啄木の妻・節子
「歴史秘話ヒストリア」再現映像は啄木に溝端淳平、その妻節子に川島海荷という豪華なキャストだった。石川節子(1886-1913)。明治19年10月14日、岩手県南岩手郡上田村新山小路に堀合忠操の長女として生まれる。父は、岩手郡役所に勤務し、のち玉山村村長になった。明治35年3月私立盛岡女学校を卒業。38年5月に啄木と結婚したが、生活苦のため茨の道を歩み、啄木という一個の天才の陰に幸薄き短命の生涯となる。
明治41年4月28日、石川啄木は上京した。5月4日、金田一京助の友情により本郷区菊坂町82番地の赤心館に同宿。上京後の一ヶ月余に「菊池君」「病院の窓」「母」「天鵞絨」「二筋の血」等、五つの作品三百枚余の原稿を書き、その小説の売り込みに奔走したが失敗だった。ために収入の道なく生活に困窮。しかしこのような生活難のなかで名作は生まれた。6月23日夜、歌興とみに湧き、この夜から暁にかけて55首、24日午前50首、翌25日141首と多くの歌を作った。「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる」「たはむれに母を背負ひてそのあまり 軽きに泣きて三歩あゆまず」「己が名をほのかに呼びて涙せし 十四の春にかへる術なし」などの歌がある。啄木が東京で家族と別れて単身生活をしていたころ、妻節子、長女京子は北海道にいた。厳冬の北海道の冬、障子も襖も売り払い吹きさらしになった部屋で小さな京子といつまでも啄木の文学的成功を夢みて待っていた。だが明治45年4月13日午前9時30分、啄木は父、妻、友人の若山牧水にみとられながら26歳と2ヶ月の人生を閉じた。啄木は亡くなるとき日記を燃やせと言い残したそうだ。「私の愛着が結局そうさせませんでした」と節子は宮崎郁雨に語った。節子は「吾れはあくまで愛の永遠性なると言ふ事を信じ度候」と手紙に書き残している。節子も、翌大正2年5月5日、肺結核のために28歳の若さで死んだ。啄木の死におくれることわずか1年である。
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