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2016年10月31日 (月)

ラシュモア山の大統領彫刻像

  1941年のこの日、サウスダコタ州キーストーンのラシュモア山に4人の大統領(ワシントン、ジェファーソン、ルーズベルト、リンカーン)像の彫刻をガットスン・ボーグラム(1867-1941)が完成した。1927年10月4日から14年かかった。ヒッチコックの映画「北北西に進路を取れ」(1959)はこの彫刻を世界的に有名にしたが、ロケではなくスタジオで撮影している。ポスターにはなんとヒッチコック自身の像が彫刻に加えられている。(10月31日)

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ローランサンとアポリネール

Marielaurencin     マリー・ローランサンは、1883年10月31日、パリで生まれた。私立の画塾で学び、キュビズムの仲間たちと出会い人気者となる。1907年、ローランサンはピカソを介して詩人のギョーム・アポリネール(1880-1918)と知りあい、ふたりは熱い仲となる。

   しかし、この恋は実らなかった。アポリネールはモナリザ盗難事件への関与を疑われてサンテ監獄に入ることとなった。ローランサンの母は、「そんな男に娘はやれない」と反対し、5年に及んだ恋は消えた。アポリネールはこのときのつらい別れの思いを詩「ミラボー橋」にうたった。

    ミラボー橋のしたセーヌは流れ

   わたしたちの恋も

   せめて思い出そうか

   悩みのあとには喜びが来ると

    アポリネールと別れ、母の死を看取ったローランサンは、1914年、男爵で画家のドイツ人ヴェッチェンと結婚する。だが、第一次大戦が勃発し、敵国人となった夫妻は中立国スペインに亡命する。夫はやがてアルコール依存症でローランサンを悩ませ、7年後に離婚する。

    アポリネールは第一次大戦に志願して、1916年に頭部を負傷、3度の手術を受けるが完治しないままスペイン風邪で1918年38歳で死亡する。1921年、パリに戻ったローランサンは、気品のある高級感でパリで売れっ子の画家となり成功をおさめた。絵画をはじめ版画、詩、舞台美術など多くの分野で活躍した。1956年6月8日、パリで心臓発作で死去、享年72歳。(Marie Laurencin,Guillaume Apolinaire)

日本茶の日

    1192年のこの日、栄西が宋から帰国し、茶の種子と製法を持ち帰ったことにちなむ。

    飲茶の風習は三国時代に始まり、南北朝時代にようやく盛んになり、唐代に至って普及した。ことに、開元天宝の盛世で有名な玄宗皇帝の頃まで時代が下ってくると、茶はもはや中国人にとって必需品化し、黄河以南の中国全土で栽培されたばかりでなく、この頃突厥に代ってモンゴリアで活動していたトルコ族、ウイグル族なども飲茶の風に馴染み、宋代には、北方の契丹・女真・党項(タングート)などの諸民族が盛んに中国の茶を買い入れた。日本への伝来は、宋代に中国にいった栄西が1192年10月31日茶の種をもって製法を持ち帰ったのがはじめだといわれる。

   こうして飲茶の風習は時の経過とともに中国周辺の諸民族の間に広まり、宋代以後茶は絹や陶磁器とならんで中国の重要な輸出品となったが、この風習をはじめてヨーロッパに伝えたのは、ポルトガルについで東洋に進出してきたオランダ人であった。やがてかれらに代わって東洋貿易の覇権をにぎったイギリス人は、最も盛んに中国の茶を買入れ、これをヨーロッパ諸国や新大陸の植民地に売りさばいて巨利をえた。七年戦争ののち、本国の財政をたて直す一手段として、植民地向けの茶に重税をかけたことは、アメリカ独立戦争のきっかけとなった。また茶貿易の発展につれて増大する中国への銀の支払をおさえるために、インドのアヘンを中国にもちこんだことは、清朝を自衛のための対外戦争に追いこんだ。いわゆるアヘン戦争がこれである。一方モンゴル人から飲茶の風習を学んだロシアは、中国とヨーロッパ諸国の最初の条約として知られるネルチンスク条約以後、陸路によって盛んに中国の茶を輸入した。シベリアとモンゴリアの国境に開かれたキャフタがその中心となった。イギリス人は、そののち、セイロンで大規模に茶を栽培してその輸入をおさえるようになったが、アメリカ人はいまでも主に中国の茶を輸入している。(参考:「世界史問題集」山川出版社 1976)

ガス記念日

G03     1872年のこの日、横浜の神奈川県庁前に、初めて十数基のガス灯がともされた。(10月31日)

2016年10月30日 (日)

君よ知るや南の国

   「君よ知るや南の国、樹々は実り花は咲ける」という堀内啓三(1897-1983)による名訳で知られる「ミニヨンの歌」は、もともとゲーテの小説「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」(1791-1796)の中の詩である。「ミニヨンの歌」は4編あるが、よく知られるのはヴィルへルムへの密かな恋心を抱くサーカス一座の少女ミニヨンが、故郷イタリアへの想いをうたう歌で、フランス人のアンブロワーズ・トーマの歌劇「ミニヨン」の中のアリアである。歌曲「ミニヨンの歌」はこれまで90曲ほどの作品が残されている。おもな作曲家としては、ライヒヤルト(1752-1814)、ツェルター(1758-1832)、ベートーベン(1770-1827)、シューベルト(1797-1828)、メンデルスゾーン(1805-1847)、シューマン(1810-1856)、リスト(1811-1886)、グノー(1818-1893)、ルービンシュタイン(1829-1894)、チャイコフスキー(1840-1893)、デュバルク(1848-1933)、ヴォルフ(1860-1903)などがいる。

  またゲーテの詩「ミニヨンの歌」の邦訳も森鴎外はじめ数多く残されている。

君知るや南の国

レモンの木は花咲き くらき林の中に

こがね色したる柑子は枝もたわわに実り

青き晴れたる空より しづやかに風吹き

ミルテの木はしづかに ラウレルの木は高く

雲にそびえて立てる国や 彼方へ

君とともに ゆかまし

            (森鴎外の訳)

              *

君や知る、レモン花咲く国

暗き葉かげに黄金(こがね)のオレンジの輝き

なごやかなる風、青空より吹き

テンニン花は静かに、月桂樹は高くそびゆ

君や知る、かしこ。

かなたへ、かなたへ

君と共に行かまし、あわれ、わがいとしき人よ。

君や知る、かの家。柱ならびに屋根高く、

広間は輝き、居間はほの明かるく、

大理石像はわが面を見つむ、

かなしき子よ、いかなるつらきことのあるや、と。

君や知る、かしこ。

  かなたへ、かなたへ

君と共に行かまし、あわれ、わが頼りの君よ。

君や知る、かの山と雲のかけ橋を。

ラバは霧の中に道を求め、

洞穴に住むや古籠の群。

岩は崩れ、滝水に洗わる。

君や知る、かしこ。

  かなたへ!かなたへ

わが道は行く。あはれ、父上よ、共に行かまし!

               (高橋健二の訳)

                       *

君よ知るや南の国

レモンの花咲き オレンジのみのる国

空は青く 風はさわやか

桂(かつら)はそびえ ミルテかおる

君よ知るや かの国

はるかに はるかに

恋人よ 君といこうよ

君よ知るや 南の国

そこにある わがすみか

広間あかるく 花の香みちる

「おまえは しあわせ?」

やさしく といかける ふるい胸像

はるかに はるかに

恋人よ 君といこうよ

       (三木澄子の訳)

           *

       ミニヨン

あこがれを知るひとだけが、

私の悩みを知っている。

すべての喜びから

ひとり離れて、かなたの

大空を私は眺める。

ああ、私を愛し、知っているひとは、

遠い所にいる。

目はくらみ

私の心は燃える。

あこがれを知るひとだけが、

私の悩みを知っている。

アルフレッド・シスレー夫妻の愛

 印象派の巨匠アルフレッド・シスレーは1839年のこの日、ウィリアム・シスレーとその妻フィリシアの子としてパリに生れる。印象派の画家たちの中で、つねに運動の中心的位置にいたにもかかわらずアルフレッド・シスレー(11839-1899)の生涯については、判然としないところが多い。控えめな性格と、隠遁生活のために、彼の私生活も画家としての生涯も、埋め尽くせない空白の部分が多く残されてしまう。ほとんど風景しか描かなかったため、妻や子どもや友人の肖像画すら一枚もないのである。

   アルフレッド・シスレーの祖父トマス・シスレーは、イギリス人で、フランスの贅沢品をロンドンに輸入する貿易商として成功し、フランス女性と結婚した。息子のウィリアム・シスレー(1799-1879)は、1830年代、パリの自社倉庫を管理するためにフランスに移り住み、その後パリで独自の事業を営むようになった。1839年10月30日、4番目の子としてアルフレッド・シスレーが生まれたのも、ここパリであった。

   シスレーの幼少期や青年期についてはほとんど何も分かっていない。一家は繁栄し、家庭も愛情に満ちていたようである。父親は、画家になるという息子の選択に当初は反対したものの、後には経済的に彼を支援し、その画家仲間たちを自宅に歓待するようになった。1860年代初めには、モネ、ルノワール、バジールなどの多くの若い画家たちが彼のアトリエに集まった。ルノワールが描いたシスレーの肖像画からは、シスレーは身だしなみの整った気さくな人物のように見受けられる。しかし同時に、彼のきまじめな一面、すなわち絵画に対する彼の思い入れの深まりと、その作品や人生を特徴づけるようになる内向性や慎み深さもほのめかしている。

   1860年代半ば、彼は画家のモデルをしていたウジェニー・レクーゼク(1834-98)という女性と関係を持つようになる。ウジェニーは1867年にシスレーの息子ピエールを、1869年には娘ジャンヌ・アデルを生んだ。シスレーはこの密通がもとで、すでに妻を亡くしていた父ウィリアムと仲たがいしたらしく、父は彼への援助を中止してしまったようだ。シスレーが60年代の終わり頃、しきりに金銭苦を訴えていたのはこれが一因だと思われる。

   ウジェニーという女性については、いまだによく分かっていない。ルノワールは彼女のことを「とても繊細な性格で、極めて育ちのよい」人であったと回想している。彼女の写真は全く残っておらず、シスレーの作品の中で、風景に混じってぼんやりと描かれているだけである。手紙の中でも彼は、ウジェニーに関して遠回しに触れているに過ぎない。彼女について恐らく最も直接言及したのは、全く目の見えない時期、ずっと自分を辛抱強く支えてくれた彼女に手向けたシスレーの弔辞であろう。「私が落ち込んでいるとき、私の良き勇敢な友がいつもこう言ってくれました。『私たちは最後まで闘い抜かなければならないのよ』と」。

   1870年、普仏戦争が起こった。戦争は、シスレーにさんざんな結果をもたらした。父親の事業が破綻して一家は貧困の中に投げ出された。プロイセン軍がパリを包囲すると、彼はブージヴァルの家からルヴェシェンヌに近い小村ヴォワザンに移った。この地で生活した間、シスレーの才能は急速に成熟に向かっていった。

   シスレーの晩年、1897年の夏、シスレーはイギリスのコーンウォールとウェールズを訪れる。そしてカーディフの登記所でウジェニーとの婚姻届を提出した。だがシスレー夫妻の結婚期間はほんの1年余りであった。1898年、シスレー夫人は舌がんにかかり、苦しみながら死んでいった。翌年1月、その後を追うようにシスレーもがんで亡くなった。シスレー夫婦の墓は同じモレ・シュル・ロワンの墓地に埋葬された。その生涯の大半を貧困のうちに送ったが、シスレーの死後まもなく、批評家たちの賞賛と絵画の高騰で、今日誰もが印象派の巨匠の一人として認めるようになった。(『シスレー 週刊アートギャラリー92』デアゴスティー二・ジャパン)

2016年10月29日 (土)

ボジョレー・ヌーボー

   ボジョレー・ヌーボーの解禁に向けて、3000本余りのボトルを積んだ航空便が29日朝、羽田空港に到着した。フランスのブルゴ―ニュ地区のブドウの収穫は、記録的な日照量に恵まれ、好ましい作柄という。今年の解禁日は11月17日午前0時。ボジョレー・ヌーボーの解禁日制度ができたのは1984年からで、日付変更線の関係で本国フランスより8時間も早く飲める日本ではこのころからボジョレー・ヌーボーの話題が盛んになった。(Beaujolais nouveau)

喪服が黒色になったのはなぜ?

O0480036013585441908   朝の連続ドラマ「あさが来た」で実母のお葬式で女性の白い喪服の姿に驚いた視聴者も多かった。女性は明治から昭和初期まで、白の羽二重の無垢に白の帯、すべて白で統一されていた。白喪服は「二夫に見えず(もう再婚しません)」という意味もある。喪服が白から黒に変わったのはなぜか。乃木希典の大正元年の葬儀のとき、列席した世界各国の要人たちの服がみな黒であった。その時の服装が、日本の喪服文化に影響を与えたといわれている。

世界史で喪服を黒と定めたのは古代ローマ帝国。黒服をまとうことにより死者の霊が自分につくことを避けようとする恐怖心のあらわれでもあった。ところが古代中国では白色が来世での幸福を祈る色とされたため、葬式には白色の服を着ていた。この影響は韓国や日本にも及んでいる。ヨーロッパも中世の頃は白喪服だった。

教育勅語と御真影、日の丸、君が代

Image002  1890年のこの日、「教育ニ関スル勅語」が発布された。小説家・久米正雄(1891-1952)は幼いころ父、由太郎を亡くしている。長野県上田の小学校長だった久米由太郎は、明治31年、奉安殿(御真影と教育勅語を奉納してある場所)が火事になり、そこにあった御真影が焼失したため責任を取って割腹自殺をしている。札幌の小学校では豪雪から御真影を死守するため校長が殉職している。戦前にはこのような悼しい話はほかにも多くあるだろう。ところが昨今、国歌・国旗の礼拝で起立しない学校に対し、厳しい措置がくだされる風潮が出てきた。二大政党制実現はこのような保守回帰の現象をもたらしているようだ。(10月29日)

参考:「君が代の歴史」 山田孝雄 宝文館出版

川端康成と浅草

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 徳永柳洲筆「浅草十二階の崩壊」

    1890年のこの日、凌雲閣(浅草十二階)が竣工した。1923年9月1日の関東大震災で崩壊したから、33年の寿命であった。川端康成は戦前の浅草が好きだった。震災のとき、jまだ帝国大学国文科の学生で(当時24歳)、本郷区駒込千駄木町で被災したので、震災前後の浅草を鮮明に記憶している。震災前の浅草を象徴したのが十二階(凌雲閣)と活動、浅草オペラだった。震災後の浅草は軽演劇団カジノ・フォーリーである。川端が昭和4年12月から連載した「浅草紅団」という新聞小説は、震災後の浅草を徘徊する不良少年少女グループの話だ。ヒロイン弓子は「私は地震の娘です。地震の真中で生れ変わったのよ」と言う。そして「カジノ・フォウリイは(略)1930年代の浅草かもしれない。エロティシズムと、ナンセンスと、スピイドと、時事漫画風なユウモアと、ジャズ・ソングと、女の足と」と書いている。浅草十二階については、小説の中で次のように描いている。

E5b79de7abafe58699e79c9f_2古い浅草の目じるし、十二階の塔は、大正十二年の地震で首が折れた。私はそのころまだ本郷に下宿住まいの学生だった。昔から浅草好きの私は、十一時五十八分から2時間と経たぬうちに、友だちと二人で、浅草の様子を見に行った。(略)「ほら、あんなに十二階がぽっきり折れちゃってるだろう。見物が大勢登ってたんだから、たまらないや。皆振り飛ばされたさ。今見て来たんだが、瓢箪池にもその死骸が、うぼうぼ浮いてるんだぜ」

    川端はその後、工兵隊が爆砕するときも、凌雲閣を野次馬見物している。(10月29日)

2016年10月28日 (金)

意外と知られていない有名人が広めた言葉

  「最初はグー」「バツイチ」「ツーショット」…私たちがいつも使っているこれらの言葉のなかには、実は有名人が広めたものがある。例えば、大宅壮一の「口コミ」。人の口から口へ個人的に伝えられる評判・うわさのことで、マスコミとの対比で造られた言葉であり、「口頭でのコミュニケーション」の略とみられる。大宅が1962年頃から使っていた。「イカす」は俗に魅力的な、かっこいいという意味だが、元は軍隊での隠語らしいが、石原裕次郎が1958年ころ映画で広めた。原義は「行かす」でとても素晴らしい世界へつれて行ってくれる、という意味の感嘆詞で使っていたらしい。豊かな乳房のことを「豊胸」というが、これを「ボイン」という新語で表現するようになったのは1967年のことで(最近はセクハラになるので死語化している)、これは大橋巨泉が「11PM」というテレビ番組で朝丘雪路の胸をみて使ったのが始まりといわれている。

   「ネクラ」はタモリがタレントの九十九一を指して言ったのが最初らしいが、「笑っていいいとも」でミュージシャンの織田哲郎が出演のとき、学生時代に卓球部に所属していたことを明かすと、タモリが「卓球ってネクラだよね!!」とからかった。このことは社会的に大きな影響を与えたらしく、翌年(1990年)から全国の中学生の卓球部入部人員が激減したといわれる。そのほか、有名人が広めた言葉として、女子プロレスラー神取忍の「心が折れる」、ダウンタウン松本人志の「どや顔」や「へこむ」。「どや顔」はさておき、物体に対してのみ使われていた「へこむ」という表現を、精神的に落ち込むという意味で使ったのは松本が最初という説がある。しかし広辞苑の旧版を調べると、松本以前にも精神的に「へこむ」という意味は日本語として存在していたとみられる。

ギリシャ参戦記念日

Metaxas_2     1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ギリシャは中立を保っていたが、1940年8月に、イタリアの潜水艦がギリシャの巡洋艦に魚雷攻撃を仕掛けた。イタリアは最後通牒をつきつけたが、ギリシャ首相イオアニス・メタクサス(画像、1871-1941)は「Okhi」(Noの意味)と一言で拒否した。10月28日、両国で戦闘が始まり、アルバニア国境でギリシャが勝利した。だが1941年4月になるとドイツが侵攻し、ギリシャ政府はクレタ島に退避した。5月末にはクレタ島の陥落により、中東に退却。枢軸国占領下の傀儡政権が3代続いた。現在では非正統政権の首相として認められていない。ゲオルギオス・ツァラゴグル(1886-1946)、コンスタンティノス・ロゴセトプロス(1878-1951)、イオアニス・ラリス(1878-1946)の3人。(Georgious Tsolakoglou,Konstantinos Logothetopoulos,Ioannis Rallis,Ioannis Metaxas)

乃木希典と玉木正誼

   明治の陸軍大臣・乃木希典(1849-1912)の父は乃木希次(1805-1877)という。希次は、はじめ、萩藩分家長府藩の江戸詰藩医だった乃木本家の娘秀子に婿入りした。長男源太郎が生まれた。その後秀子と離別して、同藩馬廻りに取り立てられた。弘化4年、土浦藩士長谷川金太夫の娘寿子と再婚する。寿子の最初の男子は半年で早世した。嘉永2年、源太郎が23歳で死去。その年、11月11日三男、希典(幼名、無人)が生まれる。ついで長女キネ、四男真人(のち正誼)、二女イネ、五男集作。

    希典より6歳下の実弟、乃木正誼(のぎまさよし、1855-1876)はのち玉木文之進(1810-1876)の養子となり、名も玉木正誼と改め、のち萩の前原一誠の参謀格となる。

    乃木希典は若い時代、吉田松陰の叔父にして師である玉木文之進の元に寄寓して薫陶をうけ、山鹿素行と吉田松陰に私淑している。乃木希典、26歳の明治7年、陸軍卿伝令使となる。明治8年には、熊本鎮台歩兵第14連隊心得となる。

   乃木希典のもとに実弟玉木正誼が前原一誠の密命を帯びて、訪ねてきたのは明治9年2月の下旬のことであった。弟は兄を涙ながらに説得しようしたが、乃木はこれを拒否した。

    去年よりも今年の秋はものうけれ

    またくる年はいやきさるらむ

 この頃の乃木の歌である。こうして9月中旬に乃木は正誼に義絶を申し渡している。

   明治9年10月28日、前原一誠(1834-1876)を指導者とする殉国軍が萩の明倫館を拠点として挙兵した。玉木正誼は10月31日に戦死した。正誼の養父で乃木の恩師である玉木文之進は11月6日、祖父の墓前において自刃した。12月3日、前原一誠、奥平謙輔は斬首された。

2016年10月27日 (木)

トルクメニスタン独立記念日

330pxturkmenistan_on_the_globe_afro    10月27日、28日はトルクメニスタン独立記念日。1991年、ソ連から独立した。地球儀でトルクメニスタンを即座に指すことができるだろうか。アジア、ヨーロッパ、アフリカ、旧大陸の真ん中に位置する。北にアムダリア、西にカスピ海、南にコペトダグ山脈に挟まれている。国土の80%がカラクム砂漠で人の住めるところはわずか3%しかない。ほぼ全域が砂漠気候。古代からメルブ(メルヴ、マルウ、マリ、マルとも呼ばれる)を中心として、シルクロードの東西南北を結ぶ幹線ルートだった。首都はアシガバート。天然ガスの埋蔵量は世界第4位で、石油も豊富にある。1995年には、永世中立国になった。(Turkmenistan,Merv,Asgabat)

わたし作る人、ボク食べる人

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    ハウス食品初の即席めん「シャンメンしょう味」のCMがテレビで放送されたのは昭和50年8月末のことだった。

「今なんどきですか?」

「ハイ、ラーメンどっきっよ!」

そして結城アンナがラーメンをテーブルに座った佐藤祐介に運ぶ。

「わたし作る人」(結城アンナ)、「ぼく食べる人」(佐藤祐介)と言いつつラーメンを食べる。そして町田義人の歌が流れ、「結果!、♪ハウスシャンメン、しょうゆ味!」と終わる。

   このCM開始から1ヵ月余り過ぎた9月30日、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」のメンバー7人は、ハウス食品の本社を訪れ、「男は仕事、女は家事・育児という従来の性別役割分担をより固定化するもの」としてCM中止を要請した。ハウス食品では消費者の声を無視できないとして、10月27日CMの放送中止を決定した。新聞や週刊誌はこぞってこの問題を取り上げた。「言葉狩り」「重箱の隅をつつく行動」など、抗議に批判的な論調も少なくなかったが、これが、日本で始めて性差別広告として批判された事例として画期的な意味を持つものとなった。これを契機に性差別広告批判運動は高まりを見せ、「男女の性別役割分業」という言葉を、世に広めた結果となった。

2016年10月26日 (水)

原子力の日

D0017381_203712    1963年のこの日、日本原子力研究所動力試験炉(茨城県東海村)で初の原子力発電に成功し、2000kwを一般家庭に送電した。(10月26日) 

OK牧場の決闘

Okcorral1957    アリゾナ州トゥームストンの町はずれにあるOK牧場。1881年のこの日、末弟ジムを闇討ちにされたワイアット・アープとその弟バージルは、肺病に冒された賭博師ドク・ホリデイの助っ人を得て、クラントン一味と対決した。撃ち合いとなり、クラントン一味5名中3名が射殺される。決闘後、裁判にかれられたがアープらは無罪となった。(10月26日)ganfight at the O.K.Corral,Tombstone

桶川ストーカー事件

   1999年のこの日、埼玉県のJR桶川駅前で白昼に、女子大生が刺殺された。交際を断られた腹いせに中傷ビラを貼るなど、被害者の女性にストーカー行為を繰り返した末の事件である。12月20日までに、交際相手の兄らを殺害の実行犯として逮捕、交際相手も全国に指名手配されたが、2000年1月に北海道で自殺体で発見された。この事件は警察の怠慢な捜査が問題となった。埼玉県上尾警察署は告訴状を改竄し被害者の家族に告訴の取り下げを要求していた。最後に埼玉県警が不正捜査を認め謝罪した。(10月26日)参考文献;鳥越俊太郎・小林ゆうこ「虚誕 警察につくられた桶川ストーカー殺人事件」 岩波書店 2002年)

2016年10月25日 (火)

山崎紘菜

246030   「逃げるは恥だが役に立つ」「校閲ガール」「砂の塔」いずれも秋ドラマが好調発進。だが月9ドラマ「カインとアベル」だけが苦戦中。山田涼介、桐谷健太、倉科カナ、大手建設会社を舞台に三角関係が見所だが、いまのところ我慢しながら見ている。題名は旧約聖書に由来し、兄のカインが神から寵愛を受ける弟アベルに嫉妬し、最後は殺してしまう。韓国ドラマにも同名作品があるが、こちらは血のつながらない医者の話だった。ソ・ジソプ、シン・ヒョンジュン、ハン・ジミン、チェ・ジョンアンが出演。山田・桐谷・倉科だけでは展開が単調になるので、若手の山崎紘菜ちゃんの出番を増やしたらもっと視聴率が上がるとおもうのだが。

はるかなる西海岸

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  アメリカ西海岸にはアラスカからメキシコまでコースト、カスケード、シエラネバダなどの山脈が南北に連なっている。1542年、はじめてアメリカを見たヨーロッパ人のカブリリコ隊の水夫たちはカリフォルニア海岸を海から望んで「そこには天にも届くような山々がある」と報告している。1804年から1805年に、メリウェザー・ルイス Meriwether Leuis(1774-1809)とウィリアム・クラーク Wiliam Clark (1770-1838)が大陸横断ルートを確立するまでは、ラッコ、オットセイ、アシカ、アザラシなどさまざま生き物がひしめく砂浜の海岸だった。1804年3月14日、ジェファーソン大統領の命令により、ルイスとクラークは、太平洋にいたる探検の旅にセントルイスを出発した。ミズーリ川をさかのぼってマンダン族部落にいたり、さらにロッキー山脈のふもとに達する。ミズーリ川を源流地帯までさかのぼり続け、大分水界を越えてコロンビア川に出る。それよりコロンビア川をくだり、オレゴン州アストリアの河口に達する。1805年10月25日、二人はようやく太平洋を臨むことができた。映画「ナイトミュージアム」(2007)ではルイスとクラークの探検の通訳兼ガイドとしてサカガウィアという16歳の少女が生後2ヵ月の赤ん坊を背負いながら2人を案内した話が紹介されている。

2016年10月24日 (月)

クンチャナヨ

  韓国の映画やドラマを見ていると、よく耳にするフレーズがある。サランヘヨ(愛しています)、カジマセヨ(行かないでください)、ミヤネヨ(ごめんね)、キョロナジャ(結婚しよう)、ヨボセヨ(もしもし)などなど。先日観た韓国映画「愛している、愛してない」。結婚5年目の夫婦。妻が突然夫に別れ話を切り出す。数日後のある雨の日、出て行く妻のため、夫は黙って荷造りを手伝う。夫の口癖は「クンチャナヨ」。韓国語で「大丈夫だよ」とか「気にしないでください」という意味。

2016年10月23日 (日)

世界ことわざ集

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卵を盗む者は牛も盗む

He that will steal an egg will steal an ox.

イギリスのことわざ(元々はフランスのことわざ)。悪い心はだんだんに高まるものだということ。ちょっとした物を盗んだとき見つからないと、だんだん大きな物を盗むようになる。

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日本のことわざ。人のうわさ話というのは実におもしろく、おいしい鴨の味のようである。

朝食は王のように、昼食は労働者のように、夕食は乞食のように食べなさい

ユダヤのことわざ。朝鮮にもよく似たことわざがある。

ただの水を飲むな (トルコのことわざ)。

もらった馬の口はのぞくな(ドイツのことわざ)。人から贈られたものをあれこれけちをつけたり、文句をいうものではない。

ストーブのうしろでは誰でも英雄(ドイツのことわざ)  のんびりとストーブにあたって、悠然とかまえている。つまり平和な生活をしているとき、一見その人は偉く思われるかもしれない。しかし、人の真価は混乱の中にあってこそはじめてわかる。

濡れている者は雨を恐れない。裸の者は盗賊を恐れない(ロシアのことわざ)。

三度目はみんなうまくいく (イギリスのことわざ)

Third time does the trick 

逃げるは恥だが役に立つ(ハンガリーのことわざ) 自分の得意分野でしか戦わない

ブドウ畑と美人には手がかかる(フランスのことわざ)

映画俳優デビューものがたり

   いまアメリカではローマ時代の史劇映画「ベン・ハー」(ジャック・ヒューストン主演)が公開されている。「ベン・ハー」はサイレントの時代から何度かつくられたが1925年と1959年の作品がよく知られている。史劇は数多くのエキストラが登場するので、その中から未来のスターが現われることもある。1907年のときはウィリアム・S・ハートが、1925年はゲーリー・クーパーが、1959年はジュリアーノ・ジェンマがローマの兵士としてエキストラで出演している。スターたちのデビュー作品を調べる。

1914年 チャールズ・チャップリン「成功争ひ」

1915年 ダグラス・フェアバンクス「快男子」

1916年 ジョン・ギルバート「慧眼」

1916年 ハロルド・ロイド「水車番人」

1916年 エリッヒ・フォン・シュトロハイム「イントレランス」

1917年 エミール・ヤニングス「男になったら」

1918年 ルドルフ・バレンチノ「社交界の花形」

1919年 ベラ・ルゴシ「女ハムレット」

1919年 ポリス・カーロフ「ダグラス大王」

1920年 ジョン・バリモア「狂へる悪魔」

1924年 ビクター・マクラグレン「街の恋人形」

1925年 ジョン・ウェイン「大学のブラウン」

1928年 ランドルフ・スコット「三人水兵恋行脚」

1929年 ジョエル・マクリー「船出の朝」

1930年 ジェームズ・ギャグニー「地獄の一丁目」

1930年 ハンフリー・ボガート「哄笑の世界」

1931年 ジョージ・ラフト「速成成金」

1932年 ジャック・ホーキンス「謎の下宿人」

1933年 ジャン・ギャバン「トンネル」

1934年 ジャン・マレー「かりそめの幸福」

1934年 ロバート・テーラー「我が家の誇り」

1935年 エロール・フリン「踊り込み花嫁」

1935年 ジェームズ・スチュワート「舗道の殺人」

1935年 ヘンリー・フォンダ「運河のそよ風」

1936年 ローレンス・オリビエ「お気に召すまま」

1937年 ジェームズ・メイスン「無敵艦隊」

1937年 ボブ・ホープ「百万弗大放送」

1937年 レックス・ハリソン「男は神に非ず」

1939年 ウィリアム・ホールデン「ゴールデン・ボーイ」

1940年 ロバート・ミッチャム「曠野の逆襲」

1940年 ロバート・ライアン「悪の血統」

1944年 グレゴリー・ペック「炎のロシア戦線」

「冬のソナタ」ヨン様、パパになる

   「微笑みの貴公子」ペ・ヨンジュンが23日、第1子が誕生しパパになる。13歳年下のパク・スジンとは昨年7月に結婚。ペ・ヨンジュンは22歳のとき「愛の挨拶」でデビューし、「初恋」(96)「愛の群像」(99)でスターとしての地位を確立した。日本では「冬のソナタ」(02)以降、ヨン様の愛称として絶大な人気を誇る。映画は「スキャンダル」「四月の雪」と寡作である。2009年には敗血症で入院。昨年7月28日、女優パク・スジンと非公開の結婚式を挙げた。日本メディアは、「ヨン様結婚」を伝える簡単な記事で冷めた日韓関係を象徴するかのようだった。

プロフィール
生年月日 1972年8月29日
家族    父 母 妹
身長・体重 180cm  75kg
血液型   O型
趣味    ゴルフ・スタークラフト
特技    ウェイト・トレーニング
       釣り・剣道・合気道
       「ムーン・リヴァー」をギターで弾き語り
出身校  ミョンイル小学校
       ベジェ中学校
       ハンヨン高等学校
        成均館大学映像学科中退
胎夢    母が夢で青いりんごを見た
酒量    焼酎2瓶
宗教    カトリック

2016年10月22日 (土)

セザンヌの死

Paulcezanne95420361402    晩年、ポール・セザンヌの名声は日を経るに従って高まっていったが、セザンヌは孤独な日々を過ごしていた。1898年には、母アンヌが死んだ。妻のオルタンスは息子の教育のためと称してパリへ行き、セザンヌのもとには帰らなかった。そして、糖尿病がセザンヌを苦しめるようになった。しかし、その苦しさのなかでも、絵を描くことだけは絶対にやめられない。1906年10月15日、セザンヌは野外で風景の写生をしているうちに、豪雨にあい、帰り道で倒れた。農夫に発見されてエクスの家にかつぎこまれたが、翌日はすぐに起き上がり、庭師ヴァリエの肖像画を描き続けようとした。しかし、そのために肺炎を悪化させて再び床につく。パリにいる妻のオルタンスは危篤の電報を手にしても、なぜか駆けつけようとはしなかった。5日後、10月22日、パリから帰らない息子の名前をよびながら、妹マリーにみとられブルゴン街の自宅でセザンヌの67歳の生涯は終わった。故郷エクスの墓地に埋葬される。(Paul Cezanne)

2016年10月21日 (金)

映画俳優デビューものがたり

  NHKスタジオパークからこんにちは、本日のゲストは俳優生活30年を迎える阿部寛。転機となった作品は自身によると「チロルの挽歌」「熱海殺人事件モンテカルロ・イリュージョン」そしてデビュー作の映画「はいからさんが通る」である。やはり俳優にとってデビュー作はなにものにも代えがたいものである。仲代達矢のデビュー作は「七人の侍」、台詞なしのエキストラだが、映画史に残る作品がデビューというのは何かをもっている男である。

1909年 「碁盤忠信・源氏礎」 尾上松之助
1920年 「アマチュア倶楽部」 岡田時彦
1921年 「路上の霊魂」 鈴木傳明
1923年 「三好清海」 阪東妻三郎
1923年 「三色すみれ」 片岡千恵蔵
1924年 「大盗伝」 高田稔
1925年 「弥陀ヶ原の殺陣」 大河内傳次郎
1925年 「黒髪地獄」 市川右太衛門
1927年 「稚児の剣法」 長谷川一夫
1927年 「鞍馬天狗余聞」 嵐寛寿郎
1927年 「異国の娘」 榎本健一
1927年 「彼をめぐる五人の女」 見明凡太郎
1928年 「維新の京洛」 岡譲司
1929年 「小金井小次郎」 阿部九州男
1930年 「落第はしたけれど」 笠智衆
1935年 「若旦那・春爛漫」 上原謙
1933年 「河向ふの青春」 宇野重吉
1935年 「忠次売り出す」 志村喬
1941年 「闘金」 池部良
1942年 「微笑の国」 小林桂樹
1947年 「銀嶺の果て」 三船敏郎
1947年 「不死鳥」 佐田啓二
1947年 「女優」 森繁久彌
1948年 「遊侠の群れ」 鶴田浩二
1949年 「花の素顔」 岡田英次
1951年 「善魔」 三国連太郎
1952年 「殺人容疑」 丹波哲郎
1952年 「歌の山脈」 天知茂
1953年 「思春の泉」 宇津井健
1954年 「花の白虎隊」 市川雷蔵、勝新太郎
1954年 「浅草の夜」 品川隆二
1954年 「七人の侍」 仲代達矢
1954年 「かくて自由の鐘は鳴る」 宝田明
1956年 「太陽の季節」 石原裕次郎
1956年 「飢える魂」 小林旭
1956年 「電光空手打ち」 高倉健
1956年 「森は生きている」 平幹二朗
1957年 「九時間の恐怖」 田宮二郎
1958年 「おトラさん大繁昌」 渥美清
1960年 「男対男」 加山雄三
1960年 「十七才の逆襲・暴力をぶっ潰せ」 松方弘樹
1970年 「その人は女教師」 水谷豊
1972年 ドラマ「シークレット部隊」 三浦友和
1974年 「卑弥呼」 草刈正雄

直哉忌

049siga   志賀直哉は1971のこの日、肺炎と老衰により没した。享年88歳。無駄のない文章は、小説文体の理想のひとつと見なされ現在でも評価が高い。墓は東京の青山霊園にある。豪壮な墓が多く並ぶ霊園の片隅で、祖父母や父たちと並んで、彼らの墓よりは頭一つ低い位置に立つ、「小説の神様」の墓にしてはつつましい感がある。1980年3月、志賀が亡くなって9年もしてから墓が何者かに荒らされるという事件が起こった。数日後の朝、青山墓地内で志賀直哉のものらしき骨が散乱しているのが見つかった。志賀の墓から300m離れたよその家の墓の敷地の中で、その家の人が墓参りに来た際に見つけたものである。骨壷は益子焼の濱田庄司の高価なものであったためそれを目当ての犯行らしい。犯人は依然として見つかっていない。(10月21日)

エジソンは電球の発明者ではなかった!?  

Sredison  1879年のこの日、 トーマス・エジソンが長時間発光する白熱電球を発明したことはよく知られている。だが、世界中で電球の発明をエジソンと認識しているのは、アメリカと日本だけだといわれる。なぜなら、エジソンがフィラメントの原料として使ったのは、たまたま部屋にあった日本製の扇の竹であったというエピソードが日本でよく広まっているためである。実際には、ジェームス・ボウマン・リンゼイが1835年に電灯の実験を実施したといわれており、1878年にジョセフ・ウィルソン・スワン(1828-1914)が炭化させたセルロースを使い、寿命が40時間程度の白熱電球を開発した。1882年、スワンは「エジソンは発明を侵害している」として訴訟を起こした。エジソンはスワンの主張を認め、示談を成立させる。そして、エジソンはスワン電灯会社を買収し、1883年「エジソン・スワン電灯会社」を設立した。以降、白熱電球の特許権を得た同社は電灯事業を独占し、約300万個の電球を全米に設置し、莫大な収益を上げることに成功した。エジソンは電球の発明者ではなく、電灯の事業化に成功した人というべきであろう。エジソンの手になるという発明の多くは、すべてがエジソン個人に帰するとは言えないものが多い。エジソンは、それまでのアイデアをいわば編集する才能があったといえるだろう。(10月21日)

2016年10月20日 (木)

ヴェルレーヌとランボー

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秋の日の ヴィオロンのためいきの

身にしみて ひたぶるに うら悲し。

鐘のおとに 胸ふたぎ色かへて 涙ぐむ

過ぎし日の おもひでや。

げにわれは うらぶれて ここかしこ 

さだめなく とび散らふ 落葉かな。

    ポール・ヴェルレーヌ(1844-1896)は、フランスのメッツに生まれ、パリ市役所の下級吏員となり、早くも22歳にして「サテュルニャン詩集」(1866年)、25歳にして「艶なるうたげ」(1869年)、「よき歌」(1870年)を出し、逸楽的な夢想と憂愁とを、自由・大胆なリズムのある形式に託して、音楽的に暗示するという、その独自の詩風を示した。しかしやがて飲酒の習慣に陥る。1871年秋、美少年アルチュール・ランボー(1854-1891)を知るや、奇怪な情熱にとらわれて、妻マチルド・モーテ・ド・フルールビルを棄ててランボーとイギリスに出奔。1873年7月、ついにブリュッセルの街上で、ランボーを拳銃で撃ち、2年間、モンスの刑務所に捕われた。妻との離婚確定の知らせに深刻な打撃を受け、悔い改めてカトリック教に帰依し、獄中で、宗教詩の傑作「叡智」(1880年)を書いた。1875年出獄後は中学校教師をして生活の建て直しに努めたが、また、1885年には、ヴゥジー刑務所に、1ヵ月間投獄されたり、その一生は放蕩と、飲酒の悪癖と、神秘主義との間を絶えず行ったり来たりしていた。1896年1月8日、肉親友人もいないウジェニー・クランツの部屋で、一人淋しく死んだ。

   本日10月20日は象徴派の詩人アルチュール・ランボーの誕生日。ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー(1854-1891)。シャルルビルに生まれる。早くから異常な知的能力を発揮し、8歳で文章の天分を示した。ランボーが残した著作は少なく、散文詩集「地獄の季節」(1873年)「イリュミナシオン」(1874年)がある。以後は文学と別れて、ヨーロッパを放浪したり、エジプトでコーヒー商をやったり、エチオピアで探検家兼武器売込人になったり、多彩な人生を送った。(参考:大塚幸男「写真・フランス文学史」)

Verlaine Rimbaud
    ヴェルレーヌ               ランボー

2016年10月19日 (水)

ブラック・マンデー

   1987年10月19日の月曜日にニューヨーク証券取引所で株価が急落した。ブラック・マンデーである。それは1929年10月24日の「暗黒の木曜日」と29日の「暗黒の火曜日」を上回る、史上最大の508ドル32セント安、下げ率22.6%(ダウ工業株30種平均)を記録。暴落は、ヨーロッパや日本の株式市場に波及、各市場で空前の下げ幅を記録する。20日の東京証券取引所でも過去最大の14.9%、3836円48銭安を記録した。2008年のリーマンショックの影響では日経平均株価も大暴落を起こし6000円台にまで下落した。(Black Monday)

ブルガーニン

Nikolai_bulganin   ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ブルガーニン(1895-1975)は1895年6月11日、ロシアのニジニ・ノヴゴロドに生まれる。ブルガーニンという旧ソ連の首相の名前はあまり記憶にない。だが山川の高校世界史には出てくる。マレンコフ後、フルシチョフ(Khrushchov)と「B・Kコンビ」を組んで、冷戦の緩和に努めた。1955年にはアイゼンハウアー、ブルガーニン、イーデン、フォールの四巨頭会談がジュネーヴでおこなわれた。しかし、反フルシチョフの事件に関与したとして1958年に首相を解任されている。わが国にとっては、ブルガーニンは記憶すべき政治家であろう。1956年10月19日、モスクワにおいて鳩山一郎・ブルガーニンとの間で日ソ共同宣言が交わされた。しかし同文書にある両国の平和条約役締結は未だ実現していない。これまで日本語で書かれたブルガーニンの評伝は1冊もない。

関係図書

ブルガーニン首相へ贈る書簡 内藤民治 カレント社 1956

2016年10月18日 (火)

士農工商は無かった!?

   「士農工商」近世、とくに江戸時代封建社会の基本的階級。この身分制の基礎となったものは、検地、兵農の分離という近世初頭の政治的、社会的諸現象である。すなわち天正年間豊臣秀吉が四民の身分を分離固定することを企てたのに始まる。武士の封建支配を維持するためには職業により社会的身分秩序を定めることが必要であったので、徳川氏がこれを継承、はっきりしたものにした。士は武士で、将軍から足軽などの軽輩まで、領地、知行、扶持を受け、封建社会の支柱として最上位に立ち、苗字、帯刀などあらゆる特権をもつ。農は農民、郷村生活者、すなわち村役人、小作人、庭子、家抱までの総称で、離農転職や土地の処分は禁ぜられ、日常生活にも強い制限を受けた。工は職人、商は商人で、工商は一括して町人とも呼ばれ下位に置かれた。これには両替屋、掛屋、札差のような高利貸し資本家から小売人および小職人、その他日雇人夫、棒手振りの類までが含められており、みな都市居住者であったが、生活上きびしい制限を受けていた。この身分制は幕末に近づくにつれ動揺し、武士の没落、町人の抬頭によってしだいに崩れていった。明治新政権下で四民平等が実現したかのようにみえたが、華族・士族・平民という新しい身分差別が成立した。しかしこのよく知られた歴史用語「士農工商」は、近年の研究では、江戸時代、明確な身分制度が存在しなかったという観点から、殆どの教科書から「士農工商」や「四民平等」は消えている。

スワードの冷蔵庫

    アラスカはアメリカ合衆国第49番目の州で、面積(1,518,807k㎡)は、アメリカの州の中では最大である。アラスカはもともとロシア領だったが、財政難のロシアは1867年この日、720万ドルでアメリカに売却した。

Williamseward2000loc   アラスカとはアリュート語で「大きな土地」という意味。購入交渉をすすめたウィリアム・ヘンリー・スワード(1801-1872)国務長官は「巨大な冷蔵庫を買った男」と嘲られたが、間もなくアラスカで金鉱脈が発見され、さらにアラスカは水産基地として栄え、いまではスワードは先見の明があったとされる。(Alaska,Aleut,William Henrry Seward,10月18日

逆さまの絵

Yoshihara    具体美術協会の吉原治良(1905-1972)の作品に、禅画の円相図を思わせるようなただ円を描いただけの単純な絵がある。美術館で逆さまに飾っても誰もおかしいと気がつかないかもしれない。実際にアメリカの美術館でマチスの絵が逆さまに飾られたことがあった。1961年10月18日からニューヨーク近代美術館でマチス展が開催された。12月3日の夕方、美術館を訪れたある人が、カタログの絵と展示された「舟」を見比べて、ある間違いに気づいた。ヨットが水面に映されている単純な絵だが、何と、逆さまに展示されていた。それまで11万6000人の来客があったのに、誰一人として気づかなかった。結局、絵が正しく展示されたのは最終日の1日だけであった。

 

Fune
  アンリ・マチス「舟」

沖田総司の妻

Photo     沖田総司(1842-1868)といえば今では知らぬ人はないほど歴史上の有名人物であるが、むかしは新選組といえば近藤勇くらいで、あとの隊士はほとんど無名であった。中里介山の「大菩薩峠」に沖田総司が登場するのが初めであろうか。昭和37年に発表された司馬遼太郎の短編集「新選組血風録」と東映が昭和40年にドラマ化したため一躍、土方歳三(栗塚旭)、沖田総司(島田順司)、斎藤一(左右田一平)の名はお茶の間に知られるようになった。とくに若くして結核で死ぬ沖田総司は青年剣士のイメージで熱狂的な女性ファンをつくった。鶴田浩二版「新選組」では有川博が演じた。BSプレミアム「新選組血風録」では、辻本祐樹が半井お悠(寺島咲)との淡い恋を描いている。だが史実はどうなのだろうか。幕末維新史家の川西正隆によれば、池田屋の変の戦闘で負傷した総司は壬生村の医療所、浜崎新三郎・トク夫妻宅で手当てを受けた。総司はこの時、トクの助手をしていた石井秩という女と知り合う。彼女は山城乙訓郡西本生邑・百姓石井忠左衛門の娘で天保15年(1844)10月18日の生まれであった。秩はユキという女子の連れ子をして、浜崎家へ来ていた。総司はユキを連れて壬生寺へ遊びに出かけたという。総司と秩は恋仲になり、秩は慶応2年11月5日にキョウという総司の子供を産む。しかし秩は翌3年4月26日に死没した。京都・光緑寺の墓地の「沖田氏縁者」と刻まれた墓碑は秩のものだという。娘ユキとキョウはその後どうなったのか。誰かに育てられたらしいが、明治の世、新選組隊士の娘は、はばかられる時代なので、いかなる人生をすごしたかは誰もわからない。沖田総司の子孫は現在もいるかもしれない。(川西正隆「沖田総司の恋人の謎」歴史と旅 昭和55年11月号) 画像は沖田総司の妻、秩の墓(京都市四条大宮町37番地)

2016年10月17日 (月)

ナターシャのワルツ

Yjimage   NHKでBBC製作の「戦争と平和」を放送している。昨夜4Epはナターシャとアンドレイが舞踏会で初めて踊るシーン。リリー・ジェームズのナターシャもよいが、やはりオードリー・ヘップバーンが思い出される。映画は1956年の製作でアメリカとイタリアの合作だった。オードリーは「ローマの休日」「麗しのサブリナ」に続く三作目で初めてのカラー作品。舞踏会での場面には俗に「ナターシャのワルツ」という軽快だがもの悲しいメロディーが流れていた。この曲はなぜかあまり映画音楽のレコードには収録されていない。ポール・モーリアの音楽があるくらいである。オードリーは生き生きとした笑顔で、左手でスカートの裾をもって大きくまわりながらとても軽快に踊っている。キング・ヴィダーは「オードリー・ヘプバーンほどナターシャの役にピッタリの女優はいない。彼女はその仕草とテンポについて監督を喜ばす直観的な頭の良さを持って動いていた」と後に自伝で述べている。

貯蓄の日

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   本日は「貯蓄の日」。日本人は世界的に貯蓄の好きな民族といわれてきた。きんさん、ぎんさんが国民的人気者になったとき、出演料はどうされているか、と質問された。すると「老後のために貯金します」と回答して話題となった。ところが最近、日本に異変が起きている。貯蓄の好きな日本人も、格差社会が拡大して、若い世代を中心に、貯蓄ゼロである世帯が急増している。復興増税でますます苦しむ庶民層。21.7%は貯蓄ゼロ世帯である。(10月17日)

ショパン、パリで死す

2684365661    フレデリック・フランソア・ショパン(1810-1849)は、ポーランドのワルシャワ近郊のジェラゾバ・ボラに生まれた。ショパンは優しいピアノ曲を数多く作曲し、「ピアノの詩人」として親しまれている。しかし、彼は亡国の民、ポーランド人として生まれ、民族の抑圧に対する憤りと民族の自立を求める情熱を生涯にわたって持ち続けた。

  ショパンがパリを訪れた1831年7月はコレラが大流行していた。ヨーロッパ中に蔓延したコレラの死者は100万人に達する勢いを示し、一時アメリカに渡航することも考えた。しかし、当時は、ユーゴー、バルザック、スタンダール、ボードレール、画家のドラクロア、音楽家のベルリオーズ、ロッシーニ、リスト、メンデルスゾーンが活躍している。こうしたパリに落ち着いたショパンは、まもなくピアノの演奏家としての成功を収め社交界の人気者となった。「ショパンが流行をつくる」といわれるほどの華やかな生活を送ることになった。しかし、彼は精神的には孤独であり、ポーランド人としての苦悩、徐々に悪化する肺結核に苦しめられた。しかし、ショパンは、パリ生活の初期に、ポーランドから携えてきた複雑な思いを次々と音楽化した。1832年から35年までの4年間に7冊の曲集が作られている。彼が作曲したのは主に、貴族の行進曲から生まれた荘重なポーランド舞曲のポロネーズ、農民の三拍子の舞曲のマズルカであった。これらの曲はポーランド人を励まし続けることになった。1836年、ショパンはジョルジュ・サンドに初めて出会う。彼らの恋愛は1838年夏に始まった。マヨルカ島への旅はその年の秋に行なわれ、一時華麗な生活を送った。しかし、1842年以降になると結核のためか、作曲の意欲は急速に衰え、1849年10月17日、ショパンは異郷のパリで寂しく世を去った。(参考:宮崎正勝「世界史の海へ」小学館) Fryderyk Chopin

2016年10月16日 (日)

アノミア「岬」

   石川県の禄剛崎(ろっこうさき)は、能登半島の先端に位置し、日本海に面する岬。私の住んでいるところから一番近い岬は神戸の和田岬。一番遠いのは、宗谷岬、あるいは沖縄県の喜屋武岬。本州最北端は竜飛崎ではなく、大間崎。本州最南端は潮ノ岬。九州最南端は佐多岬。

2016年10月15日 (土)

ヒロイン誕生

   連続ドラマ「べっぴんさん」視聴率も高く好評である。今までの朝ドラをリメイクしたような高速展開。お見合い→結婚→出産→夫の出征→空襲→疎開先でのイビリ→起業に成功など。焼け跡に佇む芳根京子はさしずめ「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラそのものである。朝ドラは毎日放送されるので女優の知名度は一気にあがり、すぐに朝の顔となる。しかし番組が終わると忘れられるのも早い。そのまま主演級となる女優もいるが、多くは地味な脇役女優に甘んじている。佐藤夕美子(甘辛しゃん)、村川絵梨(風のハルカ)、瀧本美織(てっぱん)、藤澤恵麻(天花)、宮地真緒(まんてん)など時折ドラマの端役でみかける。

2016年10月14日 (金)

赤ちゃんの名づけの前に心すべきこと

   その人が一生背負うもの、それが名前である。最近では、読めない名前が多いことが話題になっている。大翔、陽菜、宇宙、太陽など「ひろと」「はるな」「そら」「ひかり」と読めないですね。どのような名前が良い名なのか、あるいはキラキラネームなのか、各個人の主観によるため判断基準は難しい。「大翔」の「翔」を「と」と読ませるのも「かける、とびめぐる、とぶ」から当てたものであるが、音は「ショウ」であり、「ト」と読ませるのは無理がある。実際「大翔」の読みには「ひろと」「はると」「やまと」などいろいろあるらしい。だが毎年の名前人気ランキング上位に入っているので、日本人の名前として一般的になっていくと思われる。ちなみに2016年女の子のかわいい名前、第1位は「結菜(ゆいな)」だそうだ。

   10数年前、親が良い意味がある名前をつけたが、字が難しく、女性のような名前だとして、少年時代よりイジメにあい、改名したが、それでも親への恨みが収まらず、息子が命名した父親を殺害するという悲劇的な事件があった。「鼎(かなえ)」という名前で、ある程度の教養ある人なら読める漢字である。古代中国で宗廟に供える最も重要な祭器で、そこから身分の高い人をいう。「鼎の軽重を問う」(相手の実力を疑ってその地位を覆そうとすること)の故事もよく知られている。本人がもっと成長し、社会で活躍すればさぞかし立派な名前であったと思われるが、未熟な時期にすれば、その名前に違和感がともなったのであろう。この鼎殺人事件は名前の命名に心すべき教訓が含まれているように思われる。赤ちゃんの名づけには、どのようなポイントを注意すべきだろうか。

①無理はしない。たとえば命(いのち)、絆(きずな)、天空(らぴゅた)など、人名としては無理がある。

②漢字は普通なのに、人名として不適切な意味が含まれる場合がある。「満子(みちこ、みつこ)」、「佐世子(さよこ)」など、一見ふつうと思うが、性的なイメージをおこさせる。「まんこ」「させこ」と読まれる。

③ハーフでもないのに欧米人のような名前をつけることがある。「じょうじ」「なおみ」「えりか」といった具合に元々は外国人の名前だったが、昭和期に一般化した。これからも増加するが、自然に当てはめられものであるかがポイントとなる。

④鼎殺人事件でも問題となったのが男女の区別がつきにくい名前である。「かおる」「ひかる」「のぞみ」「しずか」など、以前から男女の区別のない名前はある。明治以前、発育が不十分な子供に、実際の性別とは逆の性別にうけとられる名前をつけることで、健康を祈願する風習があったことが起源とされる。しかし就職、結婚など性別の誤認されるリスクも考慮しなければならない。

⑤おそれおおい名前。神や救世主といった畏れ多い名前。キリスト、裕仁など。しかし外国ではサルバトーレ(救世主)など普通に命名される場合もある。家康や信長なども、将来、本人がその名前に負けなければいいが。

⑥難解な名前。それ自体には良い意味やいわれがあるものの、画数が多かったり、難解で周囲や本人が理解できず、結果として珍奇ネームになってしまうケースがある。鼎殺人事件が典型例であるが、世の中には「鼎」よりも難しい名前の人はいくらでもいる。親権者が個人的な好みに走らず、子供が成長して誇りに思える名をよく考えるべきであろう。

学生街の喫茶店

Ent1610130017p1   ノーベル文学賞にボブ・ディラン!このニュースが昨夜流れると、ハルキストたちの落胆の声が広がった。村上春樹、今年もノーベル賞を逃す。英語にすると、

Haruki Murakami of Japan missed out on the Nobel Prize for literrature.

ことしの感慨は何か独特なものがただよう。ボブ・ディランといえばベトナム戦争時の反戦フォークで歌手のイメージがある。作詞というジャンルも文学といえるのか?反体制の象徴だった人物が体制側について権威ある賞をもらう姿はあまりカッコよくない。結局、やれノーベル賞だ、金メダルだ、と大さわぎする大衆もばかげている。現在のところディランが受賞するのか、辞退するのか、はっきりしない。

 

明治の成金王と脱獄王

   鰹節店の丁稚から身を興し、幕末のどさくさに鉄砲商で巨万の富を得た明治の成金王・大倉喜八郎(1837-1928)と脱獄6回、神出鬼没に全国各地に現れ、貧しい人の家に金を投げ込んだりする庶民のヒーロー「五寸釘の寅吉」こと西川寅吉(1854-1941)。成金王と脱獄王、この二人の数奇な人生の妙味は刑務所にあった。

   明治のはじめ、刑務所、監獄は集治監といった。刑務所に改称したのは大正11年10月14日である。明治12年内務省直轄の集治監が東京の小菅と宮城に建設された。その前年、大倉喜八郎の手によって宮城刑務所の建設が始められた。明治14年には北海道の石狩川右岸シベツプトに全国一の集治監を建設する話が持ち上がり、その工事請負にやはり宮城で実績のあった大倉が当たった。樺戸集治監の獄舎が大倉組によって建設され、篠崎から当別までの道路建設も大倉組であった。そのころの集治監は、刑務所というよりも強制収容所といったものであり、囚人には苛酷な労働が強いられた。北見道路の突貫工事には囚人約200人の死者がでた。北海道には樺戸(月形町)をかわきりに、空知(栗山町)、釧路(標茶町)、網走(網走市)など要所に建設され、囚人は開拓と労働に従事させられた。樺戸と網走では道路建設が、空知や釧路では炭鉱、硫黄鉱山の労働などに動員された。樺戸の囚人によるによる上川道路(現在の国道12号)建設が名高い。

    西川寅吉は14歳で無期刑となって三重の牢獄に入れられた。その後、静岡で捕まって、東京の小菅、樺戸集治監へ送られ3度脱獄した。熊本で捕まり、次は空知、標茶、さらに網走へ移った。樺戸では濡らした獄衣を塀にたたきつけ、一瞬の吸着力を利用して塀を乗り越えた。大倉喜八郎もたびたび樺戸へ足を運んだといわれるが、まさか囚人の寅吉と顔を合わせたことはないだろうが、明治の元祖成金・大倉喜八郎(91歳)と脱獄王・西川寅吉(87歳)は、北の大地の開拓地で、その接点があった。ただし、ふたりがお互いの名前や存在を知っていたかどうかも分からない。監獄を建設した男と脱獄した男、両雄の壮絶な人生に乾杯!!

2016年10月13日 (木)

ルピナスとグラハム・ベル

Se392   絵本画家のドキュメンタリー番組「永遠のターシャ・テューダー」の中での話。電話を発明したグラハム・ベルはいつもポケットにルピナスの種を入れていて、行く先々でその植を撒いていた。彼はアメリカ中にルピナスの花を咲かせたとある。ルピナスはマメ科ハウチワマメ属の植物で、数多くの種がある。ルピナスの原産地は、南北アメリカ、南アフリカや地中海沿岸で、栽培の歴史は古代エジプトにまでさかのぼる。ベルがアメリカ中にルピナスを咲かせたという話しは本当だろうか。

2016年10月12日 (水)

逃げるは恥だが役に立つ

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  新垣結衣の新ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」。契約結婚のコメディw@でタイトルはハンガリーの諺からきているらしいがちょっと意味不明。このように変わったタイトルの映画はむかしからある。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942年)はジェームズ・M・ケインというアメリカの作家の同名小説をルキノ・ヴィスコンティが北イタリアに舞台を移してリアリズムで描いている。だが映画に郵便配達夫は一度も登場しない。映画を見たが、タイトルと内容がどう結びつくのか意味不明。イタリアでの原題は「OSSESSIONE」(妄執)という。
    「愛しのシバよ帰れ」(1952年)のタイトル中の「シバ」という愛犬も映画に登場しなかった。かつて可愛がっていた愛犬が失踪した。妻は過去のことばかり追い求める。過去の自分との決別がテーマになっているという解説があったが、シバがその象徴といわれてみればなんとなくわかる気がする。

浅沼稲次郎の読書ノート

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    社会党の浅沼稲次郎(1898-1960)は1960年のこの日、日比谷公会堂で演説会の壇上で右翼少年、山口二矢に刺殺された。享年61歳だった。その大衆的な人柄で「ヌマさん」の愛称で親しまれていた。国立国会図書館憲政資料室には浅沼稲次郎読書ノートが所蔵されている。このノートは大正14年から昭和2年にかけてのもので、浅沼は20代後半、無産政党運動に邁進していた頃である。高橋亀吉の「経済学の実際知識」や那須皓の「公正なる小作料」の感想や「伏石事件」に関する一文、第6回メーデーに際しての所感などがみられる。表紙には「思想の母」とタイトルがつけられて、さらに「思想は行動の母、情熱は行動の母」とエマーソンの言葉が書かれている。行動型の現実政治家、浅沼らしい一面がみえる。このノートは平成18年、たまたま図書館の職員が七夕古書大入札会で見つけて購入したものである。(10月12日)

2016年10月10日 (月)

孫文と辛亥革命

200pxsunyatsen1    本日は中華人民共和国の国慶節、台湾の国慶日。1911年のこの日に発生した武昌起義を記念している。 「中国革命の父」孫文(1866-1925)が貧しい家ながら、ハワイ遊学や香港の医学校に学ぶことができたのは、兄の孫眉のおかげである。兄は華僑としてハワイで大成功したのである。孫文の民族意識や革命意識は、このハワイで目覚めた。1897年、孫文はカナダを経て日本にやってきた。横浜で宮崎滔天と出会う。孫文は日本を革命の根拠地とした。1905年、中国革命同盟会は頭山満が提供した赤坂のある民家の2階で発会となった。1911年10月10日に辛亥革命をおこし、1912年に中華民国臨時大総統になったが袁世凱に譲歩。1924年、孫文は最後に日本を訪問して、神戸で「大アジア主義」を日本の民衆に訴えた。「覇道の文化と王道の文化と結局いずれが政治人道に有益であるか、いずれが民族および国家に有益であるかということは諸君おのずから了解されることでありましょう。…今後日本が世界の文化に対し、西洋覇道の狗となるか、東洋王道の干城となるか、それは日本国民の慎重に考慮すべきことであります」この演説で孫文は、近代化に成功してアジアの強国に成長した日本が、欧米帝国主義列強と同じ道を、それも欧米勢力の手先となってアジアを侵略する国になるのか、それともアジア諸国の立場に立って欧米列強に抵抗する旗手となるのかを慎重に考慮すべきであると訴えたのである。彼は、最後まで、日本を、日本の民衆を愛していたのだ。

2016年10月 9日 (日)

山田太一「星ひとつの夜」

   11年の刑期を終え、清掃員として働く野々山(渡辺謙)は、音楽ホールの客席で忘れられた服を見つける。男は大金が入っていることに驚き、直接持ち主が住む高級マンションに届けに行く。そこで若い男のデイトレーダー(玉木宏)と出会う。物語は人間関係に臆病な2人の男がお互い興味を持つことで進行していく。会話のやりとりで、社会や人生を深く考えさせる言葉がある。山田太一がいかに優れた脚本家か本作をみればわかる。

2016年10月 8日 (土)

アトウォーター係数

225pxwilbur_atwater   アトウォーターの係数とは、

糖質(炭水化物)=4kcal/g

たんぱく質=4kcal/g

脂質=9kcal/g

  炭水化物、たんばく質、脂肪は三大栄養素と呼ばれている。三大栄養素を含む熱量を推定する簡便な方法として、アメリカの栄養学者ウィルバー・ロイン・アトウォーター(1844-1907)が考案した。

  つまり、こんな食べ物(炭水化物60g、たんぱく質40g、脂質30g)があったら、

    60×4=240
    40×4=160
    30×9=270
    計    670

つまり総カロリーは670kcalとなる。(Wilbur Olin Atwater)

内田定槌証言と閔妃暗殺の真実

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    横浜市中区の山手イタリア山庭園に「外交官の家」という瀟洒な洋館がある。明治・大正期の外交官・内田定槌(1865-1942)の邸宅(東京渋谷区)を移築・復元したもの。内田定槌(うちださだづち)は慶応元年、内田甚蔵の長男として豊前小倉に生れた。明治22年東京帝国大学卒業後、外務省入省。明治26年から京城に在勤し、朝鮮王妃暗殺事件(明治28年10月8日)の事後処理にあたった。内田の回想(昭和14年に口述)によると、三浦梧楼(1846-1926)らは広島で裁判にかけられ、免訴になったものの、事実は日本軍や壮士たちが王宮に侵入し、閔妃を殺害し、遺体を近くの林に運び石油をかけて焼いたことを述べている。それでも気になったので池の中に掘り込んだがなかなか沈まないので、翌日に松原の中に埋めたことを人伝えに聴いている。朝鮮王妃暗殺事件は日本では「乙未事変」という隠蔽した歴史用語が使われている。

2016年10月 7日 (金)

ホーソンとポー

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  ナサニエル・ホーソン(1804-64)は、マサチューセッツ州セーレムの旧家に生まれた。彼の作品に色濃いニューイングランドの風土性、過去に対する意識は、その出自に由来する。21歳でボードン大学を卒業。10年余り孤独な創作三昧の生活を続けた。1842年ソファイア・ピーボディと結婚、彼女の愛情が、強烈な自我と内面を見つめるホーソンの孤独を救った。1850年「緋文字」を発表するや、たちまち名声を確立した。このころメルビルと知り合い、互いに大きな影響を受ける。

   エドガー・アラン・ポー(1809-49)は、幼くして孤児となり、リッチモンド市の商人ジョン・アランに引き取られ、イギリスで初等教育を受けたのち、1826年バージニア大学に入学するが、1年たらずで退学。1833年「瓶の中から出た手記」が懸賞に当選し、作家としての、また雑誌記者としての道が開けた。その後のポーはリッチモンド、ニューヨーク、フィラデルフィアの各地で雑誌の編集にたずさわり、数多くの評論や書評を書くかたわら、数多くの小説を発表した。1849年10月7日、40歳で亡くなった。

    ポーは人間の心にひそむ内的恐怖や無意識にみごとな形態を与えた怪奇小説や幻想小説の書き手、明敏でときには辛辣な批評家、それに今日隆盛をきわめる推理小説(「モルグ街の殺人」)やSF小説の元祖であった。しかしポーの文学は、その生存中はかれの実力にふさわしい理解と賞賛とを受けなかった。それと同じように、人間としてのポーについても、これを伝える人々のことばに大きなへだたりを残したまま今日にいたっている。ボーの誹謗者たちはかれを神経病的な酔っ払いの麻薬常用者と考え、感情生活のいつも不安定な、道徳的誠実さの欠除している男とみなした。他方、かれを弁護する人々は、かれのすべての困難を、かれを嫌悪した人々の悪意、時代がかれに加えた苛烈な仕打ち、あるいはまた、かれをなやましたさまざまな肉体的、精神的病気のためであるといっている。かれについての真実がそのどちら側にあるかは、今でさえなお不明である。ポーがアルコールや阿片に過度なまでにふけったということがあまりにも伝説的になっているが、かれの場合には、他の多くのロマン派詩人のように、多分にかれ自身の偽悪的な面がはたらき、実際のかれ自身よりも自分をそのような姿に見せようとすることばや暗示があったであろうことを考えておく必要がある。(参考:「玉川百科大辞典16 西洋文芸」) 

2016年10月 5日 (水)

芸能人の運命を左右する改名あれこれ

049yemon1   生瀬勝久の当初の芸名は「槍魔栗三助(やりまくりさんすけ)」だった。最近では、能年玲奈が独立騒動で芸名を「のん」と改名している。芸名は芸能人の命だ。五木ひろしは成功するまでに、5回改名している。川中美幸は春日はるみ、夏川りみは星美里、壇蜜は齋藤支静加という旧名がある。華原朋美には三浦彩香、遠峯ありさ、という旧名がある。

   むかしから改名して成功した芸能人は多い。林長二郎が長谷川一夫、城健三郎が若山富三郎、柴田吾郎が田宮二郎、峰岸龍之介が峰岸徹、安田道代が大楠道代、丸山明宏が美輪明宏、悠木千帆が樹木希林、ラビット関根が関根勤、高樹沙耶が益戸育江、浜崎くるみが浜崎あゆみ。漢字を平仮名に、あるいはその反対の場合もある。柳ユーレイ→柳憂怜、柏原よしえ→芳恵、大谷みつほ→允保。伊藤麻衣子→いとうまいこ、にしきのあきら→錦野旦。唐木淳→黒木憲ジュニア。元ほっしゃん→星田英利。横綱若乃花(本名:花田勝)は風水建築デザイナー直居由美里のアドバイスで芸名を「花田虎上(まさる)に改名している。最も多く改名した芸能人は池田裕子(画像)。本名の三門裕子。堀内裕子→桐生裕子→桐生ユウ子→桐生ゆう子→絵門ゆう子。

智恵子記念館

10月6日、智恵子はとうとう昨夜病院で亡くなりました。昨夜遺骸を自宅に連れてきました。あはれな一生だったと思ひます。(難波田竜起宛てはがき)

    高村光太郎の妻智恵子は昭和13年10月5日、肺結核で亡くなった。52歳だった。造り酒屋の娘であった長沼智恵子の生家には智恵子記念館(福島県二本松市)がある。記念館には彼女の油絵、紙絵が展示されている。

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ジョージ・ワシントンの悔恨

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 ニューヨーク市立図書館

    1789年のこの日、ジョージ・ワシントンはニューヨーク市立図書館から2冊の本を借りた。国際関係論と議会討論に関する本で、返却期限は11月2日だった。ところが、ワシントンは国事に忙殺されて本のことはすっかり忘れてしまった。結局、ワシントンの死後もその2冊の本は長らく未返却のままであった。ジョージ・ワシントンといえば、少年時代、父が大切にしていた桜の木を切ったことを正直に話して反省したという逸話がよく知られている。いわば正直者のシンボルであるワシントンが本の長期延滞者であることはアメリカ図書館関係者にとって長い間、悩みの種であった。ニューヨーク市立図書館は当時アメリカでも唯一の図書館で初期の貸し出し記録にワシントンの未返却本があることを憂慮していた。延滞料は221年で約43万円になるという。だが、最近ジョージ・ワシントン邸の管理団体が同じ版の図書を約100万円で調達し、ニューヨーク市立図書館に返却したという。ジョージ・ワシントンは長期延滞者として世界図書館史に残る記録を樹立したのである。(10月5日)

2016年10月 4日 (火)

書斎で愉しむ

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 文学者の書斎は仕事場であるが知的空間の創造性はたいへん参考になる

   台風18号が接近している雨の秋の一日。そんな時、一人で自分の時間を過ごすのもいい。読みたい本に囲まれて、すきな音楽を聴きながら、ゆったりと過ごす。小さな空間を利用した理想的な条件の書斎を考えてみたい。

1.ちょうどよいスペース。狭すぎず、かといって広すぎると空虚感や落ち着かない感じになる。書斎は図書館と違って、心地よい、ちょうどよい広さが絶対条件である。

2.本が密集している。好みにもよるが、天井までいっぱいに本があると異空間、知的な空間が眼前にあり、読書に耽る雰囲気がでてくる。

3.渾然一体感。古い本と新しい本。仕事に役立つ本と趣味の本。写真集と辞書・事典。学術書と絵本。ともかく対照的にものがあると新しい発想が生まれる。

4.本だけでなく小物が大切。写真や旅先で買った土産品。古いポスター、ぬいぐるみ、子どもの頃に遊んだおもちゃ。プラモデル。吉本隆明の書斎をみると民芸品がたくさん書棚にある。さすがに知の巨人である。

5.季節感も大切。これから秋。どんぐり、落葉などさりげなくあるとイイ感じ。

6.換気。網戸のある天窓があり、天気のいい日は自然の外気も取り入れる。換気扇もある。密閉した空間なので空調設備は大切。

   これらすべて満たすと、掃除もめんどうだけど、清潔が一番なので小まめにティシューなどでほこりをとることは健康上大切である。

ブリュッセルのグラン・プラス

Img_2   ベルギーの首都ブリュッセルは、EUの本部やNATO北大西洋条約機構本部(アナス・フォー・ラスムセン事務総長)が置かれているため、ヨーロッパの政治の中心地になっている。ブリュッセルの語源は、ブラマン語のブリュック(沼地)とサリ(建物)である。7世紀、この地はブリュックセラ(沼地の家)と呼ばれた。12世紀には都市を囲む城郭が築かれるまでになり、商工業の町として栄えた。ユネスコ世界遺産に登録されている旧市街地にある大広場グラン・プラスは、17世紀頃の建築物に囲まれ、ユーゴーは「世界一美しい広場」と称賛している。約110×70mの広さがあり、その周囲には、市庁舎のほか、パン職人、ビール醸造業者、大工・家具職人、船頭のギルドハウスなど11棟の建物が並んでいる。

    フランドル地方は中世、毛織物工業を背景にブリュージュなどが商業の中心地として繁栄した。15世紀、ブルゴーニュ公国に編入、さらにハプスブルク家の支配下に置かれた。1815年のウィーン会議で、フランスの再拡張を抑える緩衝地帯としてオランダに併合された。1830年10月4日、独立革命によりオランダから独立を宣言。翌1831年、レオポルド1世が国王に即位、立憲君主国となった。中立政策をとったが、2度の世界大戦でドイツの侵略を受けた。2011年、ワロン系社会党のエリオ・ディルポが首相に就任した。2014年10月、シャルル・ミシェルが首相に就任。(La Grand Place,Brussels,Elio Di Rupo)

2016年10月 3日 (月)

蛇笏忌

20121016214022ba2     飯田蛇笏は昭和37年10月3日、脳出血のため山梨県境川村の自宅で死去した。77歳。主として『ホトトギス』に拠り、俳壇の流行にかかわることなく山国の自然と生活を詠いつづけた。

  芋の露 連山影を正しうす

冬になろうとしている秋の日の朝、辺りの里いも畑の大葉にびっしりと置いたように玉の露が輝いている。晴れて澄み渡った空の遠くを眺めると、南アルプスの連山がみずから姿勢を正すかの如く、くっきりとその姿を現している。

2016年10月 2日 (日)

安政大地震

4b  1855年10月2日(新暦では11月11日)夜10時、江戸を中心に大地震(M6.9)が起り、翌朝方まで30数度に及んだ。家屋の崩壊1万余戸、死者4300人以上と伝えられる。この地震で、尊攘派の藤田東湖(1806-1855)は老母を庭にほおり出し、自らも逃げようとしたが、一瞬おそく、落ちてきた梁の下敷きとなって死んだ。

望遠鏡の日

09082501galileostelescope_big  1608年のこの日、オランダの眼鏡技師ハンス・リッペルスハイが望遠鏡を発明した。翌年にはイタリアのガリレオ・ガリレイが望遠鏡が発明されたことを知るや、自身でそれを製作し、太陽や月、木星など天体を観測した。(10月2日,Hans Lippershey)

ガンディー誕生日

Gandhi06   1869年のこの日、インド独立の父マハトマ・ガンディーはインドの港町ポールバンダルで生れた。10月2日はインドでは「ガンディージャヤンティ」(ガンディー記念日)という国民の休日であり、2007年の国連総会で国際非暴力デーとすることが決議された。

   マハトマ(偉大な魂)と呼ばれ、世界中から尊敬を集めるガンディーだが、意外にも、少年時代は素行が悪く、悪友にそそのかされて、ヒンドゥー教の戒律で禁じられている肉食を繰り返していただけでなく、タバコにも手を出して、タバコ代を工面するために召し使いの金を盗み取ったこともあった。(Mahatma Gandhi,Porbandar)

2016年10月 1日 (土)

メガネの似合う人

   福井県鯖江市はメガネの生産日本一。日本に初めてメガネを伝来したのはフランシスコ・ザビエル。メガネフレームのつるをテンプル temples という。元来、側頭部をさす。10月1日は「メガネの日」。10月10日は「目の愛護デー」。混同しないで。

Setuko02   メガネが一番似合う芸能人はアンジェラ・アキという調査結果があります。最近では、高橋優、佐野史郎、ベッキーなどメガネをする著名人が多いですね。個人的には「青い山脈」の丸メガネの女学生・笹井和子(若山セツ子が演じた)が好き。

北欧ロバーツコーヒー

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    10月1日は「コーヒーの日」。秋になってコーヒーの需要も高くなるからだそうだ。そういえばスーパーでインスタント・コーヒーが特価だった。世界で国民1人当りのコーヒーの消費量が多い国はどこでしょうか?第1位はフィンランドで、第2位がノルウェー。大人は1日平均5~6杯は飲むらしい。

北野大茶湯はなぜ1日で中止になったのか?

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    豊臣秀吉は天正15年10月1日から10日まで北野の森で大茶会を催す計画をした。茶の湯好きの者であれば若党・町人・百姓を問わず、釜・釣瓶・呑物を一つずつ各自が用意して集まるように命じた。10月1日は秀吉みずからと千利休、津田宗及、今井宗久が茶を点じ、800人以上にふるまった、という。しかし当初10日間としていたイベントは、この1日だけで茶会は中止された。博多から代表として招かれて上洛した豪商神谷宗湛は、1日で終わったためにまにあわなかった。僧英俊の『多聞院日記』には、何か不祥事があったものか、西国で佐々成政が討ち死にしたからか、との噂を記し、「ウソ歟」と書き加えている。一般の参会者には中止の理由はわからなかったであろう。佐々成政が討ち死にしたという噂はウソであったが、肥後の国一揆が勃発したのは本当のことで、おそらく秀吉は10日間も茶会を楽しむ気持ちはなくなり、中止したものであろうか。

ネクタイの起源

Jnejutaikuroachia   ネクタイnecktieは男子服では特に重要なアクセサリーとなっているが、その起源には諸説ある。古くは紀元2世紀ローマ兵が防寒のために首に巻いたウール布フォーカルfocalを起源とする説。あるいは直接の起源としてクラバット説がある。フランス語でネクタイはクラバット(cravate)、イタリア語もcravatteという。(米語でもcravateともいう)。クラバットの語源はクロアットcroate、つまりクロアチアの軽騎兵(画像)のことである。17世紀、オーストリアのクロアチア兵は家庭からの無事の帰還を祈ってもらった赤い布を首に巻いていた。これを見たフランスのルイ14世が「あれは何か?」と聞いたところ、兵隊の事だと勘違いした側近が「クラバットです」と答えたため、布の方が「クラバット」になってしまった。

    日本で初めてネクタイの製造をはじめたのは、1884年10月1日、帽子製造業者だった小山梅吉が神田柳原の古着市場で舶来の中古「ネッキタイ」(当時ネクタイをこのように呼んでいた)を買い求め、それを分解して、見様見真似で作ったのが国産第一号のネクタイである。

メガネの日

Fukui_seminar_2390  10月1日は「メガネの日」。メガネは13世紀イタリアで生まれた。日本に初めて伝えられたのはキリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルといわれている。福井県鯖江市はメガネの生産日本一。1905年に増永五左衛門が眼鏡枠製造技術を鯖江に持ち込んだ。1980年代にチタンを用いたメガネフレームの製造に成功した。1987年から全国でも珍しい市役所に「めがね課」が設置された(1998年まで)。

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