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2016年8月22日 (月)

藤村忌

Toson01   昭和18年のこの日、島崎藤村(1872-1943)は71歳で世を去っている。明治29年9月、藤村は長く住みなれた東京を離れ、仙台の東北学院の英語教師になった。それは失恋、生家の没落、北村透谷の自殺など次々におとずれた不幸による孤独の道に徹するための旅であった。とくに想いを寄せる佐藤輔子の死(明治28年8月)の知らせに絶望した。そして藤村は宮城野の宿において、苛酷な人生体験は深く内に潜んで詩人の真の生命となり、まことの自我の声としての詩作が次々とうまれた。これらの諸作が明治30年、まとめられて「若菜集」として世に送られた。(8月22日)

       初恋

 まだあげ初めし前髪の

 林檎のもとに見えしとき

 前にさしたる花櫛の

 花ある君と思いけり

 数ある恋の詩の中でも、最も有名な、そしてすぐれた作品である。「まだあげ初めし前髪」というので、それまでお下げにしていた少女が、ようやく成熟期に達したばかりの年ごろとわかる。この少女は誰であろうか。一般には藤村の幼なじみ大黒屋の四女「おゆふ」といわれる。

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 槌馬屋美術館に飾られた「おゆふ」の写真

   あるいは特定の女性ではなく、それまでの純情な悲恋が芸術として結晶したのかもしれない。藤村は22歳の時、明治女学校の教師となり、1歳年上の女生徒の佐藤輔子(さとうすけこ、1871-1895)にひそかな恋心を抱いた。輔子の郷里に近い仙台に移ったのは、輔子への思慕が藤村の胸中にあったのではないだろうか。

201203_20_35_d0170835_1634076     佐藤輔子は、岩手県選出の代議士・佐藤昌蔵の五女。異母兄の佐藤昌介(1856-1939)はのちの北海道大学の総長となり、北大育ての親といわれる。佐藤輔子は明治27年に明治女学校高等科を卒業し、父母のいる花巻に帰り、翌年5月、許婚の札幌農学校講師・鹿討豊太郎(ししうちとよたろう)と結婚し、札幌へ移る。輔子はその僅か3か月後の8月に、24歳で病死している。

   島崎藤村は、明治26年1月30日、雪の中を鎌倉の星野天知を宅を訪ね、創刊された「文学界」を手にして語りあかした後、植村正久の一番町教会からも離脱し、わずか4ヵ月の教職も辞し、関西へのあてどのない旅に出た。

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