秦氏とネストリウス派キリスト教
西暦603年のこの日、秦河勝が聖徳太子から仏像を譲り受けたとされる。
聖徳太子を「厩戸豊聡耳皇子」というが、太子をキリストに擬したのは景教(ネストリウス派)の信徒がいたという説は古くから存在する。佐伯好郎は渡来人の秦氏がキリスト教であったと考えた。京都にある秦氏の本拠地「太秦」には秦氏創建の広隆寺があり、広隆寺はもともと「太秦寺」と呼ばれキリスト教の教会であった。日本書紀には「弓月国の王が127県の民を引き連れて百済からやったてきた」とある。弓月国は3世紀から6世紀にかけて西域に栄えたキリスト教国だった。西突厥に滅ぼされ、弓月国の子孫である秦河勝が聖徳太子の側近となって、多くの神社を建てた。河勝は、太子亡き後、蘇我入鹿の迫害を避け、海路をたよって赤穂の坂越浦に逃れ、647年、80余歳で亡くなっている。現在、赤穂大避(おおさけ)神社には秦河勝が祀られている。(11月1日)
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