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2016年8月25日 (木)

中江藤樹忌

220pxnakae_toju_portrait   中江藤樹(1608-1648)は少年の頃から学問に心惹かれるようになった。そのころの学問というと、朱子学が主流であり、あえてそれに異を唱えるものはなかった。たが藤樹は37歳のとき王陽明の学問を知った。静かに瞑想して知る知ではなく、行動することによって知る知なのである。こうして彼は、陽明学に辿りつき、陽明学者として、わが国における最初の祖述者となった。

   あるとき、藤樹は帰宅途中、数人の盗賊にとりかこまれた。彼らは「身ぐるみぬいでおいていけ」と藤樹にせまった。藤樹は少しもあわてず、しばらく考えていたが、ややあってから、「着物はわたすことができん。ここでわしが着物を渡してやると、おまえさんたちは、ますます図にのって悪事をかさねるにちがいない。よって、このわしが成敗してくれる」というやいなや、持っていた刀の柄に手をかけ、あわや抜かんというすがたをみたが、盗賊たちは、その人がかねてから人々に慕われている藤樹先生と知り、無礼をわびただけではなく、これを機縁に門人になったという。

   また藤樹は結婚も30歳のときであるから、当時としてはずいぶんと晩婚だった。律義にも「三十にして室(妻)有り」という礼記にならったものであろう。しかも、この妻にした女性は高橋某の娘だが、これがもう二目とは見られぬほどのひどい醜女だった。母親のほうでも「おまえ、弟子の出入りも多いことだし、なにも好き好んで、あのようなひどい面相の女をそばに置くこともないではないか。いまからでも遅くはない。離縁しなさい」と申し出たほどだったが、日ごろ母親のいうことはなんでも聞く親孝行息子の藤樹であるが、このときばかりは頑として母親の言を容れなかった。「あんな醜女のどこがいいんだ」母親があきれるように言うと、「女は顔ではありませぬ」藤樹はきっぱりと答えた。「たしかに、あの女は見てくれは悪い。しかし、性格がとてもいいんです。非常に利口で、気くばりもきき、考え方にまちがいがありません」息子にこういわれては、それ以上母親も口出しはできない。ついに、嫁を追い出すことをあきらめた。この藤樹と13歳年下の妻は、はじめの4年間に3人の子を生んだ。いずれも育たず、5年目に産んだ男の子がようやく無事に成長した。これが嗣子の直伯。ついで9年目に次男の仲樹を産んだが、産後の肥立ちが悪かったのだろう、26歳の若さで他界した。藤樹もそれから2年後の慶安元年8月25日に世を去っている。享年41歳だった。(参考:歴史読本29-1、負目聖人「近江聖人のブス・ワイフ)

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コメント

藤樹先生は、お母さんの元の戻るために大洲藩を脱藩してるんです。江戸初期の脱藩は珍しいです。安曇川に戻って、仕官せずに、貧乏のまま先生をしてました。
また、それ以前ですが、大洲には、カンハンという朱子学の解釈を日本に持ち込んだ朝鮮儒学者が捕虜(かなり自由に行動できた)で来てました。朱子解釈は、カンハンから藤原惺窩に伝わり、家康が惺窩に学問所を頼んだところ、林羅山を推薦したとのことです。

「樹者カンハンと日本」カンハンは漢字です。明石書店、村上恒夫・辛基秀著。
伊予大洲は、陽明学と朱子学の解釈の始まりに縁がある地です。村上氏は坂本龍馬の脱藩ルートを解明して歩いた郷土史家さんみたいです。

さぶろたさん、お久しぶりです。たいへん有益な情報、ありがとうございます。中江藤樹先生は近江、伊予、米子などのご当地だけでなく、いまでも広く人気もある儒者ですね。一般に儒者というと堅苦しいイメージがありますが、藤樹先生にはユーモラスな一面もあり、知行合一説を重んじ、身分差を超えて人間味あふれる行動に魅かれるところがあります。

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