佐伯孝夫の昭和歌謡
佐伯孝夫(1912-1981)は歌謡曲作詞家として戦前は佐々木修一(1907-1957)、戦後は吉田正(1921-1998)とのコンビで数々のヒット曲をうんだ。歌手では戦前は藤山一郎、戦後は橋幸夫などのヒット曲に恵まれた。吉田正は「自分の歌の先生は佐伯孝夫氏だ」と言っていた。
佐伯孝夫、本名・和泉孝夫は明治35年11月22日、東京・京橋の生まれ。宇都宮中学を経て、早稲田第二高等学院から早大仏文科に学び、西條八十に師事した。大正13年、同人誌「棕櫚の葉」を横山青蛾、加藤憲治、村野三郎、寺崎浩、渡辺修三らと創刊した。また吉江喬松が中心となっていた「青色の室」で詩作に励んだ。大正15年に大学を卒業すると、浅草のカジノ・フォリーの仕事もした。そして昭和4年に国民新聞学芸部記者をしながら、作詞家活動をはじめる。国民新聞(昭和19年まで)、東京日日新聞社に勤務。この間、ビクター専属となり、戦前「湯島の白梅」「鈴懸の径」戦後では「銀座カンカン娘」「有楽町で逢いましょう」「いつでも夢を」などがある。
レコード歌謡曲のデビュー曲は、昭和6年12月に発売された、藤山一郎の「栄冠涙あり」である。若きボートマンをテーマにした青春讃歌。つづいて「青春グラウンド」「野球小僧」「若い力」などのスポーツソングを書いている。また作曲家・佐々木修一とのコンビのヒット曲に「僕の青春」「無情の夢」「燦めく星座」「新雪」「明日はおたちか」「月よりの使者」「桑港のチャイナタウン」「アルプスの牧場」「高原の駅よ、さようなら」などがある。このほか「思ひ出のギター」「チェリオ!」「赤い花」「さらば青春」「僕の銀座」などには佐伯歌謡の特色がよくでている。
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