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2016年8月26日 (金)

崇徳院の怨霊

D774ce39e703726da347ll     保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐松山に配流された。のち雲井御所で約3年間過ごし、鼓が岡の木丸御所(坂出市)で6年間苦難の日々を過ごした。院は指の先から血をしたたらせながら五部の大乗蔵を写経した。その経文を都のどこかに奉納したいと願ったが、信西のために送り返された。院はこの恨みをはらすため自分の血で願文を書き、魔道に生きようとした。1164年この地で崩御された。46歳であった。歌人の西行はかねてから院の知遇を得ていたが、その没後4年たって讃岐へ渡り、白峯(香川県坂出市青海町)の崇徳上皇の御陵を訪れている。そこで西行は真心をつくして院に諌めの言葉をかけるが、上皇の怒りを抑えることはでなかった。この話は上田秋成の『雨月物語』「白峯」にも伝えられている。平清盛の次男基盛の溺死、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀など変事が起こり、上皇の御霊を鎮めるため白峰寺に頓証寺殿(画像)が建てられた。後世になっても、天変地異があればよく崇徳上皇の崇りとされた。崇徳上皇は歴代天皇の中で、最も恐れるべき霊とされたのである。(8月26日)

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