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2016年11月28日 (月)

鹿鳴館の淑女たち

Photo_2  外務卿井上馨は不平等条約改正交渉のため、日本が文明国であることを外国人に示す必要があると考えた。明治16年7月、イギリス人ジョサイア・コンドルの設計により、東京千代田区内幸町(麹町・旧薩摩藩装束屋敷跡)に鹿鳴館が完成した。総工費18万円の巨額と3年の歳月をかけて、大倉組(大倉喜八郎)の手になる煉瓦造2階建ての欧風建物。明治16年11月28日に開館。この日は井上馨の誕生日でもあった。「鹿鳴館」という名称は万葉集巻9の雄略天皇の歌に「夕されば小椋の山に臥す鹿の今夜は鳴かず寝ねにけらしも」に由来する。詩経小雅の「鹿鳴」、つまり、高貴なる客をもてなす宴会という意味からとったという。

    舞踏会の主役である日本夫人たちも外国人の饗応に最初はとまどったことであろうが、夫人・令嬢は従順にふるまった。中心となった井上武子(1850-1920、井上馨夫人)、伊藤梅子(1848-1923、伊藤博文夫人)、大山捨松(画像1860-1919、大山巌夫人)、森阿常(1855-1900、森有礼夫人)らは積極的に舞踏会、仮装会、慈善バザーなどを主催した。また美貌で知られた陸奥亮子,戸田極子らは鹿鳴館の華といわれた。

   しかし、民間からは「鹿鳴館夜会の燭光は天に沖するも重税の為めに餓鬼道に陥りたる蒼生を照す能はず」と非難の声があがった。おりしも、場所は鹿鳴館ではなく、首相官邸であったが、明治20年の伊藤博文首相主催の仮装舞踏会(ファンシー・ボール)で伊藤が戸田極子に醜怪な事件を起こしたとして、スキャンダルとなった。明治22年には森有礼が刺客西野文太郎に暗殺された。民論は欧化主義への反対となって沸騰した。華美を誇った鹿鳴館も明治23年には華族会館となり、さらに保険会社のものとなり、昭和15年には国辱的建物として取り壊された。

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