ショパン、パリで死す
フレデリック・フランソア・ショパン(1810-1849)は、ポーランドのワルシャワ近郊のジェラゾバ・ボラに生まれた。ショパンは優しいピアノ曲を数多く作曲し、「ピアノの詩人」として親しまれている。しかし、彼は亡国の民、ポーランド人として生まれ、民族の抑圧に対する憤りと民族の自立を求める情熱を生涯にわたって持ち続けた。
ショパンがパリを訪れた1831年7月はコレラが大流行していた。ヨーロッパ中に蔓延したコレラの死者は100万人に達する勢いを示し、一時アメリカに渡航することも考えた。しかし、当時は、ユーゴー、バルザック、スタンダール、ボードレール、画家のドラクロア、音楽家のベルリオーズ、ロッシーニ、リスト、メンデルスゾーンが活躍している。こうしたパリに落ち着いたショパンは、まもなくピアノの演奏家としての成功を収め社交界の人気者となった。「ショパンが流行をつくる」といわれるほどの華やかな生活を送ることになった。しかし、彼は精神的には孤独であり、ポーランド人としての苦悩、徐々に悪化する肺結核に苦しめられた。しかし、ショパンは、パリ生活の初期に、ポーランドから携えてきた複雑な思いを次々と音楽化した。1832年から35年までの4年間に7冊の曲集が作られている。彼が作曲したのは主に、貴族の行進曲から生まれた荘重なポーランド舞曲のポロネーズ、農民の三拍子の舞曲のマズルカであった。これらの曲はポーランド人を励まし続けることになった。1836年、ショパンはジョルジュ・サンドに初めて出会う。彼らの恋愛は1838年夏に始まった。マヨルカ島への旅はその年の秋に行なわれ、一時華麗な生活を送った。しかし、1842年以降になると結核のためか、作曲の意欲は急速に衰え、1849年10月17日、ショパンは異郷のパリで寂しく世を去った。(参考:宮崎正勝「世界史の海へ」小学館) Fryderyk Chopin
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