王昭君の生没年について
漢の元帝の時代、後宮にはあまたの美女がいたが、王昭君はその清廉な人柄ゆえに賄賂など一切しない人だった。匈奴の呼韓邪は友好のため漢室の宮女を求めた。元帝は数多い後宮の女性の中から絵姿の醜い王昭君を選んで、その強要に応えることにした。別れに臨んで対面すると、画像とは似ても似つかない絶世の美女であり、人選の誤りを悔やんだが、すでに遅かった。賄賂を贈らなかった王昭君を偽って醜く描いた画家毛延寿は、帝の怒りに触れて首をはねられたが、王昭君もまた後に胡地において怨思の歌を作り、服毒自殺したと伝えられる。王昭君哀話は「西京雑記」にあるが、元代の馬致遠の「漢宮秋」により広く知られるようになった。ここでの王昭君は、匈奴におくられる途中、国境の大河に身をあげて死ぬことなっている。昭君悲話はかなりの部分は作り話であるが、偽りの絵筆を執ったとされる毛延寿の冤罪も哀れさを感じる。毛延寿の刑死の年が紀元前33年のことでクレオパトラの没年と同じ。王昭君の生没年を推定すると、紀元前53年から紀元前33年とみられる。
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