大覚寺統と持明院統 南北朝の動乱
平安時代のはじめ、京都の大山田と呼ばれていた地に嵯峨天皇の離宮があり、天皇が譲位の後ここに住居して深く弘法大師に帰依し、五大明王をまっつたことが大覚寺のおこりである。嵯峨野という地名は天皇の離宮、嵯峨院から始まる。その後、清和天皇は876年離宮を寺に改め、大覚寺と号し、恒寂法親王に与えた。よって法親王を当寺の開山と仰ぐ。その後、寛空、定昭が寺主となり、定昭が南都に一乗院を開いてからは、約280年間、一乗院の兼務となった。鎌倉時代にいたり、後嵯峨、亀山、後宇多法皇が入御されたが、特に後宇多天皇の帰依が厚く、寺観も大いに整えられた。後宇多法皇は大覚寺法皇と称せられ、中興開山と仰がれる。
南北朝の対立の源流をなした大覚寺統とは、1259年11月26日、後深草天皇が父である後嵯峨上皇により弟の恒仁親王(亀山天皇)に譲位させられ、皇位は大覚寺統と持明院統に分裂した。大覚寺統は亀山、後宇多、後二条、後醍醐天皇の皇統をいう。1392年10月5日、南北朝講和が成立し、後亀山天皇と後小松天皇とのあいだに神器の授受がおこなわれたのもこの寺であった。その後の兵乱その他によって古い建物は残っていないが、古図によれば当時の寺域は現在の20倍にも及んでいる。(11月26日)
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