賢治と啄木と盛岡中学校
宮沢賢治(1896-1933)は、明治29年8月27日、父政次郎、母イチの長男として岩手県稗貫郡花巻町大字里川口第一二地割字川口町二九五番地(現花巻市豊沢町四丁目一一番地)に出生(戸籍簿では8月1日出生)。但し実際に生まれた場所は母の実家である宮沢善治方(川口町四二九番地)。家業は政次郎の父喜助が開いて発展させた質・古着商。
明治42年、全甲の成績で花城尋常高等小学校を卒業した賢治は、その年4月、県立盛岡中学校(:現在の盛岡第一高等学校)に入学する。当時の岩手県には、盛岡、福岡、遠野、一の関の4つしか中学校はなく、その中でも盛岡中学は特に難関として知られていた。同校出身者には、金田一京助、石川啄木、米内光政らがいる。明治43年、賢治二年のとき石川啄木の第一歌集「一握の砂」が出されたが、翌年頃から賢治は啄木を真似て三行割書きの短歌を創作している。
もともと岩手県は教育の盛んな土地柄である。賢治とともに入学した135名のうち1年生たちも、ゆくゆくは高等学校をへて帝国大学へというコースだった。しかし石川啄木が退学しエリートコースを外したように、退学者がかなり多い。135名のうち88名しか残っていない。賢治は、大正3年3月、88名中60位の成績で盛岡中学を無事卒業した。一年間、受験勉強に励み、大正4年4月、盛岡高等農林学校(:現在の岩手大学農学部)農学科第2部に首席入学。宮沢賢治は詩人・童話作家で知られるが、職業的児童文学作家が困難な時代であるため、盛岡高等農林学校で学び農業技術改善の技師として、農民へ奉仕したことがその文学を開花させた要因であろう。宮沢賢治が石川啄木の「悲しき生涯」を知って、農業技術と文学を両立させる人生を選択したのかどうかは、あくまで推測であるが、啄木の影響は少なくないと思う。
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