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2016年10月14日 (金)

明治の成金王と脱獄王

   鰹節店の丁稚から身を興し、幕末のどさくさに鉄砲商で巨万の富を得た明治の成金王・大倉喜八郎(1837-1928)と脱獄6回、神出鬼没に全国各地に現れ、貧しい人の家に金を投げ込んだりする庶民のヒーロー「五寸釘の寅吉」こと西川寅吉(1854-1941)。成金王と脱獄王、この二人の数奇な人生の妙味は刑務所にあった。

   明治のはじめ、刑務所、監獄は集治監といった。刑務所に改称したのは大正11年10月14日である。明治12年内務省直轄の集治監が東京の小菅と宮城に建設された。その前年、大倉喜八郎の手によって宮城刑務所の建設が始められた。明治14年には北海道の石狩川右岸シベツプトに全国一の集治監を建設する話が持ち上がり、その工事請負にやはり宮城で実績のあった大倉が当たった。樺戸集治監の獄舎が大倉組によって建設され、篠崎から当別までの道路建設も大倉組であった。そのころの集治監は、刑務所というよりも強制収容所といったものであり、囚人には苛酷な労働が強いられた。北見道路の突貫工事には囚人約200人の死者がでた。北海道には樺戸(月形町)をかわきりに、空知(栗山町)、釧路(標茶町)、網走(網走市)など要所に建設され、囚人は開拓と労働に従事させられた。樺戸と網走では道路建設が、空知や釧路では炭鉱、硫黄鉱山の労働などに動員された。樺戸の囚人によるによる上川道路(現在の国道12号)建設が名高い。

    西川寅吉は14歳で無期刑となって三重の牢獄に入れられた。その後、静岡で捕まって、東京の小菅、樺戸集治監へ送られ3度脱獄した。熊本で捕まり、次は空知、標茶、さらに網走へ移った。樺戸では濡らした獄衣を塀にたたきつけ、一瞬の吸着力を利用して塀を乗り越えた。大倉喜八郎もたびたび樺戸へ足を運んだといわれるが、まさか囚人の寅吉と顔を合わせたことはないだろうが、明治の元祖成金・大倉喜八郎(91歳)と脱獄王・西川寅吉(87歳)は、北の大地の開拓地で、その接点があった。ただし、ふたりがお互いの名前や存在を知っていたかどうかも分からない。監獄を建設した男と脱獄した男、両雄の壮絶な人生に乾杯!!

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「北の蛍」という映画で北海道の集治監の過酷な重労働が描かれていました。今は亡き早乙女愛が体当たりの演技で出演しています。

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