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2016年10月31日 (月)

ローランサンとアポリネール

Marielaurencin     マリー・ローランサンは、1883年10月31日、パリで生まれた。私立の画塾で学び、キュビズムの仲間たちと出会い人気者となる。1907年、ローランサンはピカソを介して詩人のギョーム・アポリネール(1880-1918)と知りあい、ふたりは熱い仲となる。

   しかし、この恋は実らなかった。アポリネールはモナリザ盗難事件への関与を疑われてサンテ監獄に入ることとなった。ローランサンの母は、「そんな男に娘はやれない」と反対し、5年に及んだ恋は消えた。アポリネールはこのときのつらい別れの思いを詩「ミラボー橋」にうたった。

    ミラボー橋のしたセーヌは流れ

   わたしたちの恋も

   せめて思い出そうか

   悩みのあとには喜びが来ると

    アポリネールと別れ、母の死を看取ったローランサンは、1914年、男爵で画家のドイツ人ヴェッチェンと結婚する。だが、第一次大戦が勃発し、敵国人となった夫妻は中立国スペインに亡命する。夫はやがてアルコール依存症でローランサンを悩ませ、7年後に離婚する。

    アポリネールは第一次大戦に志願して、1916年に頭部を負傷、3度の手術を受けるが完治しないままスペイン風邪で1918年38歳で死亡する。1921年、パリに戻ったローランサンは、気品のある高級感でパリで売れっ子の画家となり成功をおさめた。絵画をはじめ版画、詩、舞台美術など多くの分野で活躍した。1956年6月8日、パリで心臓発作で死去、享年72歳。(Marie Laurencin,Guillaume Apolinaire)

ガス記念日

G03     1872年のこの日、横浜の神奈川県庁前に、初めて十数基のガス灯がともされた。(10月31日)

2016年10月30日 (日)

君よ知るや南の国

   「君よ知るや南の国、樹々は実り花は咲ける」という堀内啓三(1897-1983)による名訳で知られる「ミニヨンの歌」は、もともとゲーテの小説「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」(1791-1796)の中の詩である。「ミニヨンの歌」は4編あるが、よく知られるのはヴィルへルムへの密かな恋心を抱くサーカス一座の少女ミニヨンが、故郷イタリアへの想いをうたう歌で、フランス人のアンブロワーズ・トーマの歌劇「ミニヨン」の中のアリアである。歌曲「ミニヨンの歌」はこれまで90曲ほどの作品が残されている。おもな作曲家としては、ライヒヤルト(1752-1814)、ツェルター(1758-1832)、ベートーベン(1770-1827)、シューベルト(1797-1828)、メンデルスゾーン(1805-1847)、シューマン(1810-1856)、リスト(1811-1886)、グノー(1818-1893)、ルービンシュタイン(1829-1894)、チャイコフスキー(1840-1893)、デュバルク(1848-1933)、ヴォルフ(1860-1903)などがいる。

  またゲーテの詩「ミニヨンの歌」の邦訳も森鴎外はじめ数多く残されている。

君知るや南の国

レモンの木は花咲き くらき林の中に

こがね色したる柑子は枝もたわわに実り

青き晴れたる空より しづやかに風吹き

ミルテの木はしづかに ラウレルの木は高く

雲にそびえて立てる国や 彼方へ

君とともに ゆかまし

            (森鴎外の訳)

              *

君や知る、レモン花咲く国

暗き葉かげに黄金(こがね)のオレンジの輝き

なごやかなる風、青空より吹き

テンニン花は静かに、月桂樹は高くそびゆ

君や知る、かしこ。

かなたへ、かなたへ

君と共に行かまし、あわれ、わがいとしき人よ。

君や知る、かの家。柱ならびに屋根高く、

広間は輝き、居間はほの明かるく、

大理石像はわが面を見つむ、

かなしき子よ、いかなるつらきことのあるや、と。

君や知る、かしこ。

  かなたへ、かなたへ

君と共に行かまし、あわれ、わが頼りの君よ。

君や知る、かの山と雲のかけ橋を。

ラバは霧の中に道を求め、

洞穴に住むや古籠の群。

岩は崩れ、滝水に洗わる。

君や知る、かしこ。

  かなたへ!かなたへ

わが道は行く。あはれ、父上よ、共に行かまし!

               (高橋健二の訳)

                       *

君よ知るや南の国

レモンの花咲き オレンジのみのる国

空は青く 風はさわやか

桂(かつら)はそびえ ミルテかおる

君よ知るや かの国

はるかに はるかに

恋人よ 君といこうよ

君よ知るや 南の国

そこにある わがすみか

広間あかるく 花の香みちる

「おまえは しあわせ?」

やさしく といかける ふるい胸像

はるかに はるかに

恋人よ 君といこうよ

       (三木澄子の訳)

           *

       ミニヨン

あこがれを知るひとだけが、

私の悩みを知っている。

すべての喜びから

ひとり離れて、かなたの

大空を私は眺める。

ああ、私を愛し、知っているひとは、

遠い所にいる。

目はくらみ

私の心は燃える。

あこがれを知るひとだけが、

私の悩みを知っている。

2016年10月29日 (土)

ボジョレー・ヌーボー

   ボジョレー・ヌーボーの解禁に向けて、3000本余りのボトルを積んだ航空便が29日朝、羽田空港に到着した。フランスのブルゴ―ニュ地区のブドウの収穫は、記録的な日照量に恵まれ、好ましい作柄という。今年の解禁日は11月17日午前0時。ボジョレー・ヌーボーの解禁日制度ができたのは1984年からで、日付変更線の関係で本国フランスより8時間も早く飲める日本ではこのころからボジョレー・ヌーボーの話題が盛んになった。(Beaujolais nouveau)

喪服が黒色になったのはなぜ?

O0480036013585441908   朝の連続ドラマ「あさが来た」で実母のお葬式で女性の白い喪服の姿に驚いた視聴者も多かった。女性は明治から昭和初期まで、白の羽二重の無垢に白の帯、すべて白で統一されていた。白喪服は「二夫に見えず(もう再婚しません)」という意味もある。喪服が白から黒に変わったのはなぜか。乃木希典の大正元年の葬儀のとき、列席した世界各国の要人たちの服がみな黒であった。その時の服装が、日本の喪服文化に影響を与えたといわれている。

世界史で喪服を黒と定めたのは古代ローマ帝国。黒服をまとうことにより死者の霊が自分につくことを避けようとする恐怖心のあらわれでもあった。ところが古代中国では白色が来世での幸福を祈る色とされたため、葬式には白色の服を着ていた。この影響は韓国や日本にも及んでいる。ヨーロッパも中世の頃は白喪服だった。

川端康成と浅草

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 徳永柳洲筆「浅草十二階の崩壊」

    1890年のこの日、凌雲閣(浅草十二階)が竣工した。1923年9月1日の関東大震災で崩壊したから、33年の寿命であった。川端康成は戦前の浅草が好きだった。震災のとき、jまだ帝国大学国文科の学生で(当時24歳)、本郷区駒込千駄木町で被災したので、震災前後の浅草を鮮明に記憶している。震災前の浅草を象徴したのが十二階(凌雲閣)と活動、浅草オペラだった。震災後の浅草は軽演劇団カジノ・フォーリーである。川端が昭和4年12月から連載した「浅草紅団」という新聞小説は、震災後の浅草を徘徊する不良少年少女グループの話だ。ヒロイン弓子は「私は地震の娘です。地震の真中で生れ変わったのよ」と言う。そして「カジノ・フォウリイは(略)1930年代の浅草かもしれない。エロティシズムと、ナンセンスと、スピイドと、時事漫画風なユウモアと、ジャズ・ソングと、女の足と」と書いている。浅草十二階については、小説の中で次のように描いている。

E5b79de7abafe58699e79c9f_2古い浅草の目じるし、十二階の塔は、大正十二年の地震で首が折れた。私はそのころまだ本郷に下宿住まいの学生だった。昔から浅草好きの私は、十一時五十八分から2時間と経たぬうちに、友だちと二人で、浅草の様子を見に行った。(略)「ほら、あんなに十二階がぽっきり折れちゃってるだろう。見物が大勢登ってたんだから、たまらないや。皆振り飛ばされたさ。今見て来たんだが、瓢箪池にもその死骸が、うぼうぼ浮いてるんだぜ」

    川端はその後、工兵隊が爆砕するときも、凌雲閣を野次馬見物している。(10月29日)

2016年10月28日 (金)

ギリシャ参戦記念日

Metaxas_2     1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ギリシャは中立を保っていたが、1940年8月に、イタリアの潜水艦がギリシャの巡洋艦に魚雷攻撃を仕掛けた。イタリアは最後通牒をつきつけたが、ギリシャ首相イオアニス・メタクサス(画像、1871-1941)は「Okhi」(Noの意味)と一言で拒否した。10月28日、両国で戦闘が始まり、アルバニア国境でギリシャが勝利した。だが1941年4月になるとドイツが侵攻し、ギリシャ政府はクレタ島に退避した。5月末にはクレタ島の陥落により、中東に退却。枢軸国占領下の傀儡政権が3代続いた。現在では非正統政権の首相として認められていない。ゲオルギオス・ツァラゴグル(1886-1946)、コンスタンティノス・ロゴセトプロス(1878-1951)、イオアニス・ラリス(1878-1946)の3人。(Georgious Tsolakoglou,Konstantinos Logothetopoulos,Ioannis Rallis,Ioannis Metaxas)

乃木希典と玉木正誼

   明治の陸軍大臣・乃木希典(1849-1912)の父は乃木希次(1805-1877)という。希次は、はじめ、萩藩分家長府藩の江戸詰藩医だった乃木本家の娘秀子に婿入りした。長男源太郎が生まれた。その後秀子と離別して、同藩馬廻りに取り立てられた。弘化4年、土浦藩士長谷川金太夫の娘寿子と再婚する。寿子の最初の男子は半年で早世した。嘉永2年、源太郎が23歳で死去。その年、11月11日三男、希典(幼名、無人)が生まれる。ついで長女キネ、四男真人(のち正誼)、二女イネ、五男集作。

    希典より6歳下の実弟、乃木正誼(のぎまさよし、1855-1876)はのち玉木文之進(1810-1876)の養子となり、名も玉木正誼と改め、のち萩の前原一誠の参謀格となる。

    乃木希典は若い時代、吉田松陰の叔父にして師である玉木文之進の元に寄寓して薫陶をうけ、山鹿素行と吉田松陰に私淑している。乃木希典、26歳の明治7年、陸軍卿伝令使となる。明治8年には、熊本鎮台歩兵第14連隊心得となる。

   乃木希典のもとに実弟玉木正誼が前原一誠の密命を帯びて、訪ねてきたのは明治9年2月の下旬のことであった。弟は兄を涙ながらに説得しようしたが、乃木はこれを拒否した。

    去年よりも今年の秋はものうけれ

    またくる年はいやきさるらむ

 この頃の乃木の歌である。こうして9月中旬に乃木は正誼に義絶を申し渡している。

   明治9年10月28日、前原一誠(1834-1876)を指導者とする殉国軍が萩の明倫館を拠点として挙兵した。玉木正誼は10月31日に戦死した。正誼の養父で乃木の恩師である玉木文之進は11月6日、祖父の墓前において自刃した。12月3日、前原一誠、奥平謙輔は斬首された。

2016年10月27日 (木)

トルクメニスタン独立記念日

330pxturkmenistan_on_the_globe_afro    10月27日、28日はトルクメニスタン独立記念日。1991年、ソ連から独立した。地球儀でトルクメニスタンを即座に指すことができるだろうか。アジア、ヨーロッパ、アフリカ、旧大陸の真ん中に位置する。北にアムダリア、西にカスピ海、南にコペトダグ山脈に挟まれている。国土の80%がカラクム砂漠で人の住めるところはわずか3%しかない。ほぼ全域が砂漠気候。古代からメルブ(メルヴ、マルウ、マリ、マルとも呼ばれる)を中心として、シルクロードの東西南北を結ぶ幹線ルートだった。首都はアシガバート。天然ガスの埋蔵量は世界第4位で、石油も豊富にある。1995年には、永世中立国になった。(Turkmenistan,Merv,Asgabat)

2016年10月26日 (水)

原子力の日

D0017381_203712    1963年のこの日、日本原子力研究所動力試験炉(茨城県東海村)で初の原子力発電に成功し、2000kwを一般家庭に送電した。(10月26日) 

桶川ストーカー事件

   1999年のこの日、埼玉県のJR桶川駅前で白昼に、女子大生が刺殺された。交際を断られた腹いせに中傷ビラを貼るなど、被害者の女性にストーカー行為を繰り返した末の事件である。12月20日までに、交際相手の兄らを殺害の実行犯として逮捕、交際相手も全国に指名手配されたが、2000年1月に北海道で自殺体で発見された。この事件は警察の怠慢な捜査が問題となった。埼玉県上尾警察署は告訴状を改竄し被害者の家族に告訴の取り下げを要求していた。最後に埼玉県警が不正捜査を認め謝罪した。(10月26日)参考文献;鳥越俊太郎・小林ゆうこ「虚誕 警察につくられた桶川ストーカー殺人事件」 岩波書店 2002年)

2016年10月25日 (火)

山崎紘菜

246030   「逃げるは恥だが役に立つ」「校閲ガール」「砂の塔」いずれも秋ドラマが好調発進。だが月9ドラマ「カインとアベル」だけが苦戦中。山田涼介、桐谷健太、倉科カナ、大手建設会社を舞台に三角関係が見所だが、いまのところ我慢しながら見ている。題名は旧約聖書に由来し、兄のカインが神から寵愛を受ける弟アベルに嫉妬し、最後は殺してしまう。韓国ドラマにも同名作品があるが、こちらは血のつながらない医者の話だった。ソ・ジソプ、シン・ヒョンジュン、ハン・ジミン、チェ・ジョンアンが出演。山田・桐谷・倉科だけでは展開が単調になるので、若手の山崎紘菜ちゃんの出番を増やしたらもっと視聴率が上がるとおもうのだが。

 

 

はるかなる西海岸

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  アメリカ西海岸にはアラスカからメキシコまでコースト、カスケード、シエラネバダなどの山脈が南北に連なっている。1542年、はじめてアメリカを見たヨーロッパ人のカブリリコ隊の水夫たちはカリフォルニア海岸を海から望んで「そこには天にも届くような山々がある」と報告している。1804年から1805年に、メリウェザー・ルイス Meriwether Leuis(1774-1809)とウィリアム・クラーク Wiliam Clark (1770-1838)が大陸横断ルートを確立するまでは、ラッコ、オットセイ、アシカ、アザラシなどさまざま生き物がひしめく砂浜の海岸だった。1804年3月14日、ジェファーソン大統領の命令により、ルイスとクラークは、太平洋にいたる探検の旅にセントルイスを出発した。ミズーリ川をさかのぼってマンダン族部落にいたり、さらにロッキー山脈のふもとに達する。ミズーリ川を源流地帯までさかのぼり続け、大分水界を越えてコロンビア川に出る。それよりコロンビア川をくだり、オレゴン州アストリアの河口に達する。1805年10月25日、二人はようやく太平洋を臨むことができた。映画「ナイトミュージアム」(2007)ではルイスとクラークの探検の通訳兼ガイドとしてサカガウィアという16歳の少女が生後2ヵ月の赤ん坊を背負いながら2人を案内した話が紹介されている。

2016年10月24日 (月)

クンチャナヨ

  韓国の映画やドラマを見ていると、よく耳にするフレーズがある。サランヘヨ(愛しています)、カジマセヨ(行かないでください)、ミヤネヨ(ごめんね)、キョロナジャ(結婚しよう)、ヨボセヨ(もしもし)などなど。先日観た韓国映画「愛している、愛してない」。結婚5年目の夫婦。妻が突然夫に別れ話を切り出す。数日後のある雨の日、出て行く妻のため、夫は黙って荷造りを手伝う。夫の口癖は「クンチャナヨ」。韓国語で「大丈夫だよ」とか「気にしないでください」という意味。なんで韓国語には語尾が「ヨ」がつくのだろうか。語尾に「ヨ」を付けると丁寧語になる。

 

 

 

 

 

2016年10月23日 (日)

映画俳優デビューものがたり

   いまアメリカではローマ時代の史劇映画「ベン・ハー」(ジャック・ヒューストン主演)が公開されている。「ベン・ハー」はサイレントの時代から何度かつくられたが1925年と1959年の作品がよく知られている。史劇は数多くのエキストラが登場するので、その中から未来のスターが現われることもある。1907年のときはウィリアム・S・ハートが、1925年はゲーリー・クーパーが、1959年はジュリアーノ・ジェンマがローマの兵士としてエキストラで出演している。スターたちのデビュー作品を調べる。

1914年 チャールズ・チャップリン「成功争ひ」

1915年 ダグラス・フェアバンクス「快男子」

1916年 ジョン・ギルバート「慧眼」

1916年 ハロルド・ロイド「水車番人」

1916年 エリッヒ・フォン・シュトロハイム「イントレランス」

1917年 エミール・ヤニングス「男になったら」

1918年 ルドルフ・バレンチノ「社交界の花形」

1919年 ベラ・ルゴシ「女ハムレット」

1919年 ポリス・カーロフ「ダグラス大王」

1920年 ジョン・バリモア「狂へる悪魔」

1924年 ビクター・マクラグレン「街の恋人形」

1925年 ジョン・ウェイン「大学のブラウン」

1928年 ランドルフ・スコット「三人水兵恋行脚」

1929年 ジョエル・マクリー「船出の朝」

1930年 ジェームズ・ギャグニー「地獄の一丁目」

1930年 ハンフリー・ボガート「哄笑の世界」

1931年 ジョージ・ラフト「速成成金」

1932年 ジャック・ホーキンス「謎の下宿人」

1933年 ジャン・ギャバン「トンネル」

1934年 ジャン・マレー「かりそめの幸福」

1934年 ロバート・テーラー「我が家の誇り」

1935年 エロール・フリン「踊り込み花嫁」

1935年 ジェームズ・スチュワート「舗道の殺人」

1935年 ヘンリー・フォンダ「運河のそよ風」

1936年 ローレンス・オリビエ「お気に召すまま」

1937年 ジェームズ・メイスン「無敵艦隊」

1937年 ボブ・ホープ「百万弗大放送」

1937年 レックス・ハリソン「男は神に非ず」

1939年 ウィリアム・ホールデン「ゴールデン・ボーイ」

1940年 ロバート・ミッチャム「曠野の逆襲」

1940年 ロバート・ライアン「悪の血統」

1944年 グレゴリー・ペック「炎のロシア戦線」

「冬のソナタ」ヨン様、パパになる

   「微笑みの貴公子」ペ・ヨンジュンが23日、第1子が誕生しパパになる。13歳年下のパク・スジンとは昨年7月に結婚。ペ・ヨンジュンは22歳のとき「愛の挨拶」でデビューし、「初恋」(96)「愛の群像」(99)でスターとしての地位を確立した。日本では「冬のソナタ」(02)以降、ヨン様の愛称として絶大な人気を誇る。映画は「スキャンダル」「四月の雪」と寡作である。2009年には敗血症で入院。昨年7月28日、女優パク・スジンと非公開の結婚式を挙げた。日本メディアは、「ヨン様結婚」を伝える簡単な記事で冷めた日韓関係を象徴するかのようだった。

 

プロフィール
生年月日 1972年8月29日
家族    父 母 妹
身長・体重 180cm  75kg
血液型   O型
趣味    ゴルフ・スタークラフト
特技    ウェイト・トレーニング
       釣り・剣道・合気道
       「ムーン・リヴァー」をギターで弾き語り
出身校  ミョンイル小学校
       ベジェ中学校
       ハンヨン高等学校
        成均館大学映像学科中退
胎夢    母が夢で青いりんごを見た
酒量    焼酎2瓶
宗教    カトリック

2016年10月22日 (土)

セザンヌの死

Paulcezanne95420361402    晩年、ポール・セザンヌの名声は日を経るに従って高まっていったが、セザンヌは孤独な日々を過ごしていた。1898年には、母アンヌが死んだ。妻のオルタンスは息子の教育のためと称してパリへ行き、セザンヌのもとには帰らなかった。そして、糖尿病がセザンヌを苦しめるようになった。しかし、その苦しさのなかでも、絵を描くことだけは絶対にやめられない。1906年10月15日、セザンヌは野外で風景の写生をしているうちに、豪雨にあい、帰り道で倒れた。農夫に発見されてエクスの家にかつぎこまれたが、翌日はすぐに起き上がり、庭師ヴァリエの肖像画を描き続けようとした。しかし、そのために肺炎を悪化させて再び床につく。パリにいる妻のオルタンスは危篤の電報を手にしても、なぜか駆けつけようとはしなかった。5日後、10月22日、パリから帰らない息子の名前をよびながら、妹マリーにみとられブルゴン街の自宅でセザンヌの67歳の生涯は終わった。故郷エクスの墓地に埋葬される。(Paul Cezanne)

2016年10月21日 (金)

映画俳優デビューものがたり

  NHKスタジオパークからこんにちは、本日のゲストは俳優生活30年を迎える阿部寛。転機となった作品は自身によると「チロルの挽歌」「熱海殺人事件モンテカルロ・イリュージョン」そしてデビュー作の映画「はいからさんが通る」である。やはり俳優にとってデビュー作はなにものにも代えがたいものである。仲代達矢のデビュー作は「七人の侍」、台詞なしのエキストラだが、映画史に残る作品がデビューというのは何かをもっている男である。

1909年 「碁盤忠信・源氏礎」 尾上松之助
1920年 「アマチュア倶楽部」 岡田時彦
1921年 「路上の霊魂」 鈴木傳明
1923年 「三好清海」 阪東妻三郎
1923年 「三色すみれ」 片岡千恵蔵
1924年 「大盗伝」 高田稔
1925年 「弥陀ヶ原の殺陣」 大河内傳次郎
1925年 「黒髪地獄」 市川右太衛門
1927年 「稚児の剣法」 長谷川一夫
1927年 「鞍馬天狗余聞」 嵐寛寿郎
1927年 「異国の娘」 榎本健一
1927年 「彼をめぐる五人の女」 見明凡太郎
1928年 「維新の京洛」 岡譲司
1929年 「小金井小次郎」 阿部九州男
1930年 「落第はしたけれど」 笠智衆
1935年 「若旦那・春爛漫」 上原謙
1933年 「河向ふの青春」 宇野重吉
1935年 「忠次売り出す」 志村喬
1941年 「闘金」 池部良
1942年 「微笑の国」 小林桂樹
1947年 「銀嶺の果て」 三船敏郎
1947年 「不死鳥」 佐田啓二
1947年 「女優」 森繁久彌
1948年 「遊侠の群れ」 鶴田浩二
1949年 「花の素顔」 岡田英次
1951年 「善魔」 三国連太郎
1952年 「殺人容疑」 丹波哲郎
1952年 「歌の山脈」 天知茂
1953年 「思春の泉」 宇津井健
1954年 「花の白虎隊」 市川雷蔵、勝新太郎
1954年 「浅草の夜」 品川隆二
1954年 「七人の侍」 仲代達矢
1954年 「かくて自由の鐘は鳴る」 宝田明
1956年 「太陽の季節」 石原裕次郎
1956年 「飢える魂」 小林旭
1956年 「電光空手打ち」 高倉健
1956年 「森は生きている」 平幹二朗
1957年 「九時間の恐怖」 田宮二郎
1958年 「おトラさん大繁昌」 渥美清
1960年 「男対男」 加山雄三
1960年 「十七才の逆襲・暴力をぶっ潰せ」 松方弘樹
1970年 「その人は女教師」 水谷豊
1972年 ドラマ「シークレット部隊」 三浦友和
1974年 「卑弥呼」 草刈正雄

エジソンは電球の発明者ではなかった!?  

Sredison  1879年のこの日、 トーマス・エジソンが長時間発光する白熱電球を発明したことはよく知られている。だが、世界中で電球の発明をエジソンと認識しているのは、アメリカと日本だけだといわれる。なぜなら、エジソンがフィラメントの原料として使ったのは、たまたま部屋にあった日本製の扇の竹であったというエピソードが日本でよく広まっているためである。実際には、ジェームス・ボウマン・リンゼイが1835年に電灯の実験を実施したといわれており、1878年にジョセフ・ウィルソン・スワン(1828-1914)が炭化させたセルロースを使い、寿命が40時間程度の白熱電球を開発した。1882年、スワンは「エジソンは発明を侵害している」として訴訟を起こした。エジソンはスワンの主張を認め、示談を成立させる。そして、エジソンはスワン電灯会社を買収し、1883年「エジソン・スワン電灯会社」を設立した。以降、白熱電球の特許権を得た同社は電灯事業を独占し、約300万個の電球を全米に設置し、莫大な収益を上げることに成功した。エジソンは電球の発明者ではなく、電灯の事業化に成功した人というべきであろう。エジソンの手になるという発明の多くは、すべてがエジソン個人に帰するとは言えないものが多い。エジソンは、それまでのアイデアをいわば編集する才能があったといえるだろう。(10月21日)

2016年10月20日 (木)

ヴェルレーヌとランボー

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秋の日の ヴィオロンのためいきの

身にしみて ひたぶるに うら悲し。

鐘のおとに 胸ふたぎ色かへて 涙ぐむ

過ぎし日の おもひでや。

げにわれは うらぶれて ここかしこ 

さだめなく とび散らふ 落葉かな。

    ポール・ヴェルレーヌ(1844-1896)は、フランスのメッツに生まれ、パリ市役所の下級吏員となり、早くも22歳にして「サテュルニャン詩集」(1866年)、25歳にして「艶なるうたげ」(1869年)、「よき歌」(1870年)を出し、逸楽的な夢想と憂愁とを、自由・大胆なリズムのある形式に託して、音楽的に暗示するという、その独自の詩風を示した。しかしやがて飲酒の習慣に陥る。1871年秋、美少年アルチュール・ランボー(1854-1891)を知るや、奇怪な情熱にとらわれて、妻マチルド・モーテ・ド・フルールビルを棄ててランボーとイギリスに出奔。1873年7月、ついにブリュッセルの街上で、ランボーを拳銃で撃ち、2年間、モンスの刑務所に捕われた。妻との離婚確定の知らせに深刻な打撃を受け、悔い改めてカトリック教に帰依し、獄中で、宗教詩の傑作「叡智」(1880年)を書いた。1875年出獄後は中学校教師をして生活の建て直しに努めたが、また、1885年には、ヴゥジー刑務所に、1ヵ月間投獄されたり、その一生は放蕩と、飲酒の悪癖と、神秘主義との間を絶えず行ったり来たりしていた。1896年1月8日、肉親友人もいないウジェニー・クランツの部屋で、一人淋しく死んだ。

   本日10月20日は象徴派の詩人アルチュール・ランボーの誕生日。ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー(1854-1891)。シャルルビルに生まれる。早くから異常な知的能力を発揮し、8歳で文章の天分を示した。ランボーが残した著作は少なく、散文詩集「地獄の季節」(1873年)「イリュミナシオン」(1874年)がある。以後は文学と別れて、ヨーロッパを放浪したり、エジプトでコーヒー商をやったり、エチオピアで探検家兼武器売込人になったり、多彩な人生を送った。(参考:大塚幸男「写真・フランス文学史」)

Verlaine Rimbaud
    ヴェルレーヌ               ランボー

2016年10月19日 (水)

ブルガーニン

Nikolai_bulganin   ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ブルガーニン(1895-1975)は1895年6月11日、ロシアのニジニ・ノヴゴロドに生まれる。ブルガーニンという旧ソ連の首相の名前はあまり記憶にない。だが山川の高校世界史には出てくる。マレンコフ後、フルシチョフ(Khrushchov)と「B・Kコンビ」を組んで、冷戦の緩和に努めた。1955年にはアイゼンハウアー、ブルガーニン、イーデン、フォールの四巨頭会談がジュネーヴでおこなわれた。しかし、反フルシチョフの事件に関与したとして1958年に首相を解任されている。わが国にとっては、ブルガーニンは記憶すべき政治家であろう。1956年10月19日、モスクワにおいて鳩山一郎・ブルガーニンとの間で日ソ共同宣言が交わされた。しかし同文書にある両国の平和条約役締結は未だ実現していない。これまで日本語で書かれたブルガーニンの評伝は1冊もない。

関係図書

ブルガーニン首相へ贈る書簡 内藤民治 カレント社 1956

2016年10月18日 (火)

士農工商は無かった!?

   「士農工商」近世、とくに江戸時代封建社会の基本的階級。この身分制の基礎となったものは、検地、兵農の分離という近世初頭の政治的、社会的諸現象である。すなわち天正年間豊臣秀吉が四民の身分を分離固定することを企てたのに始まる。武士の封建支配を維持するためには職業により社会的身分秩序を定めることが必要であったので、徳川氏がこれを継承、はっきりしたものにした。士は武士で、将軍から足軽などの軽輩まで、領地、知行、扶持を受け、封建社会の支柱として最上位に立ち、苗字、帯刀などあらゆる特権をもつ。農は農民、郷村生活者、すなわち村役人、小作人、庭子、家抱までの総称で、離農転職や土地の処分は禁ぜられ、日常生活にも強い制限を受けた。工は職人、商は商人で、工商は一括して町人とも呼ばれ下位に置かれた。これには両替屋、掛屋、札差のような高利貸し資本家から小売人および小職人、その他日雇人夫、棒手振りの類までが含められており、みな都市居住者であったが、生活上きびしい制限を受けていた。この身分制は幕末に近づくにつれ動揺し、武士の没落、町人の抬頭によってしだいに崩れていった。明治新政権下で四民平等が実現したかのようにみえたが、華族・士族・平民という新しい身分差別が成立した。しかしこのよく知られた歴史用語「士農工商」は、近年の研究では、江戸時代、明確な身分制度が存在しなかったという観点から、殆どの教科書から「士農工商」や「四民平等」は消えている。

スワードの冷蔵庫

    アラスカはアメリカ合衆国第49番目の州で、面積(1,518,807k㎡)は、アメリカの州の中では最大である。アラスカはもともとロシア領だったが、財政難のロシアは1867年この日、720万ドルでアメリカに売却した。

Williamseward2000loc   アラスカとはアリュート語で「大きな土地」という意味。購入交渉をすすめたウィリアム・ヘンリー・スワード(1801-1872)国務長官は「巨大な冷蔵庫を買った男」と嘲られたが、間もなくアラスカで金鉱脈が発見され、さらにアラスカは水産基地として栄え、いまではスワードは先見の明があったとされる。(Alaska,Aleut,William Henrry Seward,10月18日

逆さまの絵

Yoshihara    具体美術協会の吉原治良(1905-1972)の作品に、禅画の円相図を思わせるようなただ円を描いただけの単純な絵がある。美術館で逆さまに飾っても誰もおかしいと気がつかないかもしれない。実際にアメリカの美術館でマチスの絵が逆さまに飾られたことがあった。1961年10月18日からニューヨーク近代美術館でマチス展が開催された。12月3日の夕方、美術館を訪れたある人が、カタログの絵と展示された「舟」を見比べて、ある間違いに気づいた。ヨットが水面に映されている単純な絵だが、何と、逆さまに展示されていた。それまで11万6000人の来客があったのに、誰一人として気づかなかった。結局、絵が正しく展示されたのは最終日の1日だけであった。

 

 

 

Fune
  アンリ・マチス「舟」

2016年10月17日 (月)

ナターシャのワルツ

Yjimage   NHKでBBC製作の「戦争と平和」を放送している。昨夜4Epはナターシャとアンドレイが舞踏会で初めて踊るシーン。リリー・ジェームズのナターシャもよいが、やはりオードリー・ヘップバーンが思い出される。映画は1956年の製作でアメリカとイタリアの合作だった。オードリーは「ローマの休日」「麗しのサブリナ」に続く三作目で初めてのカラー作品。舞踏会での場面には俗に「ナターシャのワルツ」という軽快だがもの悲しいメロディーが流れていた。この曲はなぜかあまり映画音楽のレコードには収録されていない。ポール・モーリアの音楽があるくらいである。オードリーは生き生きとした笑顔で、左手でスカートの裾をもって大きくまわりながらとても軽快に踊っている。キング・ヴィダーは「オードリー・ヘプバーンほどナターシャの役にピッタリの女優はいない。彼女はその仕草とテンポについて監督を喜ばす直観的な頭の良さを持って動いていた」と後に自伝で述べている。

ショパン、パリで死す

2684365661    フレデリック・フランソア・ショパン(1810-1849)は、ポーランドのワルシャワ近郊のジェラゾバ・ボラに生まれた。ショパンは優しいピアノ曲を数多く作曲し、「ピアノの詩人」として親しまれている。しかし、彼は亡国の民、ポーランド人として生まれ、民族の抑圧に対する憤りと民族の自立を求める情熱を生涯にわたって持ち続けた。

  ショパンがパリを訪れた1831年7月はコレラが大流行していた。ヨーロッパ中に蔓延したコレラの死者は100万人に達する勢いを示し、一時アメリカに渡航することも考えた。しかし、当時は、ユーゴー、バルザック、スタンダール、ボードレール、画家のドラクロア、音楽家のベルリオーズ、ロッシーニ、リスト、メンデルスゾーンが活躍している。こうしたパリに落ち着いたショパンは、まもなくピアノの演奏家としての成功を収め社交界の人気者となった。「ショパンが流行をつくる」といわれるほどの華やかな生活を送ることになった。しかし、彼は精神的には孤独であり、ポーランド人としての苦悩、徐々に悪化する肺結核に苦しめられた。しかし、ショパンは、パリ生活の初期に、ポーランドから携えてきた複雑な思いを次々と音楽化した。1832年から35年までの4年間に7冊の曲集が作られている。彼が作曲したのは主に、貴族の行進曲から生まれた荘重なポーランド舞曲のポロネーズ、農民の三拍子の舞曲のマズルカであった。これらの曲はポーランド人を励まし続けることになった。1836年、ショパンはジョルジュ・サンドに初めて出会う。彼らの恋愛は1838年夏に始まった。マヨルカ島への旅はその年の秋に行なわれ、一時華麗な生活を送った。しかし、1842年以降になると結核のためか、作曲の意欲は急速に衰え、1849年10月17日、ショパンは異郷のパリで寂しく世を去った。(参考:宮崎正勝「世界史の海へ」小学館) Fryderyk Chopin

2016年10月15日 (土)

ヒロイン誕生

   連続ドラマ「べっぴんさん」視聴率も高く好評である。今までの朝ドラをリメイクしたような高速展開。お見合い→結婚→出産→夫の出征→空襲→疎開先でのイビリ→起業に成功など。焼け跡に佇む芳根京子はさしずめ「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラそのものである。朝ドラは毎日放送されるので女優の知名度は一気にあがり、すぐに朝の顔となる。しかし番組が終わると忘れられるのも早い。そのまま主演級となる女優もいるが、多くは地味な脇役女優に甘んじている。佐藤夕美子(甘辛しゃん)、村川絵梨(風のハルカ)、瀧本美織(てっぱん)、藤澤恵麻(天花)、宮地真緒(まんてん)など時折ドラマの端役でみかける。

2016年10月14日 (金)

学生街の喫茶店

Ent1610130017p1   ノーベル文学賞にボブ・ディラン!このニュースが昨夜流れると、ハルキストたちの落胆の声が広がった。村上春樹、今年もノーベル賞を逃す。英語にすると、

Haruki Murakami of Japan missed out on the Nobel Prize for literrature.

ことしの感慨は何か独特なものがただよう。ボブ・ディランといえばベトナム戦争時の反戦フォークで歌手のイメージがある。作詞というジャンルも文学といえるのか?反体制の象徴だった人物が体制側について権威ある賞をもらう姿はあまりカッコよくない。結局、やれノーベル賞だ、金メダルだ、と大さわぎする大衆もばかげている。現在のところディランが受賞するのか、辞退するのか、はっきりしない。

 

明治の成金王と脱獄王

   鰹節店の丁稚から身を興し、幕末のどさくさに鉄砲商で巨万の富を得た明治の成金王・大倉喜八郎(1837-1928)と脱獄6回、神出鬼没に全国各地に現れ、貧しい人の家に金を投げ込んだりする庶民のヒーロー「五寸釘の寅吉」こと西川寅吉(1854-1941)。成金王と脱獄王、この二人の数奇な人生の妙味は刑務所にあった。

   明治のはじめ、刑務所、監獄は集治監といった。刑務所に改称したのは大正11年10月14日である。明治12年内務省直轄の集治監が東京の小菅と宮城に建設された。その前年、大倉喜八郎の手によって宮城刑務所の建設が始められた。明治14年には北海道の石狩川右岸シベツプトに全国一の集治監を建設する話が持ち上がり、その工事請負にやはり宮城で実績のあった大倉が当たった。樺戸集治監の獄舎が大倉組によって建設され、篠崎から当別までの道路建設も大倉組であった。そのころの集治監は、刑務所というよりも強制収容所といったものであり、囚人には苛酷な労働が強いられた。北見道路の突貫工事には囚人約200人の死者がでた。北海道には樺戸(月形町)をかわきりに、空知(栗山町)、釧路(標茶町)、網走(網走市)など要所に建設され、囚人は開拓と労働に従事させられた。樺戸と網走では道路建設が、空知や釧路では炭鉱、硫黄鉱山の労働などに動員された。樺戸の囚人によるによる上川道路(現在の国道12号)建設が名高い。

    西川寅吉は14歳で無期刑となって三重の牢獄に入れられた。その後、静岡で捕まって、東京の小菅、樺戸集治監へ送られ3度脱獄した。熊本で捕まり、次は空知、標茶、さらに網走へ移った。樺戸では濡らした獄衣を塀にたたきつけ、一瞬の吸着力を利用して塀を乗り越えた。大倉喜八郎もたびたび樺戸へ足を運んだといわれるが、まさか囚人の寅吉と顔を合わせたことはないだろうが、明治の元祖成金・大倉喜八郎(91歳)と脱獄王・西川寅吉(87歳)は、北の大地の開拓地で、その接点があった。ただし、ふたりがお互いの名前や存在を知っていたかどうかも分からない。監獄を建設した男と脱獄した男、両雄の壮絶な人生に乾杯!!

2016年10月12日 (水)

逃げるは恥だが役に立つ

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  新垣結衣の新ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」。契約結婚のコメディw@でタイトルはハンガリーの諺からきているらしいがちょっと意味不明。このように変わったタイトルの映画はむかしからある。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942年)はジェームズ・M・ケインというアメリカの作家の同名小説をルキノ・ヴィスコンティが北イタリアに舞台を移してリアリズムで描いている。だが映画に郵便配達夫は一度も登場しない。映画を見たが、タイトルと内容がどう結びつくのか意味不明。イタリアでの原題は「OSSESSIONE」(妄執)という。
    「愛しのシバよ帰れ」(1952年)のタイトル中の「シバ」という愛犬も映画に登場しなかった。かつて可愛がっていた愛犬が失踪した。妻は過去のことばかり追い求める。過去の自分との決別がテーマになっているという解説があったが、シバがその象徴といわれてみればなんとなくわかる気がする。

2016年10月 9日 (日)

山田太一「星ひとつの夜」

   11年の刑期を終え、清掃員として働く野々山(渡辺謙)は、音楽ホールの客席で忘れられた服を見つける。男は大金が入っていることに驚き、直接持ち主が住む高級マンションに届けに行く。そこで若い男のデイトレーダー(玉木宏)と出会う。物語は人間関係に臆病な2人の男がお互い興味を持つことで進行していく。会話のやりとりで、社会や人生を深く考えさせる言葉がある。山田太一がいかに優れた脚本家か本作をみればわかる。

2016年10月 8日 (土)

アトウォーター係数

225pxwilbur_atwater   アトウォーターの係数とは、

糖質(炭水化物)=4kcal/g

たんぱく質=4kcal/g

脂質=9kcal/g

  炭水化物、たんばく質、脂肪は三大栄養素と呼ばれている。三大栄養素を含む熱量を推定する簡便な方法として、アメリカの栄養学者ウィルバー・ロイン・アトウォーター(1844-1907)が考案した。

  つまり、こんな食べ物(炭水化物60g、たんぱく質40g、脂質30g)があったら、

    60×4=240
    40×4=160
    30×9=270
    計    670

つまり総カロリーは670kcalとなる。(Wilbur Olin Atwater)

2016年10月 7日 (金)

ホーソンとポー

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  ナサニエル・ホーソン(1804-64)は、マサチューセッツ州セーレムの旧家に生まれた。彼の作品に色濃いニューイングランドの風土性、過去に対する意識は、その出自に由来する。21歳でボードン大学を卒業。10年余り孤独な創作三昧の生活を続けた。1842年ソファイア・ピーボディと結婚、彼女の愛情が、強烈な自我と内面を見つめるホーソンの孤独を救った。1850年「緋文字」を発表するや、たちまち名声を確立した。このころメルビルと知り合い、互いに大きな影響を受ける。

   エドガー・アラン・ポー(1809-49)は、幼くして孤児となり、リッチモンド市の商人ジョン・アランに引き取られ、イギリスで初等教育を受けたのち、1826年バージニア大学に入学するが、1年たらずで退学。1833年「瓶の中から出た手記」が懸賞に当選し、作家としての、また雑誌記者としての道が開けた。その後のポーはリッチモンド、ニューヨーク、フィラデルフィアの各地で雑誌の編集にたずさわり、数多くの評論や書評を書くかたわら、数多くの小説を発表した。1849年10月7日、40歳で亡くなった。

    ポーは人間の心にひそむ内的恐怖や無意識にみごとな形態を与えた怪奇小説や幻想小説の書き手、明敏でときには辛辣な批評家、それに今日隆盛をきわめる推理小説(「モルグ街の殺人」)やSF小説の元祖であった。しかしポーの文学は、その生存中はかれの実力にふさわしい理解と賞賛とを受けなかった。それと同じように、人間としてのポーについても、これを伝える人々のことばに大きなへだたりを残したまま今日にいたっている。ボーの誹謗者たちはかれを神経病的な酔っ払いの麻薬常用者と考え、感情生活のいつも不安定な、道徳的誠実さの欠除している男とみなした。他方、かれを弁護する人々は、かれのすべての困難を、かれを嫌悪した人々の悪意、時代がかれに加えた苛烈な仕打ち、あるいはまた、かれをなやましたさまざまな肉体的、精神的病気のためであるといっている。かれについての真実がそのどちら側にあるかは、今でさえなお不明である。ポーがアルコールや阿片に過度なまでにふけったということがあまりにも伝説的になっているが、かれの場合には、他の多くのロマン派詩人のように、多分にかれ自身の偽悪的な面がはたらき、実際のかれ自身よりも自分をそのような姿に見せようとすることばや暗示があったであろうことを考えておく必要がある。(参考:「玉川百科大辞典16 西洋文芸」) 

2016年10月 5日 (水)

智恵子記念館

10月6日、智恵子はとうとう昨夜病院で亡くなりました。昨夜遺骸を自宅に連れてきました。あはれな一生だったと思ひます。(難波田竜起宛てはがき)

    高村光太郎の妻智恵子は昭和13年10月5日、肺結核で亡くなった。52歳だった。造り酒屋の娘であった長沼智恵子の生家には智恵子記念館(福島県二本松市)がある。記念館には彼女の油絵、紙絵が展示されている。

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2016年10月 4日 (火)

書斎で愉しむ

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 文学者の書斎は仕事場であるが知的空間の創造性はたいへん参考になる

   台風18号が接近している雨の秋の一日。そんな時、一人で自分の時間を過ごすのもいい。読みたい本に囲まれて、すきな音楽を聴きながら、ゆったりと過ごす。小さな空間を利用した理想的な条件の書斎を考えてみたい。

1.ちょうどよいスペース。狭すぎず、かといって広すぎると空虚感や落ち着かない感じになる。書斎は図書館と違って、心地よい、ちょうどよい広さが絶対条件である。

2.本が密集している。好みにもよるが、天井までいっぱいに本があると異空間、知的な空間が眼前にあり、読書に耽る雰囲気がでてくる。

3.渾然一体感。古い本と新しい本。仕事に役立つ本と趣味の本。写真集と辞書・事典。学術書と絵本。ともかく対照的にものがあると新しい発想が生まれる。

4.本だけでなく小物が大切。写真や旅先で買った土産品。古いポスター、ぬいぐるみ、子どもの頃に遊んだおもちゃ。プラモデル。吉本隆明の書斎をみると民芸品がたくさん書棚にある。さすがに知の巨人である。

5.季節感も大切。これから秋。どんぐり、落葉などさりげなくあるとイイ感じ。

6.換気。網戸のある天窓があり、天気のいい日は自然の外気も取り入れる。換気扇もある。密閉した空間なので空調設備は大切。

   これらすべて満たすと、掃除もめんどうだけど、清潔が一番なので小まめにティシューなどでほこりをとることは健康上大切である。

ブリュッセルのグラン・プラス

Img_2   ベルギーの首都ブリュッセルは、EUの本部やNATO北大西洋条約機構本部(アナス・フォー・ラスムセン事務総長)が置かれているため、ヨーロッパの政治の中心地になっている。ブリュッセルの語源は、ブラマン語のブリュック(沼地)とサリ(建物)である。7世紀、この地はブリュックセラ(沼地の家)と呼ばれた。12世紀には都市を囲む城郭が築かれるまでになり、商工業の町として栄えた。ユネスコ世界遺産に登録されている旧市街地にある大広場グラン・プラスは、17世紀頃の建築物に囲まれ、ユーゴーは「世界一美しい広場」と称賛している。約110×70mの広さがあり、その周囲には、市庁舎のほか、パン職人、ビール醸造業者、大工・家具職人、船頭のギルドハウスなど11棟の建物が並んでいる。

    フランドル地方は中世、毛織物工業を背景にブリュージュなどが商業の中心地として繁栄した。15世紀、ブルゴーニュ公国に編入、さらにハプスブルク家の支配下に置かれた。1815年のウィーン会議で、フランスの再拡張を抑える緩衝地帯としてオランダに併合された。1830年10月4日、独立革命によりオランダから独立を宣言。翌1831年、レオポルド1世が国王に即位、立憲君主国となった。中立政策をとったが、2度の世界大戦でドイツの侵略を受けた。2011年、ワロン系社会党のエリオ・ディルポが首相に就任した。2014年10月、シャルル・ミシェルが首相に就任。(La Grand Place,Brussels,Elio Di Rupo)

2016年10月 2日 (日)

ガンディー誕生日

Gandhi06   1869年のこの日、インド独立の父マハトマ・ガンディーはインドの港町ポールバンダルで生れた。10月2日はインドでは「ガンディージャヤンティ」(ガンディー記念日)という国民の休日であり、2007年の国連総会で国際非暴力デーとすることが決議された。

   マハトマ(偉大な魂)と呼ばれ、世界中から尊敬を集めるガンディーだが、意外にも、少年時代は素行が悪く、悪友にそそのかされて、ヒンドゥー教の戒律で禁じられている肉食を繰り返していただけでなく、タバコにも手を出して、タバコ代を工面するために召し使いの金を盗み取ったこともあった。(Mahatma Gandhi,Porbandar)

2016年10月 1日 (土)

北野大茶湯はなぜ1日で中止になったのか?

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    豊臣秀吉は天正15年10月1日から10日まで北野の森で大茶会を催す計画をした。茶の湯好きの者であれば若党・町人・百姓を問わず、釜・釣瓶・呑物を一つずつ各自が用意して集まるように命じた。10月1日は秀吉みずからと千利休、津田宗及、今井宗久が茶を点じ、800人以上にふるまった、という。しかし当初10日間としていたイベントは、この1日だけで茶会は中止された。博多から代表として招かれて上洛した豪商神谷宗湛は、1日で終わったためにまにあわなかった。僧英俊の『多聞院日記』には、何か不祥事があったものか、西国で佐々成政が討ち死にしたからか、との噂を記し、「ウソ歟」と書き加えている。一般の参会者には中止の理由はわからなかったであろう。佐々成政が討ち死にしたという噂はウソであったが、肥後の国一揆が勃発したのは本当のことで、おそらく秀吉は10日間も茶会を楽しむ気持ちはなくなり、中止したものであろうか。

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