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2016年8月23日 (火)

諸葛孔明、秋風五丈原

Photo_4     諸葛亮(181-234)。字は孔明。琅邪郡陽都県の人。前漢の司隷校尉の家系。幼くして父の諸葛珪が死んだため、叔父の諸葛玄に養われた。叔父の死後、南陽の隆中にうつり、徐庶らと交わり、臥龍と称された。徐庶の推挙により劉備に知られ、三顧の礼をもって迎えられたが、このとき天下三分の計を開陳し、以来、劉備と水魚の交わりを結ぶことになった。まもなく、荊州の劉琮が曹操に降伏し、そのため劉備は夏口に逃れた。そこで諸葛亮は使者として呉の孫権のもとにおもむき、連合して曹操にあたるよう説得、これが功を奏して208年11月、赤壁で曹操の軍を大破した。

    214年、劉備の蜀入りにさいしては、張飛、趙雲らとともに増援部隊を率いて成都に攻めのぼった。221年、劉備が蜀で漢帝を称すると諸葛亮も丞相となった。223年、劉備の病没にさいしては、国の将来と嗣子・劉禅の行く末をかれの手に託され、以後、蜀の経営に専心した。

    225年、みずから南方の鎮定にむかい、後顧の憂いを断ったうえで、227年、魏討伐にむかった。このとき、後主劉禅にたてまつった出師の表は、古来、これを読んで涙を流さぬものは人にあらず、といわれるほどの名文である。

    以来、五度にわたる魏討伐戦は、一時は魏の二郡を奪うという戦果をあげたが、最後の二度にわたる戦いは、魏の司馬懿(仲達)の持久戦に苦しめられ、234年8月23日、ついに五丈原で陣没した。53歳であった。(参考:丹羽隼兵・竹内良雄「三国志人物事典」別冊歴史読本中国史シリーズ 1)

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