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2016年11月25日 (金)

王莽の簒奪

   紀元8年のこの日、王莽が新を建国した。新王朝(AD8-23)は、前漢と後漢との間に王莽(BC45-AD23)が建てたごく短命の封建王朝である。王莽は東平陵(山東省章丘)の人。漢の成帝の生母は、王莽のおばにあたる。彼は外戚の身分で大司馬に任ぜられて尚書を担当し、政治的には最高の職権を掌握した。そのうちに平帝を毒殺し、ついで漢の皇帝孺子嬰をも廃して、国号を新と称した。

   王莽の身長はやや高く、やせ形で、口が大きく、あごが短かく、大きな赤眼がとび出し、声は大きいがしわがれていた。彼は自己のこうした風采が気に入らず、高いかかとの靴、高くつくった冠、剛毛でふくらませた服を用い、臣下と会う時、ことさら胸をそらし、あごを引いて見下すようなポーズをとったという。容貌をかげでけなした臣下を殺したり、常に雲母の扇子を手にし、親しい者と会う時以外は、それで顔を隠した。また、儀式の際には、ひげや髪を黒く染めて、若く見せようとした。

   儒教を信奉していた王莽は、すべての政治を周の制度に復することを理想とした。広く流通していた漢武帝の五銖銭を改めて、軽く小さい王莽銭を鋳て、財政不足を補おうとした。また奴婢の売買を禁じ、土地を国有化して王田と称するなどして、商業利潤の国家独占を図ったため、豪族らの強い反抗をうけた。反乱のうち有力なものは、山東に蜂起した農民集団赤眉と南陽豪族群の援助をえた漢の一族劉秀である。AD23年、長安に突入した劉玄(更始帝)の軍勢によって王莽は殺された。劉玄は酒色におぼれて、側近に政治をまかせた。側近は横暴な政治を行ない、そのため赤眉集団は離反した。25年9月、赤眉軍は劉玄を殺した。赤眉集団は一時的に都長安を占領したものの、豪族連合軍に破られて山東に退却し、結局勝利は劉秀の手に帰した。この劉秀こそ後漢の光武帝(在位25-57)である。(11月25日)

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宮城谷昌光の「草原の風」で、劉秀の物語を読みました。

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