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2016年8月29日 (月)

築山殿の怨霊

Photo_6     徳川家康の正室築山御前(瀬名姫)は、今川義元の養女とされるが、実は義元の姪になる(母は今川義元の妹、父は今川氏の重臣の関口親永)。駿河の今川館へ人質として来ていた松平元信(徳川家康)と、1557年に結婚。長男信康と亀姫が生まれた。今川義元が桶狭間で戦死すると、信康とともに岡崎城に入る。城の築山曲輪に館があったので、築山殿という。家康との不仲、甲斐の医者減慶との不倫など悪評があった。信康の妻に織田信長の娘徳姫を迎えるが、嫁と姑は不仲だった。徳姫は姑と夫を訴える手紙を出し「築山殿が武田勝頼に内通した」と父に通報した。信長は家康に彼女と信康の処分を迫る。1579年8月29日、築山殿は浜松城へ呼びだされ、途中、佐鳴湖畔の富塚(浜松市)で、家康の命を受けた家臣に殺害された。廟所が浜松市の西来院にある。ついで、信康に切腹を命じた。この事件の背後には、徳川家内の浜松派と岡崎派の争いがあり、家康が武田氏寄りの岡崎派を一掃するために、信康を処断したのではないか、という見方もでている。

   築山殿の死後さまざまな不吉がおこり、その殺害に加わった家臣が怨霊のために不幸にみまわれたという。そのため築山殿を殺害した家臣のひとり野中重政の子孫が、100年後、二基の石燈籠を寄進したという。八柱神社(岡崎市欠町)には築山殿の塚(画像)がある。(参考:久野仙雨「築山御前紅涙史」)

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