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2016年9月 5日 (月)

ポーツマス条約調印

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  小村寿太郎(1855-1911)は安政2年、日向国飫肥藩の下級武士・小村寛平、梅子の長男として生まれる。文久元年、安井息軒が教える藩校振徳堂に入学。大学南校に入学し、明治8年にはハーバード大学に留学。帰国後、美人のマチと結婚する。しかし新妻は裁縫、料理など家事は一切しない女性だった。近くに実家があり、その仕送りで女中を雇い、すべて家事をやらせる。浪費家であり、趣味は芝居見物だった。子供ができても妻の生活態度は変わらなかった。小村の家庭は高官にもかかわらず、貧窮にあえいでいた。高級官僚にしてなお貧乏暮らしを余儀なくされたのは、妻の浪費癖のほかに、父から受け継いだ莫大な借金が原因ともいわれる。ともかく、小村は家庭的には恵まれなかったようだ。

   しかし小村は多くの先輩たちに見出されて、明治顕官への道を順調に歩んだ。小倉処平(1846-1877)、陸奥宗光(1844-1897)、桂太郎(1847-1913)たちである。桂内閣のとき、外務大臣を二度務めている。今日の霞ヶ関外交の基礎をつくったのは小村寿太郎といわれている。

  セオドア・ルーズベルト大統領の斡旋を得て、明治38年8月9日、ポーツマスの海軍工廠において非公式に講和談判予備会議が開かれた。(第1回本会議は翌10日から開かれた)

   会議の列席者は日本側が、小村寿太郎(1855-1911)、高平小五郎(1854-1926)両全権と佐藤、安達、落合の三書記官。ロシア側はセルゲイ・ウイッテ(1849-1915)、ローゼン両全権とブランソン、コロストヴェツ、ナボコフの三書記官であった。

    9月5日、日露講和条約(ポーツマス条約)の調印によって、ロシアは樺太全島及び遼東半島の日本への移譲を認め、実質的に日露戦争は日本の勝利に終わった。しかし、増税に耐えて戦争を支えてきた多くの国民は、日本の戦争継続能力について真相を知らされないままに、賠償金が得られないなどポーツマス条約の内容が期待以下だったので、激しい不満を抱いた。9月5日には「屈辱的講和反対、戦争継続」を叫ぶ群衆が、政府高官邸、交番、国民新聞社などを襲撃したり、放火したりした。いわゆる日比谷焼打ち事件である。桂太郎内閣は戒厳令を発し、新聞を発禁処分にすることで辛うじて事態を収拾した。

   とくに全権委員の小村寿太郎に対しては国民の非難が集中し、「露探」(ロシアのスパイ)と罵られ、小村邸の窓ガラスが割られ、雨戸がたたかれる日々が続いた。小村寿太郎の妻・小村マチ(小村町子)は、精神的に打ちのめされ、ノイローゼ寸前に追い込まれた。帰国した小村はホテル住まいで家族との別居を余儀なくされた。

   小村寿太郎は明治44年8月25日、桂内閣が総辞職にともない政治を引退した。小村は葉山の粗末な貸家に住んだが、わずか3月後には病に倒れた。皇太子(大正天皇)も慰問にこられたという。侯爵を授けられ57歳で没した。しかし臨終の場に小村マチの姿はなかったという。(Portsmouth)

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コメント

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あはは。
小村寿太郎は、すごいね。けっこう、やこししいよね!
まあ、か

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