ユトリロの信仰心
1955年のこの日、モーリス・ユトリロは71歳で没した。ユトリロは1883年12月26日、パリのモンマルトルのポトー街3番地に、女流画家シュザンヌ・ヴァラドン(1865-1938)の私生児として生れた。ユトリロの前半生において、およそ10回におよぶアルコール中毒治療のための精神病院への入院がよく知られている。入院中、懸命に絵を描いては医師や看護婦たちにそれを見せ、自分が正常であることを示そうとした。作品のほとんどが風景画である。それもありふれたパリの街並み。なかでも注目されるのが教会が多いことである。サント・マルグリート教会、セント・セブリン教会、ドウィユの教会、モンマルトルの教会、サン・ジェルヴェの教会、シャティヨン・シュル・セーヌ教会、クリニャンクールのノートルダム教会など名作が多い。
ユトリロは少年期から信仰に心ひかれるものがあったらしい。しかし母親のヴァラドンは少女時代の体験から聖職者たちに深い憎悪を抱いていた。母はユトリロに洗礼を受けさせず、彼の手から説教の本をとりあげることもたびたびあった。にもかかわらず、ユトリロの神への希求は衰えなかった。
また、少年時代からジャンヌ・ダルクに魅せられていた彼は、第一次世界大戦の始まった1914年、ランスの聖堂(百年戦争の時、ジャンヌ・ダルクがフランス国王を即位させた場所)が、ドイツ軍に爆撃されたことを知って逆上し、その怒りを作品「炎上するランスの聖堂」として残している。1933年、49歳の年にようやくリヨンで洗礼を受け、4年後に聖体拝受をしたユトリロは、ますます狂信的ともいえる信仰の生活に入っていく。アトリエに祭壇を設け、教理問答書も暦の聖人の名もすべて暗記し、1日に6時間も祈りを続けた。ジャンヌ・ダルクが処刑された水曜日と、キリストが十字架にかけられた金曜日は仕事をせず、聖母マリア像の足や聖人の聖脾に接吻したりして過ごしたという。晩年のユトリロにとって、信仰は、若き日の絵と酒に代わる最後の心の拠り所であった。(11月5日)
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