮毫の「則天去私」の四文字は最晩年に仙紙半紙より短い紙に、行書体で書かれたもの。日本文章学院編「文章日記」(大正5年)に初めて掲載されている。(参考:石崎等「漱石と則天去私」 跡見学園短期大学紀要 1978-03)

2016年12月 8日 (木)

神の7人

80f4e48f3bf9381f6c47c52ab0e7c61a_vi   2005年12月8日、東京・秋葉原に「秋葉原48劇場」(現:AKB劇場)がオープンし、第1回公演が行われた。収容人数250人の同劇場に入場者72人中、65人が関係者で一般の観客はわずか7人であった、この7人の観客は「神の7人」と呼ばれている。12月8日という日は真珠湾攻撃から66年を経て、AKB48の記念日となった。

ジョン・レノンの眼鏡

Yokoonogunslennonglasses    1980年のこの日、ビートルズのメンバーだったジョン・レノンがニューヨークの自宅アパート前で、マーク・チャップマンに撃たれて死亡した。アメリカで銃規制強化をめぐる論議が高まる中、オノ・ヨーコはジョン・レノンが射殺された際に掛けていた眼鏡をツイッターに投稿した。「1980年12月8日にジョン・レノンが射殺されて以来、米国で105万7000人以上が銃によって殺害されました」「私たちはこの美しい国を戦場にしようとしています」「力を合わせて平和なアメリカを取り戻しましょう」と呼びかけている。眼鏡は1979年夏に来日したとき白山眼鏡店で購入した日本製。メイフェアの色はクリア。ガラスレンズはニコンのソフルックスS1。

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太平洋戦争開戦記念日

    昭和39年に集英社から刊行された「昭和戦争文学全集」の第4巻には昭和16年12月8日の対米英戦争開始から昭和17年5月のコレヒドール攻略、珊瑚海海戦頃までの、緒戦の時期に関する記録・作品が収められている。なかでも12月8日の記録としては、太宰治、坂口安吾、伊藤整、高村光太郎、徳田秋声など諸家のものがあるが、上林暁の「歴史の日」(「新潮」昭和17年2月号)という手記が一番素直な気持ちで当時の空気を今日のわれわれに伝えているような気がする。

昭和16年12月8日は、遂に歴史の日になってしまった。(中略)隣のラジオが突然臨時ニュースの放送をはじめたのであった。「大本営陸海軍部発表、12月8日午前6時、帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れリ」(中略)その時、妹が庭で干し物をしていて、隣の女中が、垣根越しに、話しかけている。何を話しているのかと思って耳を立てると、「今朝はとってもひどい霜ね」と隣の女中が言った。「屋根が雪みたようでしたね」と妹が答えた。戦争のはじまった朝だから、霜の印象が深いのにちがいない。そうかと思って、私は目をあげた。隣の屋根が水びたしになって濡れている。うちの樋からは湯気が立っている。私はそれを見ながら、戦争のはじまった朝に、隣の女中が、霜の話をしたのが、印象に深く残るであろうと思った。

    当時、上林暁(1902-1980)は39歳。妻の繁子が昭和14年から入院中であった。上林は9年間患い死んでいった妻のことを書いた一連の作品「聖ヨハネ病院にて」(1946)などで知られる作家である。この「歴史の日」でも病妻のことに触れている。自分の心境を書く小説家と、未曾有の国家的事件発生でとまどう不安な心理状況が文面からうかがえる。

2016年12月 7日 (水)

日米開戦前夜

   開戦・・・。昭和16年12月8日、午前3時19分(ハワイ時間12月7日午前7時49分)、日本海軍第一次攻撃隊がハワイ・オアフ島の真珠湾に集結していたアメリカ太平洋艦隊の主力部隊を攻撃開始。三分後、渕田美津雄第一次攻撃隊長は「トラ トラ トラ」と奇襲成功電報を打つ。第一次攻撃は一時間あまりつづく。奇襲攻撃は山本五十六連合艦隊司令長官の発案で、緒戦にアメリカ太平洋艦隊の主力を撃破して、南方作戦をスムースに展開させるとともに「米国の海軍および国民の士気を救うべからざる程度に阻喪させる」意図のもとに決行。つづく第二次攻撃171機の攻撃が約一時間つづく。日本海軍は、戦艦六隻(オクラホマ、アリゾナ、カリフォルニア、ウェストバージニア、ネヴァダ)、重巡1隻を撃沈、戦艦2隻(メリーランド、テネシー)、重巡1隻、軽巡6隻、駆逐艦3隻、補助艦3隻を大中破、飛行機300~400機を撃破する戦果をあげた。

   この日ハワイは、日曜日で休日を楽しもうとしていた矢先であり、多くの人が初めは演習と思った。米軍は「真珠湾攻撃さる、演習にあらず」と各方面に打電。アメリカの被害は史上空前で、逆にアメリカ軍民の士気を一気に高め「リメンバー・パール・ハーバー」となる。野村・来栖両大使はハル長官に最後通牒を渡す。米英両国に対して宣戦布告。午前7時、臨時ニュース放送「大本営陸海軍十二月八日午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れリ。」

   あの日から77年。安倍首相はオバマ大統領とハワイで会談し、真珠湾攻撃の犠牲者を追悼する。ハワイ訪問は安倍が現職初ではなく、1951年に吉田茂が真珠湾を訪問している。

貧乏人は麦を食え

   むかし中国で生まれつき暗愚な皇帝(西晋の恵帝)がいて、飢饉で多くの餓死者が出ているのに、「飯が食べられないなら肉のおかゆを食べればよいのに」といった話が残っている。

    古い話だが、日本でもこんな話があった。昭和25年12月7日、池田勇人が大蔵大臣の時代、木村禧八郎の米価値上げに関連する質問で、「ご承知の通り戦争前は米100に対して麦は64%ぐらいの割合であります。そして今は米100に対して小麦95、大麦は85ということになっております。そうして日本の国民全体の、上から下と言っては何でございますが、大所得者も、小所得者も同じような米麦の比率でやっております。これは完全な統制であります。私は所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食う、というような、経済の原則にそういうほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります」と答弁した。これが「貧乏人は麦を食え」という見出しで新聞に載り、各方面から強い批判が出された。

    最近では玄米や麦は健康にいいという。また野菜中心のベジタリアンは本当に健康的なのかも疑問がある。家内は10年間野菜中心のダイエット食だが、お腹が空くらしく間食が多く、どうみても不健康だ。

東京タワーの名付け親は11歳の女の子だった

Photo_3   1958年のこの日、東京タワーの公開がはじまる。東京タワーの正式名称は日本電波塔(にっぽんでんぱとう)。愛称は1958年10月9日に開かれた審査会で決定した。86,269通の応募のうち、一番多かった愛称は「昭和塔」で、続いて「日本塔」「平和塔」だった。審査委員のひとり徳川夢声が「ピタリと表しているのは東京タワーを置いて他にありませんな」と推挙し、その結果「東京タワー」に決定した。「東京タワー」と応募した223通のうち、抽選で当選した神奈川県の小学5年生、高田幸子さんに賞金10万円が贈られた。(12月7日)

新吾十番勝負

Ps_ctoe0302_0001_011   大川橋蔵、1984年の忌日。まだ55歳の若さだった。「新吾十番勝負」(1959)の葵新吾は彼以外には考えられず、橋蔵にとって最大の当たり役となり、二十番勝負、そして番外勝負と1964年まで5年間に8作品が作られた。公開当時リアルタイムで見た映画だ。第1部、第2部の出演者をみると、大川橋蔵、岡田英次、山形勲、大友柳太郎、大河内伝次郎、月形龍之介など主なキャスト男優陣はすべて故人となっている。若き山城新伍も町人で出演しているが2009年に逝去している。それに比べ女優陣はいまだ健在で花の命の長いことである。完結編の丘さとみの扱いをみると、当時彼女がトップだったらしい。(12月7日)

明治のうさぎブーム

20110129212711cc2   明治初めの頃、生活の困窮した士族たちが困って珍商売やら、投機対象に何か儲け口はないか、「おぼれるものは藁をもつかむ」の社会状況であった。こうした折から、誰が思い付いたのか、うさぎを飼うことが、「カッコ」がいい、と言い出した。初めはうさぎを飼って育てることだったらしいが、やがて珍種に高値がつきだした。ウサギの流行は明治4年ごろから起こり、特に白地に黒い斑点の、「黒更紗」と呼ばれるウサギに人気があり、オスは15両、メスは5、60両、「孕兎」は7、80両という高値がついた。こうして兎ブームがおこり、明治6年4月ころになると、悪い連中がいて、外国から兎を輸入して一儲けしようという考えで、香港や上海などからいろいろの兎を輸入して、好奇心をあおった。色変わり、耳変わり等々大いに煽動した。あまりの過熱に、ついに東京市では、兎に税をかけることにする。一羽につき月一円。12月7日に通達がでるや、税逃れで兎を殺すものも現れた。値段は暴落し、明治6年の年末はウサギで大混乱となった。結局この兎投機ブームで儲けたのは一部の外国人貿易商人だけだった。(参考:白山映子「明治初期の兎投機 「開化物」とメディアから見えてくるもの」 東京大学大学院教育学研究科紀要51、2011年)

キケロとカティリナ事件

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 元老院で演説するキケロ(左)  マッカリ筆のフレスコ画

   紀元前43年のこの日、マルクス・トゥッリウス・キケロが暗殺される。雄弁家キケロといえば。カティリナ事件が知られる。没落貴族カティリナは、エトルリアを中心として各地に植民しているスラの退役兵など不平分子を戦力基盤としてクーデターを計画していた。前63年、執政官キケロは元老院でカティリナを激しく非難し、死刑にするように提案した。カトも賛意を示したが、カエサルはカティリナが有罪であることには同意したが、懲役にするべきと主張し二人は対立する。カトはカエサルがカティリナ派と共謀したとして攻撃した。カティリナはイタリア北部へ逃れて挙兵したが、ローマ軍との戦いで敗死した。キケロは三頭政治の混乱期に共和制擁護に努めたが、前43年アントニウスの部下に暗殺されて首と手はローマに曝された。(Marcus Tullius Cicero,12月7日)

2016年12月 6日 (火)

水戸黄門の旅行は一番遠くて鎌倉まで

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 加賀邦男 月形竜之介 大友柳太朗 千原しのぶ

 水戸藩第2代藩主・徳川光圀(1628-1701)の1700年の忌日。光圀は黄門様として庶民に親しまれている。映画やテレビでは助さん格さんを連れて旅に出たことになっているが、実際には、諸国はおろか、ほとんど旅に出たことはなかった。唯一旅らしいのは、延宝2年江戸参府の途中、水戸から江戸に直行せず、上総、安房へ回り、そこから船で鎌倉へ渡ったことがあるだけだった。ではなぜ漫遊したことになってしまったのだろうか。学問好きの光圀は「大日本史」の編纂のため、家臣を諸国に派遣し、資料の収集をさせている。この家臣の旅が光圀自身の旅として誤って伝えられたという。水戸黄門の役者といえば渋さでは月形竜之介が天下一品であった。なんと昭和29年には「水戸黄門漫遊記」「副将軍初上り」「地獄極楽大騒ぎ」「闘犬崎の逆襲」の4本の映画が作られている。助さんは第1作は徳大寺伸、第2作は大友柳太朗、第3作は月形哲之介。格さんは3作とも加賀邦男だった。加賀は志賀勝の父。(12月6日)

中村是好は生没同日

Image00055   「エノケンのちゃっきり金太」(1937)などで知られる俳優の中村是好は1900年12月6日生まれで1989年12月6日に亡くなっている。坂本龍馬や小津安二郎と同様にいわゆる生没同日である。また満鉄総裁の中村是公(1867-1927)とは似ている名前で紛らわしいが、生没同日と一字違いの同姓同名の2つを有する著名人はひじょうに珍しい。その趣味の盆栽は有名である。

映画のキス・シーン

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  戦後初めてアメリカ映画が公開されたのは、昭和20年12月6日、西部劇「ユーコンの叫び」(ビヴァリー・ロバーツ主演,1938年制作)が東京の日劇と日比谷映画で上映された。そして昭和21年2月封切りの「春の序曲」(ディアナ・ダービン主演)と「キュリー夫人」(グリア・ガースン主演)も大ヒットした。(ともに1943年制作) 映画館は長蛇の列をなした。

    占領軍は毎週2本の作品を公開し、1本は娯楽作品、もう1本は民主主義の啓蒙に役立つ作品とする基本方針を立てた。つまり「春の序曲」は娯楽作品、「キュリー夫人」は啓蒙的な内容をもった作品というわけだ。

    「カサブランカ」(1942年製作)「ガス燈」(1944年製作)も昭和21年に公開され、イングリッド・バーグマンの人気は沸騰した。さらに5年間の空白を一気に埋めるかのようにバーグマンの主演作が続々と上映された。昭和23年「聖メリイの鐘」(1945年製作)、昭和24年「汚名」(1946年製作)、昭和25年「サラトガ本線」(1945年製作)、昭和26年「白い恐怖」(1945年製作)、昭和27年「凱旋門」(1948年製作)、昭和27年「誰がために鐘は鳴る」(1943年製作)、

    6年間にバーグマンのこれまでの代表作が観ることができたのであるから、この時代、日本での最高の人気女優が彼女であったことは間違いない。とくにヒッチコック監督の「汚名」は、戦後に製作された映画であり、イングリッド・バーグマン&ケーリー・グラントという美男美女カップルのため、スリラーよりもラブシーンが話題となった。当時「キス・シーンは3秒まで」という規定があったが、ヒッチコックはこの規定を逆手に取り、二人が愛し合うシーンでは、3秒以内の短いキスを何回も続けさせた。その結果、二人のキス・シーンは2分半にも及び官能描写が話題となり興行的に大ヒツトを記録した。「汚名」の「あらすじ」を紹介する。

    第二次世界大戦も終わりに近い頃、アメリカの法廷で、ひとりの男がナチスのスパイとして懲役20年の刑を宣告された。そのため、娘のアリシア・フーバーマン(イングリッド・バーグマン)世間から冷たい目で見られていた。

    ある夜のパーティーで友達からデブリン(ケーリー・グラント)という男を紹介される。悲しみを紛らすためにひどく酔ったアリシアは、デブリンと夜のドライブに行き途中でスピード違反のために警察につかまるが、その時デブリンが示した手帳から彼が何やら警察と関係ある男だと知って狂気のように怒った。

    デブリンは彼女の気を静めるために殴って家へ連れ帰り、その夜ひと晩中アリシアを看護した。翌朝、デブリンは自分がFBI情報部の一員であり、南米におけるナチのスパイ組織を調査するために、一緒にリオへ行ってくれるようにと頼みこむ。

    南米へ飛ぶ飛行機上で、アリシアは父が毒薬自殺したことを知る。アリシアとデブリンは仕事の束の間に本当の恋におちいった。やがて命令が与えられる。それはリオに亡命している金持の団体が何か陰謀を企んでいるので、その実態を調査することだった。

    アリシアはその一団の一員であるアレックス・セバスチャン(クロード・レーンズ)がかつての父の友人であり、以前彼女を恋していたこともあって、セバスチャンの身辺を探るよう命令される。偶然のような再会。アレックスは母親(ミルドレッド・ナトウィック)や来合わせていた客達を紹介した。そしてセバスチャンは熱心にアリシアとの結婚を望んだ。それに対して何の反応も示さないデブリンにつらあてするかのように、アリシアは求婚を受け入れた。

    新婚旅行から帰った日、アリシアは地下の酒倉の鍵をいつもセバスチャンが持っているのを知り、その中に秘密があることを感じとった。そしてデブリンと秘かに公園で連絡した時その話を告げる。

    結婚披露のパーティーでデブリンは招待客として招かれる。そしてアリシアが夫の鍵束から外しておいた酒倉の鍵を受け取り地下室に降りていった。ふたりは暗い酒倉で逢引きをする。そしてワインの瓶の中に黒い粉を発見する。その時、足音がしてセバスチャンが現れた。ふたりは密会中を見られたようにとりつくろう。その後、再び鍵束に地下室の鍵がついているのを見てセバスチャンは妻の行動に疑問を持つようになる。セバスチャンが最も恐れたのは、自分がアメリカのスパイを妻にしてしまった大きなミスを仲間に知られることだ。母親は、毒薬を少しずつアリシアに飲ませて病気で死んだように見せかける方法を提案する。

    デブリンの上官プレスコット(ルイス・カルハーン)は瓶の中の黒粉が原子爆弾に使われるウラニウム鉱であることを知って驚く。ドイツもまた原子爆弾の開発に力を入れていることが分かる。

    その間にもアリシアは毒薬入りのコーヒーを飲まされ、次第に衰弱していった。一方、デブリンも連絡のないアリシアの身を案じて単身セバスチャンの邸へと乗り込み、彼女を連れ出そうとした。それを制止しようとあせるセバスチャンの態度に、居合わせたナチス党員たちの疑惑の目が集中する。スパイとしての彼の失策は明らかとなった。アリシアとデブリンにようやく平和な恋が訪れた。

   原子爆弾の話は、撮影直前(1945年10月)になった、ヒッチコックによって書き加えられたためである。

2016年12月 5日 (月)

ヒュースケン暗殺

Photo   1860年12月5日、プロイセン使節のもとからアメリカ公使館への帰途、三田でハリスの秘書兼通訳ヘンリー・ヒュースケン(1832-1860)が薩摩の浪士(伊牟田尚平、神田橋直助、樋渡八兵衛ほか4人)に暗殺された。攘夷派がはじめて外国使節を殺傷した事件であった。ヒュースケンはオランダ人で、蘭・英・仏語を操る上に、明るく社交的な性格から、日本語もすぐに習得した。語学力を買われ、イギリス・プロイセン両国の条約交渉にも通訳として協力している。ヒュースケン暗殺前後にプロイセンとの交渉にあたっていた幕府高官、堀利熙(1818-1860)が自決している。ヒュースケン殺害は、各国の駐日外交団に大きな衝撃を与えた。主謀者、伊牟田尚平(1832-1862)は鬼界ヶ島に流刑される。幕府はオランダのヒュースケンの母ジュアンネに、賠償金として洋銀1万ドルを支払い事件を落着させた。(Henry Heusken)

引き揚げ船

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    敗戦後、外地に居住する日本の軍人軍属、一般日本人は祖国に引き揚げた。その数およそ660万人といわれる。とりわけ旧満州を含む中国・朝鮮方面からの引き揚げは凄惨をきわめた。「国家の品格」で知られる数学者・藤原正彦(昭和18年生れ)もその一人だ。母ていのベストセラー「流れる星は生きている」に描かれるように、幼い子どもを抱えて途方にくれる引き揚げ者も多かった。また引き揚げ者のなかには、途中で親と死別し、無縁故者となった子どもを多くいた。写真は樺太からの引き揚げ船第1号「雲仙丸」が函館から品川駅に着いた引き揚げ孤児。(昭和21年12月5日)先頭のおかっぱ頭の少女は両親の遺骨を抱いている。引き取り先が決まるまで、上野の同胞援護婦人連盟ホームに収容された。「♪霞む故国よ小島の沖じゃ夢もわびしくよみがえる」なつかしの写真館。誰もが生きたあの時代を写真でたどる。

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モーツァルト忌

Mozart   ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。ちなみに「ヴ」というカタカナはもともとなかったが、福沢諭吉が外国語を翻訳するので作ったとされる。1756年、オーストリアのザルツブルクで生まれたモーツァルトは25歳のときに故郷を捨ててウィーンに来た。そして彼は経済的には苦しかったが、独立した音楽家として自由を勝ちとることに成功した作曲家である。歌劇「フィガロの結婚」「魔笛」にはフランス革命の自由と平等の精神が盛り込まれている。モーツァルトには時代を見る目があった。1791年12月5日未明チフスのため死亡。6日の葬儀は数人の弟子が集まっただけで、折からの雷雨のため誰1人付き添わずにウィーンの共同墓地に葬られたため、現在も遺骨の所在は不明である。その急死について、当時から、彼の才能を妬んだイタリア人の宮廷楽士サリエリによる毒殺との噂もでたが、必ずしも信頼できず、やはりチフスが原因であったであろう。

  ところで、「♪眠れよい子よ、庭や牧場に~」で知られるモーツァルトの子守歌。長い間、モーツアルトの作曲といわれていたが、実はベルハルト・フリースの作曲である。作詞はフリードリッヒ・ヴィルヘルム・ゴッター。(Mozart)

2016年12月 4日 (日)

最後の脱盟者・毛利小平太に萌え

 只今、放送中の「忠臣蔵の恋」。なぜか脱盟者で知られる毛利小平太の扱いが大きいような気がする。注目の若手俳優、泉澤祐希が演じている。来年の朝ドラ「ひよっこ」でさらにブレイクの予感がする。

   毛利小平太は二十石三人扶持の微禄だが、吉良邸探索には最も活躍し、大きな功があった。だが、兄のもとに暇乞いに行った際、うっかり大事をもらしてしまった。この兄は内匠頭の従弟にあたる三河国畑村の領主の戸田弾正氏成の家臣であったから、主家に迷惑の及ぶのを恐れ、お公儀に訴え出ると脅迫した。進退きわまった小平太は、討入りの数日前に、一書を残して姿を消した。同志たちは彼の脱落を、殊に惜しんだそうだ。(参考:一条明「脱盟の浪士」『仇討ちと騒動』所収)

肉体の悪魔

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   第1次世界大戦下のパリ近郊のリセ。17歳の青年フランソワ(ジェラール・フィリップ)は看護婦マルト(ミシュリーヌ・プレール)と出会い、ひと目で恋に落ちる。軍人の婚約者がいるマルトも、年下のフランソワにどんどん惹かれていく。だがマルトの母の反対や、フランソワの両親の心配もあり、二人は別れる。しかし半年後、偶然の再会をきっかけに以前にも増して、二人の恋は燃え上がる。夜の桟橋で逢う約束をした二人。そこにはすでに一時間もフランソワを待つマルトの姿があった。二人は肉体の悪魔にひきずられていく。この許されぬ愛もやがて戦争が終結すれば断ち切らねばならないのだ。マルトが妊娠した。それが隠せなくなった時、ついにマルトは夫にすべてを打ち明ける決心をする。フランソワには、それに反対する勇気もなかった。別れのひとときを思い出のレストランですごした二人は、はじめてランデブーをしたカフェに出かけ、そこで終戦を知らせる国歌を聞いた。だがマルトは力つきて倒れ、フランソワは駆けつけた母によって引き離されてしまった。凱旋した夫に見取られ、死の床のマルトは、フランソワの名を呼びながら、愛の結晶を残して死んでいた。

   クロード・オータン・ララ監督「肉体の悪魔」(1947)は、レイモン・ラディゲの有名な恋愛小説をロマンティックに脚色した戦後フランス映画を代表する作品。当時24歳だったジェラール・フィリップは17歳の少年の繊細な心を完璧に演じあげた。彼は1922年12月4日南仏カンヌで生れた。女性たちのため息をあつめたフランス映画界のプリンスは1959年、36歳の若さで世を去った。墓は南仏サントロペ近郊の美しい村ラマチュエルにある。

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金玉均のクーデター

Photo     韓国歴史ドラマには反対派による残酷な拷問や刑罰シーンがある。これは現実の話であり、李朝末期まで行われた。朝鮮の開明派の指導者、金玉均(キム・オクキュン 1851-1894)は近代化の殉難者といえる。金は日本の明治維新を模範として清朝からの独立、朝鮮の近代化を目指した。1884年清仏戦争が起こり、清は連戦連敗、このみじめな敗戦の情報が朝鮮につたわると、清国の権威は下落し、かわって親日派の勢力が台頭してきた。12月4日、金らは閔氏政権打倒のクーデターを起こした。しかしこのクーデターはかんたんに失敗し、金玉均らは日本へ亡命した。その後、再起計画のため上海に赴いたところを、刺客洪鐘宇(ホン・ジョンウ)のためホテル東和洋行の一室で暗殺された。遺体は朝鮮に送還されたが、凌遅刑(肉を少しづつ切り削がれていくという残酷な刑)に処された。その遺体はバラバラにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された。

ボカサ皇帝

Bokassai1sized 1977年のこの日、中央アジアのジャン・ベデル・ボカサ終身大統領(1921-1996)は、国名を中央アフリカ帝国と改め、自らをボカサ皇帝と宣言し戴冠式 を行った。1979年9月、ダッコが無血クーデターに成功、共和制に戻った。(12月4日,Jean Bedel Bokassa)

2016年12月 3日 (土)

恐怖の人喰いサメ

   1916年7月1日、米国ニュージャージー州のリゾート地の海岸で、遊泳中の男性がサメに襲われて死亡した。しかし、当時の認識では鮫が人を喰うということは考えられなかった。それから2週間の間に4人がサメに喰われて死んだ。この事件を新聞が大々的に報じたため、海水浴客が来なくなり、現地のリゾート地は大きな打撃を受けることとなる。この事件はのちにピーター・ベンチリーが「ジョーズ」の題材として取り上げられた。

みかんの日

Photo_4   市場でミカンがみかける頃となった。日本の正月風景は、家族で囲んだ炬燵があり、その上に必ずミカンがあるというのが定番である。日本のミカンはオレンジと違い、テレビを観ながらでも手で皮がむけることからアメリカでは「テレビオレンジ」という愛称があるそうだ。とくに温州ミカンは、日本の全柑橘生産量の約4分の3を占めている。温州ミカンの歴史は意外と新しく、明治時代中期以降のことである。有吉佐和子の小説「有田川」には、「紀州ミカン」が「温州ミカン」と移り変わる明治33年当時のようすが描かれている。果実が100gにもなる温州ミカンと50gほどの小ミカンでは勝負は明らかだった。温州(うんしゅう)みかんの呼び名は、江戸時代の本草学者が中国のミカンの名産地である浙江省温州府という古名に因んだものである。原産地は浙江省とは無関係で、鹿児島県出水郡長島町であり、筑後地方に入って各地に広まった。

   近年は温州市は高度な経済発展をとげる中国人が住むところとして、「温州商人」という呼称がある。投資と商才に長けた人たちをさす。(12月3日)

ワン・ツー・スリーの日

T008a  数字1・2・3が並ぶ日は1年に2度しかない。1月23日と12月3日。123という連番で有名なのは1985年の日本航空123便墜落事故と大正天皇が歴代123代であること。キャンディーズのヒット曲「アン・ドゥ・トロワ」(1977)。バレエのレッスンで、1、2、3と数えるがフランス語。懐かしの漫画家・山根一二三(ひふみ)。将棋の加藤一二三。国道123号は栃木県宇都宮市と茨城県水戸市を結ぶ幹線道路。東京都足立区の郵便番号は「123」の連番である。ローマ教皇第123代ヨハネス10世(在位914-928)は獄死。

 

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小山田庄左衛門

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   赤穂浅野家が断絶し、47人が忠義の士として称賛を浴びる一方、義盟に加わった同士のなかにも70人の脱盟者がいた。高田郡兵衛、毛利小平太などの脱盟者がよく知られるが、橋本平左衛門も遊女淡路屋お初と大坂で心中した。そして小山田庄左衛門も実在の人物で、不義士としての汚名を残した1人である。

    元禄15年11月5日、大石内蔵助らが江戸入りした時は、庄左衛門も堀部安兵衛らと同居していた。12月3日の最後の深川会議の前、同志片岡源五右衛門から、金子3両と小袖を盗んで逃亡したと伝えられる。81歳になる父の十兵衛は義士に詫びて、自決した。大佛次郎の小説「赤穂浪士」では庄左衛門と穂積惣右衛門の娘の幸との悲恋が描かれている。

ルノワールと印象派の仲間たち

20100124_1372889     本日はフランスの画家ピェール・オーギュスト・ルノワールの1919年の忌日。1841年2月25日、中仏リモージュで5人兄弟の第4子として生まれた。父のレオナールは仕立屋、母のマルグリットはお針子だった。ルノワールが4歳のときに一家はパリに移ったので、彼は首都で育つことになる。13歳のとき、ルノワールは小さな陶磁器工場の絵付け見習いとなった。工場に勤めていた時代、昼休みにルーヴル美術館にたびたび通っていた。彼の好んだ絵は、ヴァトーやブーシェやフラゴナールの描いた宮廷生活の目も綾な18世紀名画であり、劇的で鮮やかな色彩に富んだドラクロワの油絵だった。

   1862年、21歳のルノワールは、パリで有名な私立画塾シャルル・グレールのアトリエ学生となった。画塾の性格は伝統を重んじ保守的だったが、おかげでルーヴルに行って昔の巨匠たちに学ぶ時間がたっぷりでき、それが彼に良い影響を与えた。だが、グレールはまた戸外でスケッチすることの大切さも強調し、ルノワールにフォンテンブローの森へ行くように強くすすめた。

   学生仲間であったクロード・モネ、アルフレッド・シスレーやフレデリック・バジールらを通じてルノワールはエドガー・ドガやエドゥワール・マネをはじめ、多くの作家や批評家を知った。彼らはしだいに友情で固く結ばれ、定期的にパリのカフェで会っては自分たちの方法論を語り合ったのが印象主義という考え方であった。さらにピサロ、セザンヌ、ギョーマンらとも交わり、のちの印象派運動に向かう若い革新画家の一団に仲間入りした。こうして初期にはコロー、ドラクロア、クールベからの影響を受けた。ところが、1870年に普仏戦争が起こり、ルノワールも従軍し、仲間たちとの交遊も突然の休止を余儀なくされた。(12月3日)

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香川県独立記念日

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    本日は香川県の独立記念日。香川は面積が1876k㎡と、47都道府県の中で一番狭い。1888年12月3日、愛媛県から分離独立し、現在の都道府県がすべて確定したのである。1876という数字と因縁があるのは、愛媛県に1876年に編入されたからである。江戸以来、讃岐とよばれ独立の気風が強く、県民には単独の県の設置を望んだ。奇しくも面積と屈辱の年とが同一の数字。

2016年12月 2日 (金)

「永遠の0」と空母バンカーヒル

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    映画「永遠の0」はフィクションであるが、太平洋戦争中のいろいろな実話がたくみに取り入れられている。そのひとつが空母に特攻するラストシーン。宮部久蔵少尉が海面スレスレの低空飛行して接近し、急上昇して急降下して敵艦に突入した。これは1944年5月11日、沖縄侵攻の支援中のバンカーヒルが大破した事実と酷似する。鹿屋基地を特攻機95機が飛び立っていった。その中の2機が沖縄南西諸島沖東方122kmに空母を発見、「ワレ突入ス」との無電の後、安則盛三中尉(21歳)搭乗の零戦が体当たり特攻し、空母は大火災を引き起こした。続いて小川清少尉(22歳)の零戦が対空砲火を通り抜けて、500㎏爆弾を投下後、艦橋に激突。ガソリンに引火し戦死者402名、負傷者264名。大破した空母バンカーヒルはその後、真珠湾経由でワシントン州ブレマートンに帰還した。

ラクロスの起源

  ラクロスと呼ばれる網の付いたスティックを用いて、10名編成の2チームが相手ゴールにボールを打ち込み得点を競う。もともと北米インディアン(スー族やチョクトー族)が「バガタウェー」と呼んで、戦勝祈願として舞や踊りのときの儀式として行っていた。現代競技はカナダの歯科医ウィリアム・ピアーズ(1843-1900)が1869年頃スポーツとして広めた。Baggataway、William Greorge Beers

みずからの手で戴冠する皇帝ナポレオン

   1804年のこの日、ナポレオン・ボナパルトの戴冠式がローマ教皇ピウス7世臨席下、パリのノートルダム大聖堂で行われフランス皇帝に即位した。慣例では、フランスのランス大司教が王冠をかぶせるところ、ナポレオンはみずから戴冠し、皇后ジョセフィーヌに自分の手で王冠を授け、自己の権力を誇示した。ナポレオンは、みずからを、1000年前にローマ皇帝として戴冠したカール大帝になぞらえていた。皇帝の依頼で大作を制作した画家ダヴィッドは完成に手こずり、実際に出来上がったのは戴冠式から3年の後のことであった。(12月2日)

本当は火を使用しなかった北京原人!?(異説世界史)

Img_1548940_28906951_0    1929年12月2日、裴文中が中国・周口店で北京原人の完全な頭蓋骨を発見した。

    これまで人類が初めて火を使ったのは50万年前の北京原人(学名ホモ・エレクトス・ペキネンシス)と考えられていた。近年、南アフリカ北部で約100万年前に草木を燃やし、獲物の動物などを焼いて食べていたとみられる跡が発見された。欧米の学者は北京原人が火を使い、火種を保存する能力がなかったのではと見ている。ブラックによって学名シナントロプス・ペキネンシスと名付けられていたが、現在はホモ・エレクトス・ペキネンシスと改称されている。アフリカ起源の人類が世界各地域に広がったとする単一起源説が優位であるが、米学者ミルフォード・ヴォルポフらは北京原人を根拠に多地域並行起源説を唱えている。中国の学者らも単一起源説に批判的であり、北京原人が火を使い、火種を保存する能力があったと主張している。

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    20世紀初頭の北京原人の調査にあたった学者たちは米の古生物学者ヘンリー・オズボーン(1857-1935)の影響下にあった。オズボーンは中央アジアこそが人類の起源であるという仮説をたてた。1914年、スウェーデンの地質学者ヨハン・アンダーソン(1874-1934)は中国全土を調査した。1919年にカナダ人のダヴィッドソン・ブラック(1884-1934)が北京にやって来た。1921年、ブラックとオットー・ツダンスキーは周口店で北京原人の歯を発見した。続いて輩斐文中がほぼ完全な頭蓋骨の化石を発見し、世界的に注目が集まった。ワイデンライヒは北京原人を現生人類の祖先と考えたが、現在では否定する学者が多い。未だ北京原人がアジア人の祖先か、火を使用したのか、決定的なことは謎のままである。

 

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  アンダーソン              ブラック

( keyword;Homm erectus Pekinensis,F・Weidenreich,Davidson Black,Johan Gannar Andersson )

メルカトル図法

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メルカトルの世界地図(1569年)

   1594年のこの日、オランダの地理学者、ゲラルドウス・メルカトルの忌日。地理的発見時代の到来により、地図の出版活動も盛んとなった。十字軍遠征がいくどとなく行なわれた中世の後半は地中海を中心とする時代であり、したがって地図製作もベネチア、ジェノバなどのイタリア諸都市が中心であった。しかし、新大陸が発見されると、新たに北海を介して大西洋に臨む北西ヨーロッパの都市が元気づいてきた。とくにその中心的位置を占めるネーデルランドは活気にあふれ、アムステルダムはやがてヨーロッパ第一の商業・貿易都市になった。ゲラルドゥス・メルカトル(1512-1594)はこの時代の代表的な地図学者・地図製作者である。当時の旅行者や商人の旅行記や見聞録などから広く資料を集めて、「ヨーロッパ地図」「南北アメリカ地図」「世界地図」などを作成した。

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     今日の地理学においてメルカトルの考案した地図は円筒図法のひとつでその正角性から正角円筒図法ともいう。経線からの角度が正しい等角図法であるため、海図・航海用地図としてよく用いられてきた。ただし正角図法の原理はメルカトルの独創ではなく、ドイツのエアハルト・エッツラウプが1511年に作成した地図にすでに使用されている。

   メルカトル図法は経線からの角度は正しく現されるが面積関係が正しく得られない欠点がある。赤道付近の形は正確に近いが、高緯度地域に向かうにしたがい、距離・面積の歪みが大きくなる。また正角の地図であるからといって、土地の輪郭が実際の形と相似に描かれるわけではない。緯度的ひろがりの大きい土地ほど、その輪郭は歪んでいる。またメルカトル図法では東京・ニューヨークを結ぶ直線は、東京・ニューヨーク間の最短通路ではない。 (12月2日)

龍田丸、最期の航海

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 海の女王・龍田丸

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 司厨長・板倉作次郎による料理は評判だった

   日米開戦が噂される中、昭和16年12月2日、日本郵船の豪華客船龍田丸(16955トン)が静かに横浜港を出航した。行く先はロサンゼルス経由バルボア(パナマ)である。大本営は龍田丸の出航停止を検討していた。しかし、それでは日米開戦を知らせることになってしまう。そこで当初11月20日であった出航日を、12月2日に変更させることにした。11月20日の場合、ロス着12月3日、バルボア着17日、18日ごろになる。真珠湾攻撃日が決定されている以上、バルボアでは確実にアメリカ軍に拿捕されることが明らかである。そこで、日程をずらした。12月2日に出航した龍田丸は、12月8日は、まだ180度あたり(日付変更線)なので、敵に拿捕されないギリギリの地域でUターンし、全速力で横浜に向かい、12月14日横浜に寄港した。この計画を知っていたのは、乗船した海軍軍務局の市川少佐と本村船長だけだった。

    龍田丸は航海運航終了後は海軍に徴用された。昭和18年2月8日、風速20mの暴風雨の中、トラック島に向けて横浜港を出航した龍田丸は、米潜水艦ターホンの雷撃を受け、御蔵島近海で沈没した。乗組員198名、乗船員1283名、全員死亡、生存者は一人もいないという悲劇的な最期を遂げた。太平洋横断を100回以上を超えた龍田丸Ⅰ世(1930-1943)は今も東京湾から南西約200㎞の御蔵島沖に静かに眠っている。

スーラとマリア・カラス

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   ジョルジュ・スーラ         マリア・カラス

    今日は画家ジョルジュ・スーラとソプラノ歌手マリア・カラスの誕生日。スーラは1859年12月2日、パリのド・ポンディ通りで生れた。マリア・カラスは1923年12月2日、ニューヨークで生れた。2人にはもう1つ共通点がある。パリ東部にあるペール・ラシェーズに埋葬されていることである。

   この墓地はパリ最大の広さをもち、ほかにも多くの著名人がここに眠っている。アベラーズとエロイーズ、バルザック、コンスタン、アポリネール、ラディゲ、オスカー・ワイルド、プルースト。作曲家ではショパン、ビゼー、ロッシーニ。イブ・モンタンやエディット・ピアフなどシャンソン歌手。画家ではダヴッド、コロー、アングル、ドラクロワ、ピサロ、モディリアーニ。

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  ショパン

2016年12月 1日 (木)

ラ・サール卿の非業の最期

   1682年フランスの探検家ラ・サール卿は五大湖からミシシッピ川を下って探検を進め、ミシシッピ流域の領有権を主張し、その領土をルイ14世に因んで「ルイジアナ」と名付けた。しかし彼は1687年本国からの物資が途絶えるなか、テキサス州ナバソタ付近で部下のピエール・デュオ―によって殺害された。参考;「トンティによるラ・サール踏査行の記録 1678~1690」 ロベール・カブリエ・ド・ラ・サール、Robert Cavelier de la salle、Pierre Duhaut

演歌とトロット

   大みそかのNHK紅白歌合戦に落選した大物歌手の騒動がやかましい。ヒット曲がないのに長年紅白に出場してきたという既得権に対する若者たちの反発が背景にあるようだ。ここ数年、演歌にヒットがなく、J・POP中心の番組構成になってきている。しかしAKBやジャニーズばかりのグループ歌謡もつまらない。このような状況はお隣の韓国も似ているが、韓国にはトロットといわれる大衆歌謡がある。「トロット王子」といわれるパク・ヒョンビンやチャーミングな女性歌手ホン・ジニョンが人気があり、いまでもトロットの人気は衰えをしらない。日本では本日「日本作詞大賞」が、5日には「有線大賞」が発表され、30日のレコード大賞に向けた歌謡レースが始まる。Park Hyun Bin、Hong Jin Young

兄弟姉妹ものがたり

O0609042912970246235   広瀬アリスと広瀬すず、といえば美人姉妹で人気急上昇だが、兄弟姉妹を集める。まず歴史上著名な兄弟姉妹といえば、ローマのグラックス兄弟、ファン・アイク兄弟、ホルバイン兄弟、グリム兄弟、ブロンテ三姉妹、ライト兄弟、そして映写機を発明したリュミエール兄弟。ハインリッヒ・マンとトーマス・マン。マックス・ウェーバーとアルフレッド・ウェーバー。ゴンクール兄弟は、兄が構想をねり、弟が文章を書き、おもな作品はすべて兄弟名で発表した。ともに暗殺されたケネディ兄弟(ジャック&ボビー)。映画のコーエン兄弟。

   日本では曽我兄弟や玉川兄弟、徳富蘇峰・蘆花、石原慎太郎・裕次郎。詩人・高村光太郎の弟豊周(とよちか)は鋳金家で人間国宝になっている。今東光と今日出海など。森鷗外の弟、森篤次郎は鷗外と同様、帝国大学医科大学を出て、医師となる。幼少時より馴染んだ芝居見物が一生の趣味となり、歌舞伎の劇評家として有名であった。

     最近プロ野球では新井や堂上、香月のように兄弟で活躍するプレーヤーが目立つ。ボクシングでは亀田3兄弟。芸能界でも古くから兄弟姉妹は多い。ジャズのジミー・ドーシーとトミー・ドーシー。シャーリー・マクレーンとウォーレン・ビーティー。ジェーン・フォンダとピーター・フォンダ。ボー・ブリッジズとジェフ・ブリッジズ。カーペンター兄妹。ダコダ・ファニング、エル・ファニングが最も有名な姉妹かもしれない。タヴィアニ兄弟は半分ずつを交互に監督していくという独特の手法で作品を発表している。古いところではリリアン・ギッシュとドロシー・ギッシュ。ノーマ・タルマッジにはナタリーとコンスタンスの2人の妹がいる。オリヴィア・デ・ハヴィランドとジョーン・フォンティン。

  日本では田村正廣、正和、亮の3兄弟。若山富三郎、勝新太郎。萬屋錦之介、中村賀葎雄。長門裕之、津川雅彦。松本幸四郎、中村吉右衛門。渡哲也、渡瀬恒彦。高島政宏、政伸。瑛大と永山絢斗。マジシャン山上佳之介、暁之進。キリンジ堀込高樹、泰行。海原千里万里。倍賞千恵子、美津子。石田ゆり子、ひかり。荻野目慶子と洋子。市川美和子と美日子。鳥羽一郎、山川豊。岩崎宏美、良美。真野響子、あずさ。月丘千秋も月丘夢路の実妹。エド山口とモト冬樹。叶正子、高、央介のサーカス。ファッションモデルの道端三姉妹。伊調姉妹。浅田舞と真央。広瀬アリス、すず(画像)。千原せいじ、ジュニア。柳いろは、ゆり菜。福島のカワウソ3姉妹は「うめ」「さくら」「もも」と命名される。まえだまえだ(前田航基・旺志郎)。双子姉妹ではザ・ピーナッツ、こまどり姉妹、小桜姉妹、祐子と弥生、ザ・リリーズ、リンリン・ランラン、オルセン姉妹、マナカナ。(Joan Fontaine,Dakota fanning,Elle Fanning)

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師走

20140401095414   12月を師走と当てる。なぜ「師走」というのか古来より諸説ある。12月は1年の終わりで皆忙しく、師匠といえども趨走(すうそう=ちょこちょこ走るの意)するというので「師趨」となり、これが「師走」となったとする。第2の説は、師は法師の意で、師が馳せ走る「師馳月」(しはせづき)であり、これが略されたものとする。第3は、漢語「歳終月」を「としはるつき」と読み、それが略されて「しはつ」となったとする新井白石の説がある。第4は、「し」は年を意味し、「はす」を「果つ」と解する説。

    「十二月」を「しはす」と読むことは、万葉集の時代にあったもので、「師走」を書いたのは平安時代になってからである。「師走の月夜の、曇りをなくさし出でたるぞ」と源氏物語総角に見える。「奥義抄」(平安後期の歌学書)には「十二月、僧をむかえ経を読ませ東西に走る故に師走というを誤れリ」とある。師走とは本来、極限という意味があったようである。(12月1日)

カイロの日

Sp1030979    日本使いすてカイロ同業会が1991年に制定した記念日。日本製カイロが中国でよく売れているとか。カイロは戦国時代、忍者が携帯していた「胴火」がそのルーツと考えられる。第二次世界大戦中、対日本基本政策を決定するためエジプトのカイロで行われたカイロ会談、フランクリン・ルーズヴェルト、ウィンストン・チャーチル、蒋介石の会談が行われた。使い捨てカイロとエジプトのカイロが同日というのは偶然の一致なのだろうか。カイロとは本来「勝利」という意味であるがこれも偶然なのだろうか。(Cairo conference,12月1日)

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映画発祥の地・神戸

    神戸湊川神社前の高橋鉄砲店の2代目店主の高橋信治、大阪心斎橋の三木福時計店店主の三木福助がリネル商会(神戸居留地14番)を通じてキネトスコープを輸入し、神戸の料亭「宇治川常盤」で明治29年11月17日に上映したのが日本で最初の映画公開である。キネトスコープとはエジソンが発明したもので、レンズをのぞいて箱の中の動画を見る装置。

    一般の人にもキネトスコープを公開しようということで、神戸花隈の有料貸席「神戸倶楽部」が11月25日から12月1日まで興行された。馬車と自転車の競走などの簡単な映像であったが、好評だった。「12月1日は映画の日」というのは、これに因んできりのよい日という理由で昭和31年に制定されたものである。

標語誕生

Img_1494464_51243906_0  1972年のこの日、交通安全標語「せまい日本そんなに急いでどこへ行く」が最優秀となる。戦時中は勇ましいスローガンが巷に氾濫していた。「欲しがりません、勝つまでは」「撃ちてし止まむ」「進め一億火の玉だ」など。1939年8月、国民精神総動員本部は「ぜいたくは敵だ」、1940年8月1日には「日本人ならぜいたくは出来ない筈だ」の立看板1500本を東京市内に立てた。

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   戦後は交通安全のスローガンが有名だ。「注意一秒、ケガ一生」「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」「とびだすな車は急に止まれない」「せまい日本そんなに急いでどこへ行く」せまい日本の標語は高知県警土佐署の現役巡査だった岡本定之助の作品で、道の駅梼原に石碑が建てられた。(slogan,12月1日)

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「きよしこの夜」と「ホワイト・クリスマス」

Bingcros   クリスマスの定番曲といえば、古くから伝わる讃美歌とワムや山下達郎のような20 世紀に入ってからのポビュラーソングのクリスマス曲がある。古くからのクリスマス曲の代表といえば「きよしこの夜」。1818年ドイツのヨゼフ・モール神父が作詞し、フランツ・クサーヴァー・グルーバーによって作曲された。1859年ジョン・フリーマン・ヤングによって英語に訳され、世界中に広まった。

   ポピュラーソングの代表曲といえば「ホワイト・クリスマス」。この曲は、元々は映画「スイング・ホテル」(1942年)の劇中歌。作曲者アーヴィング・バーリンが初めてのリハーサルでこの曲を弾いたとき、ビング・クロスビーはこの曲の可能性を十分に認識しなかった。クロスビーは「この曲は何も問題ないね、アーヴィング」と言っただけだった、と伝えられる。クロスビーにとっては普段の調子ですぐに歌える簡単なメロディーだったのだろう。いまでは多くの歌手にカバーされており、史上もっともヒットした歌曲の一つとされている。「ホワイトクリスマス」は従来の宗教のわくを離れて、アメリカの新しいクリスマスを祝うスタイルを理想化した作品といわれている。(Bing Crosby)

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