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2016年9月26日 (月)

参勤交代と大名行列

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歌麿「駿河路の大名行列」


   徳川家康は関ヶ原の役ののち、外様大名の江戸参勤や妻子の江戸居住を奨励した。1602年に前田利長が母の芳春院をたずねて江戸に参勤したのが、その最も早い例といわれる。家康が征夷大将軍に就任(1603)すると西国大名の江戸参勤が急にふえ、幕府も諸大名に江戸に邸宅を与え、刀剣・書画・鷹・馬などを参勤のときにおくり、大大名に対しては鷹狩に託して秀忠が東海道は高輪御殿、中山道は白山御殿、奥州街道は小菅御殿など迎えて優遇し慶長の末年には参勤が一般の風となった。はじめ幕府は参勤の供連れの人数を規定しただけで、参勤を命令することはなかったが、1634年に譜代大名の妻子を江戸にうつし、翌年の武家諸法度で毎年4月交代で参勤することを命じ、参勤交代は法制として確立した。通則は隔年交代、関東の大名は半年交代、対馬の宗氏は3年1度の参勤、水戸家や役付大名は定府(じょうふ)であった。大名行列は本来、軍事に備える移動形態であったが、太平が続くと大名の権威と格式を誇示するための華美なものに変容した。参勤の道中には武具一式、衣服、雨具、非常食糧、漬物、湯道具、娯楽道具、休憩用具(幕・床几など)、ろうそくなどに至るまで持って歩く。他家の行列とすれちがう場合には、道中では格式にかかわらす゜、乗り物のとびらあるいは窓をあけ、行列は止まらない。長途の旅行で病気におちいり、一命を失うという場合も少なくなかった。加賀藩では最盛期には4000人の従者がいたといわれる。

行列の際、先払いが「下に下に」と触れ声をかけ、庶民は土下座して道を譲る。ただし沿道の人を土下座させることができるたのは親藩だけで、譜代と外様は「片よけ片よれ」と命令して通行した。

参考文献;平山敏治郎「参勤交代する旗本」 人文研究大阪市立大学大学院文学研究科紀要7-8,1956

 

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