グレタ・ガルボ
グレタ・グスタフソンは、1905年9月18日、ストックホルムの貧しい家庭に生まれた。両親は正式な結婚ではなく、14歳の時に日雇労務者の父が病死すると、学校を中退して、理髪店で髯剃り見習いをやっていたという。(この世の中には少女時代のガルボに髯を剃ってもらった男がいたという驚きの歴史的事実)その後、姉の友人の紹介でデパートに就職。帽子売り場の売り子をした。やがて、その美貌を買われて帽子カタログのモデルを努める。1924年、スウェーデン映画の立役者マウリッツ・スティルレル(1883-1928)に見出されて、「イェスタ・ベルリングの伝説」のヒロインに抜擢される。1925年6月6日、二人はニューヨークに着いた。メトロの重役ルイス・B・メイヤーはハリウッド中の美容師を動員して泥臭い女優を磨きあげ、「グレタ・ガルボ」という芸名をつけた。またスティルレルは、ガルボに礼儀作法から服の選び方まであらゆるたしなみを教えた。こうして理想の女性は男たちによって創りあげられた。
主演第2回作品「明眸罪あり」の初日あいさつで、司会者が「こちらがミス・ガルボです。一言も英語がしゃべれません」と紹介し、ガルボもスウェーデン語で答えたが、観客はなんとなく笑ってしまった。以来ガルボは決して、初日の招待試写会に出席しなくなった。言葉の問題と、生来の社交嫌いは、ガルボの神秘性を際立たせ、効果的な魅力となった。ロン・チャーニーはガルボにこう言った。「神秘はぼくに役立っている。しかし、きみにはもっと役立つだろう」ガルボ伝説のはじまりである。華やか名声とは裏腹に、倹約家で香水や化粧品のたぐいを持たなかったという。その謎めいた私生活のゆえに、ガルボはいっそう永遠の面影を人々に与えた。日本ではむかしから永遠に冒すべからざる女神として「神聖ガルボ帝国」とよく呼んでいる。(これは映画評論家の筈見恒夫の造語である。)36歳の若さで引退し、何度もカムバックの噂はあったが、長い隠遁生活に入る。1990年、85歳で永眠する。
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