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私が少年の頃、ノルウェーの首都はクリスティアニアと呼ばれていた。しかしある時からノルウェー人はその美しい名前を捨て、オスロと呼ぶようになった。(ロアルド・ダール「少年」)
オスロは1624年の大火で焼失し、クリスティアン4世によってルネサンス風に再建された。そして王にちなんで新都は「クリスティアニアKristiania)」と名付けられた。「オスロ」と改称されたのは1924年のことである。
このように地名はしばしば改称されることがある。アラスカ州にある北米最高峰マッキンリー山(第25代大統領にちなむ)が、「デナリ」(「偉大なもの」の意)と変更された。アラスカの先住民がデナリと呼んでおり、改称を求める声が出ていた。
これまで改称された代表的な地名をあげる。ニューアムステルダム(現在のニューヨーク)、江戸(:現在の東京)、ビザンティオンあるいはコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)や長安(現在の西安)などは歴史的に有名な都市である。ロシア第2の都市サンクトペテルブルクは4回も名称が変遷している。二ーンシュタット→サンクトペテルブルク(1703年)→サンクトペトログラード(1914年、ドイツ風名称をロシア風に)→レニングラード→サンクトペテルブルク。ボルゴグラードもツァリーツィン(1589年)→スターリングラード(1925年)→ボルゴグラード(1956年)。またカザンがカザニ(ロシア)、コルシカがコルス(フランス)にように日本でも表記が変更されることがある。ベトナムのサイゴンは1976年に南北が統一されると、革命家ホー・チ・ミンの名に因んで「ホーチミン」と改称された。中国語では「胡志明市」。モアイ像で知られるイースター島はラパ・ヌイ島と呼ばれている。先住民の言葉で「輝ける偉大な島」という意味である。
ボンベイ→ムンバイ(インド)
マドラス→チェンナイ(インド)
カルカッタ→カルカタ(インド)
アレッポ→ハレブ(シリア)
コロンボ→スリジャヤワルダナプラコッテ(スリランカ)
西イリアン→イリアナジャヤ→パプア(インドネシア)
ボルネオ→カリマンタン(インドネシア)
セベレス→スラウェシ(インドネシア)
サイゴン→ホーチミン(ベトナム)
グルジア→ジョージア
ザイール→コンゴ民主共和国
南ローデシア→ジンバブエ
セイロン→スリランカ
ビルマ→ミャンマー
ラングーン→ヤンゴン(ミャンマー)
ビアフラ湾→ボニー湾(ナイジェリア)
オートボルタ→ブルキナファソ
問1.歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」は全部で何枚の絵からなる?①53枚②54枚③55枚
問2.マラソン2時間3分23秒の世界記録保持者はだれ?①ゲブレシラシェ②ムタイ③キプサング
問3.東京下町の菊の井のお力は落ちぶれた愛人の源七の手にかかり、非業の死をとげる。明治の女流作家樋口一葉の代表作。①にごりえ②たけくらべ③雁
問4.キリスト教その他の宗教の自由を認めたミラノ勅令を発したローマ皇帝。①デォクレティアヌス帝②コンスタンティヌス帝③テオドシウス帝
問5.世界で一番高い山はエベレストだが、2番目に高い山は?①カンチェンジュンガ②ローツェ③K2
問6.一ノ谷で戦死した平敦盛の父は?①家盛②頼盛③経盛
問7.学識をひけらかすさまを何という?①アナクロニズム②トリビアリズム③ペダンチック
問8.日本プロ野球で通算二塁打が最も多い選手は?①立浪和義②王貞治③福本豊
問9.法隆寺にあるこの仏像は?①弥勒菩薩②救世観音③阿修羅
問10.面積が日本一広い市は岐阜県高山市。では2番目に広い市は?①日光②浜松③北見
問11.蝶がトレードマークの日本人デザイナーは誰?①森英恵②コシノヒロコ③花井幸子
問12.老中水野忠邦が断行した改革は?①寛政の改革②天保の改革③享保の改革
問13.「腎臓」を英語で①spleen②liver③kidney
問14.バビロンに強制移住させられていたユダヤ人を解放した王は?①ラムセス2世②ネブカドネザル2世③キュロス大王
問15.次のうち恒星はどれか?①月②太陽③火星
問16.次のうち最もスピードが速いのはどれか?①ハヤブサ②タカ③ツバメ
問17.湿った空気が山越えなどで下降気流になり、それに伴う乾燥した熱風によって山岳の風下側で高温となる現象を何というか?①エルニーニョ現象②フェーン現象③デリンジャー現象
問18.カール・シュナイダーによる火山地形の分類によれば、富士山は次のどれか?①コニーデ②トロイデ③アスピーデ
問19.メルカトル図法では高緯度地方が拡大されすぎてしかも極を表現できないため、改善する図法が考案された。メルカトル図法のように正角図法でなく、ランベルト図法のように正積図法でない。世界地図によく用いられるこの図法は次のどれか。①グード図法②ミラー図法③エッケル図法
問20.既に存在する事物の名に因んで二次的に命名された言葉をエポニムという。次のなかでエポニムはどれか。①ニコチン②ソラニン③コアセルベート
問21.「ユウタナジイ」とは何か?①安楽死②餓死③壊死
問22.芥川龍之介「戯作三昧」の主人公は?①井原西鶴②近松門左衛門③滝沢馬琴
問23.夏目漱石「坊っちゃん」の主人公の青年教師は次のうちどの子孫か?①藤原家②平家③源氏
問24.よいことをするのにためらうなという意で「善は急げ」という言葉がある。最も古い出典はどれ。①徒然草②今昔物語③毛吹草
問25.以仁王を奉じ、都で平家打倒の兵を挙げたが失敗した人物はだれか?①源頼政②源為義③源義賢
問26.世界で最初に運転免許証が発行された国はどこ?①アメリカ②イギリス③フランス
問27.フィリピンなど東南アジア熱帯を主産地とするフタバガキ科の巨大高木。加工しやすく、建築・家具材のほか、合板用に用いられる木材は?①マホガニー②ケブラチョ③ラワン
問28.大阪で蔵元による多くの収入を得て幕府に財産を没収(闕所)された商人はだれか。①奈良屋茂左衛門②淀屋辰五郎③鴻池善右衛門
問29.ただ単に関税を撤廃し通商上の障壁を取り除くだけでなく、投資や電子商取引、経済制度の調和など、経済領域でのさまざまな連携強化により締約国間で経済取引の円滑化をめざす国際協定を何というか。①TPP②EPA③FTA
問30.日露戦争後の講和会議はどこで開かれたか。①パリ②ワシントン③ポーツマス
問31.日本で初めて孤児院を創設し、生涯を孤児・貧児の保護事業に専念したのは誰か?①山室軍平②石井十次③留岡幸助
問32.2つの電荷間または磁極間に働く力は、距離の二乗に反比例し、両方のもつ電気量または磁気量の積に比例する。この法則とは?①フックの法則②オームの法則③クーロンの法則
問33.「因循姑息」「姑息な手段」姑息の意味は?①卑怯②古臭い③一時しのぎ
問34.有名人。名前だけでは性別がはっきりしないことがある。次のうち女性はだれ?①桜庭一樹②大森一樹③美水かがみ
問35.トウモロコシ粉の薄焼きで肉などの具をはさんだメキシコ料理。①パエリア②タコス③ピカタ
問36.漫画「サザエさん」の主人公フグ田サザエの結婚前の職業は?①看護婦②雑誌記者③漫画家
問37.英語のVの音を「ヴ」と表現することを考案したのは誰か?①中村正直②福澤諭吉③西周
問38.オセアニア諸国を中心に、南太平洋でのあらゆる目的の核の利用を禁止した条約を何というか。①ラロトンガ条約②マーストリヒト条約③ラムサール条約
問39.本州、北海道、九州、四国を除いた日本で面積がいちばん広い島は?①沖縄島②佐渡島③択捉島
問40.鎌倉時代、霜月騒動で滅ぼされた有力御家人は?①三浦泰村②安達泰盛③和田義盛
問41.気象庁は何省の外局?①総務省②国土交通省③文部科学省
問42.1921年に最高気温58.8℃という世界一高い気温を記録したバスラはどこの国にある?①サウジアラビア②イラン③イラク
問43.ポトラッチ・パーティーとは?①贈答パーティー②婚活パーティー③仮装パーティー
問44.女性参政権が世界で初めて実施された国は?①アメリカ②ニュージーランド③オーストラリア
問45.寂しがり屋で可愛いロシアの人気キャラクター何という。①マトリョーシカ②カチューシカ③チェブラーシカ
問46.景気には波がある。景気循環を50年から60年の周期とした波動説を何という。①クズネッツの波②コンドラチェフの波③ジュグラーの波
問47.天智天皇が定めた日本で最初の令は?①飛鳥浄御原令②近江令③養老律令
問48.ナポレオンが生まれた島は?①セントへレナ島②コルシカ島③エルバ島
問49.日本最初の女性博士は誰?①辻村みちよ②津田梅子③保井コノ
問50.「鳩尾」何と読む①ぼんのくぼ②うなじ③みぞおち
問51.デフォー「ロビンソン・クルーソー」。私(クルーソー)の無人島暮しは何年間だった?①7年間②17年間③27年間
問52.初めて宇宙へ行った日本人は?①野口聡一②秋山豊寛③毛利衛
問53.カイロ郊外のギザの3大ピラミッドの中で一番大きいのは?①クフ王②カフラ王③メンカウラ王
問54.猫をイタリア語で?①ポポキ②マオ③ガット
問55.サザンカは何科?①バラ科②ツバキ科③キク科
問56.ZARDの「負けないで」。作曲は?①小室哲哉②織田哲郎③奥田民夫
問57.紅白歌合戦に出場したことがある歌手は?①及川三千代②愛川みさ③梢みわ
問58.ブリキは英語でティンプレート(timplate)。どこからの外来語か?①スペイン語②オランダ語③ポルトガル語
問59.「ちびまる子ちゃん」が掲載されている雑誌は?①ちゃお②りぼん③なかよし
問60.ピラミッドの守護神スフィンクス。3大ピラミッドのどれに一番近くにあるか?①クフ②カフラ③メンカウラ
問61.阪神タイガース川藤幸三の通算本塁打数は?①6本②16本③26本
問62.今年のインターネットランキングで好きなトランプ遊び第1位は?①ババ抜き②大富豪③ポーカー
問63.日本相撲協会の監督官庁は?①総務省②文部科学省③内閣府
問64.音楽で使われる速度標語で一番遅いのは?①アダージョ②ラルゴ③アレグロ
問65.スタビライザーとはどんな装置か?①揺れ防止②防音装置③防犯警備
問66.ノアの箱舟から最初にとびだしたのは?①ひつじ②ハト③カラス
問67.国際語、エスペラント語を発明したザメンホフの職業は?①眼科医②外科医③歯科医
問68.戸田恵梨香が子供の頃、父親に習っていたのは?①少林寺拳法②テニス③ヴァイオリン
問69.沖縄のヒージャー料理は、何肉を使った料理か?①ブタ②ヒツジ③ヤギ
問70.アメリカの医療ドラマ「ER緊急救命室」の舞台となっている都市は?①ニューヨーク②シカゴ③ロサンゼルス
問71.日本海に接している県はいくつ?①12②15③18
問72.フィギュアスケートを表す中国語は?①氷上舞踏②華麗滑水③花祥滑水
問73.日本で最も多く飼育されている乳牛の種類は?①ガンジー②ジャージー③ホルスタイン
問74.アニメ「アルプスの少女ハイジ」で、ハイジの友達でヤギ飼いの少年の名前はどれ?①マルコ②ペーター③ネロ
問75.世界最初の宇宙飛行士ガーガーリンのふるさとは?①ウリヤノフスク②スモレンスク③ヤースナヤ・ポリャーナ
問76.1950年に行われた第1回日本シリーズの優勝監督は?①三原脩②小西得郎③湯浅禎夫
問77.空気より軽い気体は、①水素②酸素③二酸化炭素
問78.日本の通貨を「円」と命名したのは、➀福澤諭吉②大隈重信③五代友厚
問79.1910年、家出をしたトルストイは、鉄道で移動中悪寒を感じて南ロシアの小さな駅で下車して駅長の官舎に泊まり82歳で永眠する。現在、レフ・トルストイ駅と改名しているが当時の駅名は?➀グロデコヴォ駅②アスターポヴォ駅③ヤースナヤ・ポリャーナ駅
問80.魚類が繁栄しはじめる古生代の期間は?➀デボン紀②ジュラ紀③白亜紀
答え問1③、問2③、問3①、問4②、問5③、問6③、問7③、問8①、問9②、問10②、問11①、問12②、問13③、問14③、問15②、問16②、問17②、問18①、問19②、問20①、問21①、問22③、問23③、問24③、問25①、問26③、問27③、問28②、問29②、問30③、問31②、問32③、問33③、問34①、問35②、問36②、問37②、問38①、問39③、問40②、問41②、問42③、問43①、問44②、問45③、問46②、問47②、問48②、問49③、問50③、問51③、問52②、問53①、問54③、問55②、問56②、問57①、問58②、問59②、問60②、問61②、問62②、問63②、問64②、問65①。問66③。問67①。問68①。問69③。問70②。問71②、問72③、問73③。 問74②。問75②。問76③。問77①。問78②。問79②。問80①。
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張良(?-前168年)は秦に滅ぼされた韓王室の一族であった。その仇を報いようと始皇帝の暗殺を企てたが失敗に終わる。下邳に身を隠していた時、川のほとりで一人の老人に出会う。その老人が誤って自分の沓を川に落とし、張良にその沓を拾わせた。その老人は黄石公といい、張良に太公望の兵法(『六韜』)を授け、これによって張良は漢の劉邦の軍師となった。司馬遷の『史記』留候伝に書かれたこの伝説は日本中世でも好まれ、室町時代以降、絵画や工芸品の題材として多く表わされている。画像の鞍(くら)には黒漆に沈金の技法で中国の故事を図案にしている。(引用文献:「本郷 2008.1」吉川弘文館)
「黄石公図」 方西園 江戸時代(1783年)
70年代後半から80年代かけては現在活躍する大スターが成功の階段を上っていた時期である。シルヴェスター・スタローンは「ロッキー」(1976)で、アーノルド・シュワルツェネッガーは「コナン・ザ・グレート」(1982)でスターになった。ハリソン・フォード、リチャード・ギア、メル・ギブソン、ジャッキー・チェン、ケヴィン・コスナーらも80年代、90年代スターといっていいだろう。だが80年代~90年代、世界中で最も話題が多かったのは、1981年7月29日、イギリスのチャールズ皇太子と結婚したダイアナ・スペンサーである。子爵の三女として生まれ、7歳のとき両親が離婚。チャールズ皇太子と20歳で結婚した。ギリシア・ローマ神話のダイアナ(アルテミス)は処女神である。狩人のアクタイオンは、アルテミスが泉で水浴している姿を見てしまったために、鹿に姿を変えられ、連れてきていた猟犬に食い殺されるという話が伝わる。同じ名を持つ元英国皇太子妃ダイアナは、人々からの盗撮に悩まされたすえに、交通事故で急逝した。1997年8月31日、パリで狩猟の女神の名を持つ女性が死後もマスコミに追いかけられ事故死した。80年代を代表する世界的有名人といえばマイケル・ジャクソン。1982年「スリラー」はアルバムの売り上げの世界記録を更新した。だが2009年にマイケル・ジャクソンが、2012年にはホイットニー・ヒューストンが急逝している。(Diana,Charles,Michael Jackson)
1962年のこの日、トリニダード・トバゴがイギリスから独立した。カリブ海の西インド諸島の南端に位置するトリニダード島はトバゴ島など5島からなる共和国。コロンブスが1498年に発見し、三位一体を意味する「トリニダード」と命名された。
「そばにいるね」の青山テルマの祖父はトリニダード・トバゴ人という。日本人がトリニダード・トバゴを知るようになったのは1964年の東京オリンピックからだろう。陸上200mでエドウィン・ロバートが3位、陸上400mでウェンデル・モトリーが2位をとり、初参加ながら大活躍をみせた。実はイギリス領時代の1948年ロンドンオリンピックから参加していた実績があった。(8月31日)
大正デモクラシーの政治家・原敬は、正しくは「はらたかし」と読むが、「原敬記念館」や「原敬日記」のときには、「はらけい」と読むそうだ。小説家の菊池寛は平凡社の「世界大百科事典」(1972年版)では「きくちかん」とあるが、三省堂の「コンサイス日本人名事典」では「きくちひろし」で載っている。本名は「ひろし」で、筆名が「かん」という説もある。森恪(もりかく)は「もりつとむ」と読む。近衛文麿(このえふみまろ)も本当は「あやまろ」が正しい。菅原通済(すがはらつうさい)は「みちなり」が正しい。東洋史家の和田清は「わだせい」と読む。東洋史家の加藤繁(かとうしげる)は「しげし」が正しい。しかし、ウィキペディアによると「本人は「しげる」と称していた」と記している。緯度変化の式に「Z項」を発見した天文学者の木村栄は「ひさし」と読む。タレントではウッチャンナンチャンの内村光良(うちむらみつよし)ではなくて、「てるよし」が正しい。そのほか臨済宗の栄西は「ようさい」か「えいさい」か。胡適は「こてき」か「こせき」か。読み間違いえられやすい人名は他にもたくさんあるだろう。
1937年、塚越賢爾と飯沼正明は東京・ロンドン間を94時間17分56秒の飛行により成功した。
夏目漱石(1867-1916)は、明治33年9月8日、横浜を出航、途中パリで万国博を見学して、10月28日ロンドンに到着した。ここで約2年4ヵ月を英語研究のため過ごした。文部省留学費が年1800円にとどまっていたことから、ケンブリッジなどの英国の大学生活が自己の目的にかなわないと知って、大学の講義を聞くことを断念した。ロンドンで、ウィリアム・ジェイムズ・グレイグの個人教授を1年あまりうけながら、下宿を5度変えて、学生街から西南の場末の新開地にうつり、衣食をきりつめて、高価な書籍の買入に留学費の大部分を傾けた。この間、美濃部達吉、長尾半平、大幸勇吉、土井晩翠らと多少の交渉をもったほかは、社交をさけ、下宿籠城主義をとり、古今の英文学書の耽読に過ごしたといってよい。ただひとつ、ドイツ・ライプツィッヒから帰途たちよった池田菊苗(1864-1936)との3ヵ月たらずの交友が、漱石に重大な影響を与えた。漱石は次のように書いている。
「倫敦で池田君に逢ったのに、自分には大変な利益であった。御陰で幽霊の様な文学をやめて、もっと組織だったどっしりとした研究をやろうと思い始めた」
化学者・池田との交友により、科学的研究方法による「文学論」の執筆を思い立った。明治34年5月5日から8月30日までのロンドンでの二人の交流が漱石文学と味の素を生んだともいえるのではないだろうか。(参考:瀬沼茂樹『夏目漱石』東京大学出版会 昭和37年3月)
人はそれぞれ生れたときに固有の名前がつけられる。だが歴史上の人物をみると、本名よりも愛称や筆名などのほうが広く知られる場合がある。アメリカの作家オー・ヘンリーの本名はウィリアム・シドニー・ポーター、イギリスの作家ジョージ・オーウェルの本名はエリック・アーサー・ブレア。魯迅は周樹人。ブラジルの「サッカーの王様」ペレの本名は、エドソン・アランチス・ドゥ・ナシメントという。アル・カポネは、アルフォンス・ガブリエル・カポネ。ソビエト連邦の政治家スターリン。スターリンというのは筆名であり、本姓はジュガシヴィリである。革命家ゲバラは「チェ(おい君)」が口癖でこの愛称で呼ばれた。本名はエルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ。インドネシアでは姓がないことが多く、スカルノ、スハルトでフルネーム。フィンランドの作曲家シベリウス(1865-1957)は、スウェーデン系であり、出生時の洗礼名はヨハン・ユリウス・クリスチャン。名前は「ヤン」と表記されることもあるが、フランス語固有の綴りの名前であるため「ジャン」とする。
歯の間に挟まったものを取り除いたり、食べ物を突き刺したりするための小形の楊枝。「爪楊枝」の「爪」は、「爪先の代わりに使うもの」の意味。「楊枝」の名はおもに「楊柳」が素材として用いられたため。楊枝の起源は古く、およそ10万年前からネアンデルタール人も楊枝を使っていたらしい。歯の化石に、縦の筋が見られ、これは堅い楊枝で歯をこすった跡だと推測される。歯木はいまでもインドやアフリカでは、市場で売られている。日本には、奈良時代に仏教とともに楊枝も伝来したらしい。仏教徒が木の枝で歯を磨くことをすすめたため、庶民にも楊枝の風習が室町時代には広まった。江戸後期には、楊枝を使う人々が増え、明治中期から河内長野で楊枝産業がおこった。河内長野市に「つまようじ資料室」(広栄社)が1990年に開設された。1本の楊枝の値段はいくらか?オリーブ爪楊枝(500本入り)で118円。1本当たり23銭。およそ4本で1円くらいである。
東京五輪も終わった。ある市長が表敬訪問に来た女子選手のメダルをこともあろうに噛んでしまったことで弁償するという騒動にまで発展した。ところで金メダル一個の値段はいくらか?純銀製のメダルに6グラム以上の金メッキを施したもので、重量は556グラムとすると、原価は9万145円とほぼ10万円である。
夏目漱石の「三四郎」ってさあ~、「あの柔道のヤツ?」 こんな会話で恥をかいたことがあるあなた。クイズに挑戦して今日から名作文学と仲良くなろう。
問1.文豪夏目漱石が書き残した作品で「漱石三部作」といわれるのは?
問2.志賀直哉「小僧の神様」に登場する仙吉は神田の何屋の丁稚か?
問3.呉承恩の「西遊記」、玄奘がひきつれる従者たち。猿の孫悟空、豚の猪八戒、もう1人はだれか?
問4.「ハムレット」「リア王」「マクベス」と並ぶシェイクスピア4大悲劇は?
問5.有島武郎、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成など作家の自殺は少なくない。明治27年5月、作家の自殺第1号は誰?
問6.女性で初めてノーベル文学賞を受賞したスウェーデンの作家は?
問7.夏目漱石「三四郎」の主人公の姓は何か?
問8.小松左京「日本沈没」で、沈没の最後になる場所はどこか?
問9.スタンダール「赤と黒」。「黒」は僧侶を表す黒衣と考えられるが、「赤」は何か?
問10.世界三大文豪とは、ダンテ、シェイクスピア、もう1人はだれ?
問11.「太平記」40巻は作者未詳とされるが、成立事情が複雑なため高校古典では記していない。研究では誰の作といわれているか?
問12.女性初の芥川賞受賞者は?
問13.久米正雄の小説で「月よりの使者」と渾名された野々宮道子の職業は?
問14.シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の舞台となったイタリアの町は?
問15.NHK連続テレビ小説「繭子ひとり」の原作者は?
問16.「ワザリング・ハイツ」の作者はだれ?
問17.明治期、ビクトル・ユゴーの小説「レ・ミゼラブル」を「ああ無情」と訳語したのは誰?
問18.松尾芭蕉「奥の細道」。元禄2年3月に江戸を出発してから、日光・中尊寺・酒田・羽黒山・出雲崎と旅して、9月に到着した場所は?
答え;問1「三四郎」「それから」「門」。問2秤屋。問3沙悟浄。問4オセロ。問5北村透谷。問6セルマ・ラーゲルレーブ。問7小川。問8茨城県水戸市木葉下(あぼっけ)。問9軍人(軍服)。問10ゲーテ。問11慧鎮(円観)が制作に参画したといわれる。それを玄恵が校訂し、14世紀後半、小島法師らが修正を加え成立したとされる。問12中里恒子。問13看護婦。問14ベローナ。問15三浦哲郎。問16エミリー・ブロンテ。問17黒岩涙香。問18大垣(岐阜県)。
宮沢賢治(1896-1933)は、明治29年8月27日、父政次郎、母イチの長男として岩手県稗貫郡花巻町大字里川口第一二地割字川口町二九五番地(現花巻市豊沢町四丁目一一番地)に出生(戸籍簿では8月1日出生)。但し実際に生まれた場所は母の実家である宮沢善治方(川口町四二九番地)。家業は政次郎の父喜助が開いて発展させた質・古着商。
明治42年、全甲の成績で花城尋常高等小学校を卒業した賢治は、その年4月、県立盛岡中学校(:現在の盛岡第一高等学校)に入学する。当時の岩手県には、盛岡、福岡、遠野、一の関の4つしか中学校はなく、その中でも盛岡中学は特に難関として知られていた。同校出身者には、金田一京助、石川啄木、米内光政らがいる。明治43年、賢治二年のとき石川啄木の第一歌集「一握の砂」が出されたが、翌年頃から賢治は啄木を真似て三行割書きの短歌を創作している。
もともと岩手県は教育の盛んな土地柄である。賢治とともに入学した135名のうち1年生たちも、ゆくゆくは高等学校をへて帝国大学へというコースだった。しかし石川啄木が退学しエリートコースを外したように、退学者がかなり多い。135名のうち88名しか残っていない。賢治は、大正3年3月、88名中60位の成績で盛岡中学を無事卒業した。一年間、受験勉強に励み、大正4年4月、盛岡高等農林学校(:現在の岩手大学農学部)農学科第2部に首席入学。宮沢賢治は詩人・童話作家で知られるが、職業的児童文学作家が困難な時代であるため、盛岡高等農林学校で学び農業技術改善の技師として、農民へ奉仕したことがその文学を開花させた要因であろう。宮沢賢治が石川啄木の「悲しき生涯」を知って、農業技術と文学を両立させる人生を選択したのかどうかは、あくまで推測であるが、啄木の影響は少なくないと思う。
「あなたの好きな四字熟語は何んですか?」という質問に、「一発逆転」や「一期一会」と答える人が多い。「一発逆転」「一病息災」は四字熟語なのだろうか。「一発逆転」は広辞苑には見あたらない。四字熟語の定義はあいまいで、狭義では古来中国で使われていた四字の漢字、広義の解釈では日本語として広まった四字漢語も含める学者もいる。「一期一会」という言葉はさも意味ありげで茶道に由来するが、日本で広まったのは比較的新しい言葉である。そこで四字熟語を格付けしてみる。とくに「史記」から来た言葉はみな含蓄がある。「四面楚歌」「背水之陣」「傍若無人」など。
Aランク 絶体絶命 臥薪嘗胆 四面楚歌 汗牛充棟 万里同風 呉越同舟 心機一転 大風一過 切歯扼腕 切磋琢磨
Bランク 一期一会 大政奉還 我田引水 十人十色 合縁奇縁
Cランク 万里一空 成田離婚 一発逆転 無縁社会 偶像崇拝 天地無用 一球入魂
Dランク 国会中継 日露戦争 復興増税 三球三振
Eランク 仮免総理 柳腰外交 無印良品
理由は…
A 中国の故事に基づいて成語として中国でも使われる。
B 見た形が四字漢語で日本で広く使用されている言葉
C 熟語として未成熟なもの
D 複合しただけで特別の表現効果のないもの
E 死語
紛らわしい姓の一つに「太田」と「大田」がある。江戸城を築いた「太田道灌」は点のある「太田」だが、狂歌の「大田南畝」には点が無い。太田牛一、太田水穂、太田薫には点のある「太田」である。大田錦城、大田洋子には点のない「大田」である。フェンシングの太田雄貴、巨人の大田泰示、ややこし、ややこし。
地名も群馬県太田市と東京都大田区、島根県大田市と紛らわしい。
円柱の中央部に膨らみをつけて立体感を付ける建築技法はエンタシスと呼ばれ、ギリシアのパルテノン神殿の柱にみられる。法隆寺の柱にも同様のエンタシスがみられることを最初に指摘したのは伊東忠太といわれる。(近年の研究では石井敬吉が伊東より先に指摘しているという)ギリシアの技法がシルクロードをへて中国、朝鮮をへて法隆寺に伝わったとする「エンタシスのギリシア起源説」は和辻哲郎によって広く知られるようになった。しかし学術的には、かならずしも定説と認められていない。これを裏付ける実証的な論文はいまだなく、あくまで仮説にすぎない。中国では「梭柱」といい、韓国では「胴張り」といい、古い仏教社寺に見られる東アジアの建築技法とみなされている。法隆寺に六朝様式の影響は明らかであるが、仏像の「古拙の微笑」と同様に、それをギリシアの様式にまで広げるのは学術的にはかなり困難がともなうらしい。
全く無名に近い人物が、死後に評価されて有名になることがある。幕末期岡山の歌人・国学者、平賀元義(1800-1865)。人間性を率直に表現した万葉調の歌風。死後に評価を高めた人といえば円空、石川啄木、梶井基次郎やアルチンボルド、ゴッホ、ゴーギャン、シスレー、アンリ・ルソー、モディリアーニ、ムソルグスキー、スタンダール、メルヴィルなど芸術家、作家に多い。坂本龍馬の名が一般に知られるようになったのも死後数十年経てからである。平賀元義の事績も没後忘れられていたが、正岡子規が明治34年に「日本」に連載していた「墨汁一滴」によって、その名が広く知れ渡るようになった。中国史上では陶淵明や杜甫も死後に有名になった詩人である。安藤昌益の存在なども狩野亨吉による発見まで忘れられていた。宮沢賢治、新美南吉、金子みすず、など童話作家、詩人にも没後有名になる人が多い。
ヴィヴィアン・マイヤー(1926-2009)は、21世紀になり再発見された米国人女性写真家である。2007年にシカゴの歴史家ジョン・マーロフが発見するまで、彼女の写真の存在は全く知られていなかった。死後に彼女の質の高いストリート写真は高く評価されるようになり、欧米で数多くの写真展が開催されている。
エンゲル係数とは、家計の消費支出に占める食費の割合が、家計の所得が増えるにつれて小さくなるという法則。つまりエンゲル係数が高いほど生活水準は低くなる。終戦直後の昭和24年はエンゲル係数は63.0%もあったが、昭和28年には48.5%と50%を切り、その後生活水準の向上に伴って急速に低下し、平成26年は24.3%となっている。エンゲル係数はドイツの統計学者クリスチャン・エルンスト・エンゲル(1821-1896)が1857年に発表した。
江戸時代、離婚を希望する女性が、そこで尼になれば夫と離縁することをみとめられた寺。かけこみ寺ともいう。当時は離婚の権利は夫だけがもっていたが、例外としてこのきまりがあった。最初はどの尼寺でもよかったが、のちに、東慶寺(神奈川県鎌倉市)と満徳寺(群馬県太田市)にかぎられ、尼になる期間は3年とされた。
映画「あした来る人」(1955)井上靖の新聞連載小説。月丘夢二、山村聰、三橋達也。
「赤い殺意」(1964)今村昌平監督 春川ますみ、露口茂
映画「恋と花火と観覧車」(1997)。砂本量監督、秋元康企画・脚本。砂本は2005年に47歳で他界している。中年男の長塚京三と若い女性、松嶋菜々子の恋愛模様をトレンディーに描く。松嶋は朝ドラでブレイクしたのち映画初主演でういういしい。大杉漣は今回もタクシー運転手のワンシーンだけ。翌年「HANA‐BI」でブレイクの兆し。
中江藤樹(1608-1648)は少年の頃から学問に心惹かれるようになった。そのころの学問というと、朱子学が主流であり、あえてそれに異を唱えるものはなかった。たが藤樹は37歳のとき王陽明の学問を知った。静かに瞑想して知る知ではなく、行動することによって知る知なのである。こうして彼は、陽明学に辿りつき、陽明学者として、わが国における最初の祖述者となった。
あるとき、藤樹は帰宅途中、数人の盗賊にとりかこまれた。彼らは「身ぐるみぬいでおいていけ」と藤樹にせまった。藤樹は少しもあわてず、しばらく考えていたが、ややあってから、「着物はわたすことができん。ここでわしが着物を渡してやると、おまえさんたちは、ますます図にのって悪事をかさねるにちがいない。よって、このわしが成敗してくれる」というやいなや、持っていた刀の柄に手をかけ、あわや抜かんというすがたをみたが、盗賊たちは、その人がかねてから人々に慕われている藤樹先生と知り、無礼をわびただけではなく、これを機縁に門人になったという。
また藤樹は結婚も30歳のときであるから、当時としてはずいぶんと晩婚だった。律義にも「三十にして室(妻)有り」という礼記にならったものであろう。しかも、この妻にした女性は高橋某の娘だが、これがもう二目とは見られぬほどのひどい醜女だった。母親のほうでも「おまえ、弟子の出入りも多いことだし、なにも好き好んで、あのようなひどい面相の女をそばに置くこともないではないか。いまからでも遅くはない。離縁しなさい」と申し出たほどだったが、日ごろ母親のいうことはなんでも聞く親孝行息子の藤樹であるが、このときばかりは頑として母親の言を容れなかった。「あんな醜女のどこがいいんだ」母親があきれるように言うと、「女は顔ではありませぬ」藤樹はきっぱりと答えた。「たしかに、あの女は見てくれは悪い。しかし、性格がとてもいいんです。非常に利口で、気くばりもきき、考え方にまちがいがありません」息子にこういわれては、それ以上母親も口出しはできない。ついに、嫁を追い出すことをあきらめた。この藤樹と13歳年下の妻は、はじめの4年間に3人の子を生んだ。いずれも育たず、5年目に産んだ男の子がようやく無事に成長した。これが嗣子の直伯。ついで9年目に次男の仲樹を産んだが、産後の肥立ちが悪かったのだろう、26歳の若さで他界した。藤樹もそれから2年後の慶安元年8月25日に世を去っている。享年41歳だった。(参考:歴史読本29-1、負目聖人「近江聖人のブス・ワイフ)
浦島太郎の話は室町時代の「御伽草子」にみられるが、もとの話は7世紀後半の「丹後国風土記」逸文(釈日本紀所引)に見える「水江浦島子(みずのえのうらのしまこ)である。ふつう龍宮城から帰った浦島太郎は玉手箱をあけると白髪の老人になり、ツルとなって天にのぼり、浦島明神になったとあるが、これらは中世以降から登場するもので、丹後風土記では死んだところで終わっている。浦の嶋子、亀姫などの相違もある。以下、梗概を記す。
雄略天皇の頃、浦の嶋子は漁に出たが不漁だった。ところが帰路、亀のような乗り物(五色の亀)と不思議な女に出会う。女は、「天上仙家」から来たという。女に誘われて、浦の嶋子はその五色の亀に乗るが、乗るとすぐに嶋子は、寝入ってしまう。目をさますと、海上の島が迫ってきた。そこは、これまで見たこともないきらびやかな宮殿と楼閣があった。中に入ると亀姫が現れ、嶋子はそこで亀姫と楽しい日々を送ることになる。そこには7人のスバル座星人と8人の牡牛座星人がいた。かれらはみな故郷に帰りたがっていた。そうこうしている内に、嶋子も故郷へ戻りたくなったので亀姫に暇乞いを願い出る。亀姫は、帰る嶋子に玉くしげを授ける。そして嶋子は、再び五色の亀に乗り、眠る内に故郷に着く。だが、そこには家もなく、知る人もいなかった。周りの人に事の次第を尋ねると、自分はだいたい300年も前に海で行方不明になっていたのである。なすすべを失った嶋子は、亀姫からもらった玉くしげを開ける。すると箱の中から、かぐわしい蘭のような体が、風雲に率いられて、蒼天にひるがえって飛んだ。そのあと、嶋子は、みるみる老人となり、その場で死んだ。
この説話は文章家の伊預部馬養(いよべのうまかい)が丹波国宰の時に採録したものと考えられている。
唐の詩人、杜甫の数ある詩のなかで、「春望」という五言律詩が日本人に最も愛唱されている。芭蕉は「奥の細道」平泉で「国破れて山河在り。城春にして草青みたり」を引用し、「夏草や 兵どもが夢の跡」の句を残した。芭蕉は杜甫の影響を受けることが著しい。自らの泊船堂を杜甫の浣花渓の草堂に模している。「野分して盥に雨をきく夜哉」の句は杜甫「茅屋為秋風所破歌」にインスパイアーされたものである。(参考:伊古田陽子「芭蕉における杜甫」お茶の水女子大学中国文学会報6 1987年)
「石川や浜の真砂はつくるとも 世に盗人の種はつきまじ」の辞世を残し、釜ゆでの刑に処せられた石川五右衛門。稗史では、伏見城の豊臣秀吉の寝所に忍び込んだが、仙石権兵衛に捕われたことになっている。江戸時代以降、浄瑠璃、歌舞伎でもてはやされた石川五右衛門であるが、歴史上では、全くその素性がわからない。当時の記録、「言経卿記」文禄3年(1594)8月24日の条には、京都三条橋南の川原で「盗人スリ、十人・子一人等釜ニテ煮ラレル」とういう記録がある。当時長崎に来ていたスペイン人のアヴィラ・ヒロンの「日本王国記」にも同様の記述がある。古浄瑠璃本「石川五右衛門」では次のような話がある。遠州浜松の真田蔵之介は石川五右衛門と名乗って進藤団右衛門らの陰謀と戦い、主家再興のために尽くす。しかし妻子もろとも捕らえられ洛中洛外を引き廻され、七条河原で釜ゆでの刑を受けることになる。五右衛門は息子五郎市とふたり釜にはいる。火を焚かれるにつれ、五右衛門は苦しむ6歳のわが子を膝の下に敷いて殺し、やがて自分も焼け死ぬ。それで民衆はみんな念仏を唱えたという。
フライパンは毎日もっともよく使用する家庭用調理器具の一つであろう。最近では蓋つきの深めのフランパンが売られていて、鍋の代用になるし、蒸すこともできる。退職してからは、どんな料理もフランパン一つで簡単につくって温かくて美味しいランチを食べている。ところでこんな便利なフライパンはいつ頃できたのだろう。
原始的な鍋の類ならば火の使用した旧石器時代からあることが推測できるが、鉄製の取っ手のある今日みられるようなフライパンとなると、ラテン文化の黄金時代が築かれた帝政ローマ期にさかのぼるだろう。ローマでは木や炭を燃料として鉄製の柄つき平鍋がポンペイから出土している。フライパンの語源はラテン語の「フライゲレ(油であげる)」と、「パティナ(浅いなべ)」をあわせたもの。
世界帝国をうちたてたオクタヴィアヌス以降の帝政ローマでは、貴族たちの屋敷で華美な宴会が催された。広いテーブルには各地の陶器やガラス器が並べられ、それに山海の珍味を盛ってパーティをすることが多くなった。古代におけるガラスの主な生産地はシリアとエジプトのアレクサンドリアであるが、やがてシドンがローマ領になると、ローマにガラス製法が移り、宙吹ガラスの製法も発明された。吹きガラスは造形が容易で、多量に生産できるため、ガラス器は家庭で実用化された。後1世紀ころにはガラス杯一個は銅銭1枚で買えたと伝えられる。食卓を飾る食器や調理器具の多くは古代ローマ時代に完成されたと言ってよい。
西暦79年8月24日、イタリアのヴェスビアス火山が突如噴火し、ポンペイ、ヘラクラネウム、スタビアなどの町が火山灰により埋没した。ドメニコ・フォンターナという建築家が1599年にポンペイを発見したが、本格的に発掘したのは1748年からである。(Ponpei,Domenico Fontana)
フランスでは、1560年以降、新旧両教徒の対立が国民に黒い陰影を投げかけた。フランスの新教運動は、すでにカルヴァンの出現とともに本格化し、フランソア1世につづくアンリ2世時代には、ユグノーと呼ばれる信者の数も全人口の10%に達するほどの成長をしめした。かれらは王権からは依然白眼視され、たえず監視を受け、たえず迫害をこうむった。にもかかわらず、新教徒の情熱と団結はますますかたく、かれらは同志間で秘密な細胞を形づくり、互いに礼拝や教義の研究をおこなう反面、相互の連絡を緊密にし、王権と旧教徒からの攻撃に対しても、自己の信条を守りぬくため自衛手段まで講じはじめた。
アンリ2世につづくフランソア2世(在位1559-1560)が、外戚で頑迷な旧教主義者であるギーズ公アンリ(1550-1588)の手車に乗り、さらに弾圧を強行しかねないのを見届けると、一部の新教貴族コリニ(1519-1572)らはアンボーワーズ城に参集し、国王奪還の陰謀を計画した。陰謀は不運にも中途で発覚し、事は成らなかった。が、事件を契機に、こんどはギーズ公アンリが王妃カトリーヌ・ド・メディシス(1519-1589)と結んで攻撃に転じ、1572年8月24日の聖バルテルミーの祭日にパリで集会中の新教徒に暴圧を加えた。これは聖バルテルミー(聖バーソロミュー)の虐殺といわれる事件で、ユグノーの指導者コリニら一千人が殺された。だが新教徒も当然これに呼応して反撃を試み、紛争はたちまち動乱と化して、各地に同胞相食む惨状を描きあげた。動乱のすすむにつれ、あまりの悲惨、あまりの非情と退廃に、『随想録』の作者モンテーニュは、「人間の正と不正がこれほど混同され、人間の正義がこれほど人間を無慈悲に、不寛容に、狂信的にしむけた世紀もない」と痛憤を発した。事実、内乱は型どおり、全フランスをニ陣営に両分し、宮廷・貴族層から都市・農村の住民まで、全人民を党派の情熱に包みいれ、全国土を戦雲の渦へまきこみ、1562年以後30年にもわたって継続されたのである。ギーズ公アンリに続いてフランス王アンリ3世が暗殺されてヴァロア朝は断絶し、ナヴァル王からアンリ4世(在位1589-1610)が即位した。(ブルボン朝の始祖)新教徒から旧教に改宗して宗教内乱の平定に努めたため、アンリ4世はナントの勅令を1598年に発した。これによってユグノーに信仰の自由が認められて、半世紀にわたるフランスの宗教戦争(ユグノー戦争)が収まった。(Massacre de la Saint Barthelemy)
小学生時代に覚えた海外の政治家の名前はいつまでも忘れないものだ。フランスのド・ゴール大統領、インドのネルー首相、インドネシアのスカルノ大統領、ガーナのエンクルマ大統領、西ドイツのアデナウアー。そして最も子どもたちに人気が高かったのがアラブの指導者ナセル大統領。「成せばなる。ナセルはアラブの大統領」と林家三平やハナ肇が言っていた。ナセルのことをエジプトの国民たちは「アル・ライース」ん呼んでいたそうだ。もともとは「親方」「大将」という意味である。アラブを統一できるのは彼しかいないと感じていたのだろう。エジプト革命やスエズ運河国有化という事件もあったが、世界史にその名前は確実に刻まれた。そしてエジプトはナセル、サダト、ムバラクの3人の国家元首の名前を覚えれば事足りる。ところが日本の学生は大変である。佐藤栄作から安倍晋三まで24人いる。女性問題で辞任した宇野宗佑は僅か2ヵ月だった。リオ五輪の閉会式。スタジアムの中央に置かれた土管の中から、スーパーマリオのコスプレの安倍晋三が現われ、衣裳を脱ぎスーツ姿に変わるという奇抜なパフォーマンスが世界を驚かした。日本の政治家がこのような形で世界の視聴者の前に姿をみせるというのは異例中の異例であろう。(Nasser)
漢の元帝の時代、後宮にはあまたの美女がいたが、王昭君はその清廉な人柄ゆえに賄賂など一切しない人だった。匈奴の呼韓邪は友好のため漢室の宮女を求めた。元帝は数多い後宮の女性の中から絵姿の醜い王昭君を選んで、その強要に応えることにした。別れに臨んで対面すると、画像とは似ても似つかない絶世の美女であり、人選の誤りを悔やんだが、すでに遅かった。賄賂を贈らなかった王昭君を偽って醜く描いた画家毛延寿は、帝の怒りに触れて首をはねられたが、王昭君もまた後に胡地において怨思の歌を作り、服毒自殺したと伝えられる。王昭君哀話は「西京雑記」にあるが、元代の馬致遠の「漢宮秋」により広く知られるようになった。ここでの王昭君は、匈奴におくられる途中、国境の大河に身をあげて死ぬことなっている。昭君悲話はかなりの部分は作り話であるが、偽りの絵筆を執ったとされる毛延寿の冤罪も哀れさを感じる。毛延寿の刑死の年が紀元前33年のことでクレオパトラの没年と同じ。王昭君の生没年を推定すると、紀元前53年から紀元前33年とみられる。
「人間失格」「斜陽」「津軽」など死後68 年を経た今でも読み継がれ、日本近代文学作家の中でダントツの人気がある太宰治だが、昭和23 年6月13日、山崎富栄(画像)という戦争未亡人と玉川上水に入水自殺した。山崎富栄(1919-1948)は、日本で最初の美容学校の創立者である山崎晴弘、信子夫妻の末娘として、大正8年9月東京市本郷区東竹町に生まれた。小学校を優等の成績で卒業後、京華高女に進みのち錦秋高女に転じて同校卒業。その後もYWCAに進学して聖書、英語、演劇の研究に励み、さらに慶応義塾大学の聴講生として学ぶかたわら、銀座松屋前の美容院の経営を任されていた。
昭和19年12月、三井物産本社の飯田富美女史の世話で、同社員・奥名修一と結婚したが、わずか二週間後に修一は単身マニラに赴任となり、そのまま現地入隊して戦闘に参加、激戦のさなか生死不明になってしまった。修一を羽田空港に身送ったあと、銀座の美容院が罹災し、お茶の水美容学校の講師として父母を援けていた富栄は、昭和20年の東京大空襲で学校が全焼してしまい、やむなく家族と共に滋賀県八日市町へ疎開した。
昭和21年、富栄は義姉と一緒に鎌倉に戻って美容院を経営する。その年の秋、美容学校を再建するまで一時的に三鷹駅前の美容院に勤めることになり、下連雀の野川家に身を寄せた。敗戦直前、甲府から太宰治が、三鷹下連雀の旧居に戻ってきたのも、富栄が鎌倉から三鷹に移ったのと、ほぼ同じ頃であった。
山崎富栄の住む野川家は、太宰の仕事場である小料理屋「千草」と、ほぼ正面に向かい合っていた。昭和22年3月27日の夜、三鷹駅前の屋台で、運命的な二人は出会う。
その頃、太宰は太田静子の日記をもとに「斜陽」を書き初めていたのだが、静子の存在を出産まぢかの妻に知られ、もはや文通さえ困難になりつつあった。夏も終わりの頃から太宰の病状は悪化の一途を辿り、富栄は勤めを辞めて看病と秘書の仕事に専念することになった。この頃より、仕事部屋は富栄の部屋に移された。秋、静子に女児が誕生し、太宰は「治子」と命名した。養育費の送金は富栄がした。翌23年の冬、たび重なる喀血に死期近しとさとった太宰は、これまでの一切を傾けて「如是我聞」「人間失格」を書き上げる。6月13日の夜、二人は小雨降りしきる玉川上水に入水して心中する。
病気と闘いながらの太宰の晩年の名作誕生の陰には、太宰治をめぐる三人の女性、津島美知子・太田静子・山崎富栄のそれぞれの愛があった。
参考文献:安藤宏「太宰治の恍惚と不安」国文学 平成元年三月号臨時増刊号
「太宰治氏の死について」座談会 椎名麟三、福田恒存、梅崎春生、楢崎勤、林芙美子、伊藤整、豊田三郎 「文芸時代1巻8号」1948年8月
「太宰治氏の死について」座談会 林芙美子、福田恒存、梅崎春生、伊藤整、豊田三郎、椎名麟三 「進路」1948年8月
辰野隆「太宰治の死について」(『凡愚問答』所収) 1955年
からのすしょうこうぐん。エンプティ・ネスト・シンドローム。子どもが家庭から巣立って夫婦だけになった状態(空の巣)から生じる症状で、母親役割を中心に生きてきた女性が子どもという愛情対象を喪失して無気力になったり、アルコール依存症になったりすること。40代から50代の女性によく見られる抑うつ症状。寿命の延びや子ども数の減少などによってライフサイクルにおける子育て期間が短縮化し、それ以降の人生が長くなったことを背景にしている。子育て中心に生きてきた女性が新しい趣味や仕事などの生きがいをもちにくい現実がある。英語 empty-nest syndomeの訳語で1990年代以降、日本でも使われるようになった。
参考:関谷透『お母さん、もうがまんできない!』 プラネット出版 1990年
女優はいつまでも綺麗で華やかな印象がある。例えば岩下志麻。とても75歳には見えない。同じ年の倍賞千恵子は歳とともに劣化して痩せてひからびた感じがする。童顔とかベビー・フェイスといわれた人にはこのタイプが多い。国際派女優ジュヌヴィエーヴ・ビジョルド(74歳)の最近の画像をみると完全な老婆である。とくに病気をしたわけでもなく、自然に年をとっていくのだけれど、どうしてこうなっちゃの、といいたくなる。やはり「まぼろしの市街戦」や「1000日のアン」の印象があるからか。30代以降はサイコ、スリラーのヒロインを演じていたが、近年は脇役の老婆として活躍している。60年代グラマーガールとして活躍したラクウェル・ウェルチもとても75歳には見えず、驚異の美貌を保ち続けている。
歴史に伝説はつきものである。日本には徐福伝説がある。秦始皇帝が不老不死の仙薬を求めて、徐福という方士を東方に使わした。日本各地に徐福漂流地といわれる伝説が残っている。いずれも信憑性はなく、ほとんど江戸時代に作られたものであろう。しかし西洋にあるトロイの木馬やノアの箱舟、大洪水を伝説として笑うわけにはいかない。シュリーマンは子供の頃に聞いた話を事実として、考古学者となってトロイの町を立証したのである。聖書に書かれていることは伝説ではなく、真実であるとする人は多い。イスラエル民族の指導者モーセはかつては伝説上の人物で実際にはいなかったという意見もあったが、今では実在したとする説が有力だという。だが彼の存在を証明する遺物が発見されたわけではない。おそらく西洋人のアイデンティテーに関わる問題が介在するのであろう。
だがキリスト教と関係のない、アルキメデスが巨大な鏡を使ってローマの軍船を焼いたとか、ローマ皇帝の残虐な話とか有名人の逸話に関してはどこの国にも誇大なつくり話とみられるようである。日本では源義経が衣川を脱出して大陸に渡って、ジンギスカンになったという話が有名である。一休さんにも奇矯な逸話が多い。屏風の絵の中のトラ退治や正月に髑髏をぶらさげて歩いた話などである。むしろ晩年に盲目の美人を溺愛したという話が本当かもしれない。左甚五郎という名人にはとくに逸話が多い。右腕がなかったとか、トラに恋した甚五郎が、その姿を人形にして作ったら動いたという話など。最近では歴史ドラマの影響が大きい。高杉晋作は高下駄に着流し姿で戦場で指揮をとったというイメージが定着し、「おもしろくなき世をおもしろく」と三味線を弾きながら、肺結核で血を吐きながら戦うという話になっている。数年前の「新撰組」では近藤勇は大口でゲンコツを口に入れるポーズをとっていた。映像で見る坂本龍馬や秋山真之もあくまでフィクションなのである。
「義経=ジンギス汗新証拠」 鹿島昇 新国民社 1987
耳が三つの漢字を何と読む。「聶崇岐」という名前の歴史学者がいる。「じょうすうき、1903年から1962年」。「聶」は「ことばを口中に含んで小さな声ではなす。ひそひそとささやく」の意味。読み方「ショウ、ジョウ」。「巫山戯る」、「ふざける」と読む。巫山は重慶市巫山県と湖北省の境にある名山。
福島県出身の芥川賞作家といえば三春町の玄侑宗久が知られているが、中山義秀は明治33年、福島県岩瀬郡大屋村字下小屋(現・白河市)生れで、昭和13年「厚物咲」で受賞、福島県初の芥川賞作家である。人間の孤独の寂寞の底をくぐり、人生の悲苦に立ちむかう姿を描いて絶妙である。真杉静枝(1901-1955)と昭和18年に結婚したが3年後に離婚。戦後は戦国武将や戦国史記に筆を致し、数多く発表した。代表作「テニヤンの末日」「魔谷」「少年死刑囚」「散りゆく花の末に」「古老譚」「闇に浮く睡蓮」「霧にゆらぐ藤浪」「寂光の人」「高野詣」「月魄」「原田甲斐」「寿永の春」「春雨秋雨」「天保の妖怪」「相学奇談」「平手造酒」「根岸菟角」「北条早雲」「松永弾正」「物ぐるい」「戦国史記」、中山義秀(河上徹太郎)「現代日本文学5 中山義秀集」筑摩書房。(8月19日)
1968年のこの日、若山喜志子の80歳の忌日。
白玉の歯にしみとほる秋の夜の
酒はしづかに飲むべかりけり
(白珠のような美しい歯にしみとおる酒、秋の夜の灯の下でくむ酒は、しずかにひとりしみじみと味わいながら飲むのがよいものだ)
若山牧水(1885-1928)、26歳の作である。前田夕暮はこの歌に対して、「彼の行くところ山河あり、山河あるところ彼と酒とがあった。酒によって彼は彼の悲しみを深め、彼の純情一路の心境を研いた。秋の夜の孤独感が酒によって如何に慰められているか、冷たい響きと匂とを持っているこの歌によく流露されている」(「現代短歌全集」月報「若山牧水の歌」)といっている。
牧水は大正5、6年ごろになると、人生的な詠風から、旅を中心とした自然詠や、日常生活の淡い感情を歌った歌などが多くなり、自然歌人としての道に徹してゆくことになる。酒と旅のうちに44歳の生涯をつねに支えたのは妻の若山喜志子(1888-1968)であった。
明治44年7月、若山牧水は、歌人の太田水穂(1876-1955)方で、のちに妻となる太田喜志子と出会う。喜志子は明治21年5月28日、長野県東筑摩郡広丘村吉田に太田清人の四女として生まれた。喜志子も歌人で、「信濃毎日新聞」の選者だった太田水穂を頼って上京し、水穂の家に住み込んでいるところへ、牧水の訪問を受けた。
このあと牧水は、旅先でもどこでも喜志子に近づき、手紙を送り、過去の恋愛や秘すべき病のことまで、洗いざらい打ち明けた。長男の旅人が「それでよく結婚したね」と言うと、母は「あの澄んだ瞳の持ち主に悪い人のいるはずはないと思ったから」と答えたという。(8月19日)
杜甫の有名な詩「登高」の一節、「萬里悲秋常作客 百年多病獨登臺」。「都を万里も離れて悲しい秋に、わたしは旅人の身、生涯病気がちの体で、今日はただ一人高台に登っている」の意味。旧暦九月九日には、小高い所に登り、邪悪から身を守り健康を祈るという風習があった。この詩を作ったとき、杜甫は56歳で巫山に登り、その3年後には病没している。巫山は重慶にある名山で、壮健でないと登れない。詩中に「百年多病」とあるが、杜甫にはどのような持病があったのだろうか。当時、杜甫は風痺(関節炎)と喘息があったが、持病の消渇(しょうかつ)のため数年後、歩行も不自由になる。消渇とは現在の糖尿病のことである。
ドラマ「空よ雲よ息子たちよ」を見る。太平洋戦争末期、南方諸島の日本軍が次々に玉砕し、本土決戦が叫ばれていた頃、鹿児島県の知覧飛行場に特攻隊として派遣された若者たちと残された妻や家族の姿を描く。知覧には「富屋」と「永久」という2軒の旅館があり、それぞれの女将、鳥浜とめ(渡辺美佐子)と吉沢アイ(吉永小百合)が、出撃を前にした隊員たちの世話をしていた。山上少尉の妻、古手川祐子は当時21歳と若く、悲劇を前にして精神を病んでおり、飛行場まで出かけて夫に縋りつく話が一番印象深い。三浦友和の話は安部正也がモデルなのであろうか。
知覧特攻平和会館が1987年から開館される。当時の戦闘機よりも、隊員たちの遺影と遺書に時間をかけて立ち止まる人が多い。1036柱の特高隊員の遺影が紹介されている。近年は「永遠の0」で来館者数が増えているという。(参考:「若き特攻隊員と太平洋戦争」森岡清美著 吉川弘文館)
ローマとミラノのほぼ中間の位置にルネサンスの発祥地フィレンツェがある。市街の中央にはアルノ川が流れ、ポル・サンタ・マリア街とグッチャルディ二街を結ぶポンテ・ヴェッキオの古橋が有名である。河川の氾濫で何度か建てなおされており、 1220年にポンテ・ヴェッキオ(新しい橋)と呼ばれるようになった。現在に残るその橋は、1345年タッデオ・ガッディまたはネリ・ディ・フィオラヴァンテ作ということであるが定かではない。橋の両岸には2階建ての貴金属商の店舗付き住居が並び、その片側はパラッツォ・ヴェッキヨからパラッツォ・ピッティに至る渡り廊下(コリドイオ)が架けられている。桂冠詩人ダンテが、この橋のたもとでべァトリーチェを見染めたという話は、よく知られているが確証はない。アルノ川の傍らには、「神曲」の一文が記された石碑がある。(タッデオ・ガッデー Taddeo Gaddi 1290-1366)
鄭成功(1624-1662)は父は明人鄭芝龍、母は日本人、田川七左衛門の娘。平戸に生まれた。父は福建省安海を本拠にした海賊だった。時代は明末清初で、鄭芝龍は降清したが、子の成功は抗清復明の決意をいっそうかため、厦門、金門をうばって根拠地にした。そして1661年には25000の兵をひきいてオランダ人の占拠していた台湾を攻略約した。鄭はなぜ台湾を選んだのだろうか。台湾海峡を渡るには、海流が速く高度な航海術がいる。つまり中国から台湾を攻めることはできないが、台湾からは鄭らの高い航海術があれば攻めることができるので根拠地としてもつともふさわしい場所だったのだ。鄭成功の台湾占拠は、明らかにこの地を大陸進行の拠点とするものであったが、実現することなく3ヶ月後、急死した。38歳の若さであった。(寺尾善雄「明末の風雲児鄭成功」 東方書店 1986)
リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)の歌劇「ニーベルングの指輪」の初演が1876年8月13日からバイロイト劇場で始まった。ルードヴィヒ2世、ドイツ皇帝ウィルヘルム1世、ブラジル皇帝ペドロ2世、フランツ・リスト、アントン・ブルックナー、ピョートル・チャイコフスキーなどヨーロッパ中から名士が集まり、音楽祭は盛大に行なわれた。
フリードリッヒ・ニーチェ(1844-1900)もこの祝祭劇に大きな期待をよせて劇場におもむいたが、ニーチェがそこで見たものは、大衆に迎合してその好意を買おうとする堕落した芸術家の姿であった。ニーチェは悲しい幻滅を感じてワーグナーから去った。
しかしニーチェは若い頃ワーグナーとの交際から決定的な影響を与えられたことを晩年まで感謝していた。発狂する直前に書いた自伝「この人を見よ」の中で次のように書いている。
「わたしの生活の保養について語っているこの場所で、わたしをもっとも深く、また心から慰めてくれたものに感謝するために、わたしは一言する必要がある。それは疑いもなく、リヒアルト・ワーグナーとの親密な交わりであった。わたしは、これ以外の人間関係は無くしてもかまわないが、トリプシェンで過ごしたあの、親愛と快活と崇高な日々、あの深い瞬間の日々だけは、どんなことがあってもわたしの生活から取り去らせはしない。他の人々がワーグナーとの交わりで何を経験しようと、わたしの知るところではない。だがわたしどもの天空には、一片の雲すらもかすめ過ぎたことはなかったのである」(参考:工藤綏夫「ニーチェ」) Richard Wagner,Ring of the Nibelungs
最近の洋画界は原題をそのまま公開することが一般的なようである。ロバート・ダウニー・ジュニアの「シビル・ウォー」、ジェラルド・バトラーの「エンド・オブ・キングダム」、シャーリーズ・セロンの「スノーホワイト」、マット・デーモンの「ジェイソン・ボーン」、レオナルド・ディカプリオの「レヴェナント」。記憶するのにちょっと一苦労だ。むかしは日本で封切りされるとき、ほとんど邦題がつけられた。たいては原題を踏襲しているが、なかには変えている映画もある。「駅馬車」は名訳として知られている。ヒッチコックの「断崖」(1941)の原題はサスピション。つまり「疑惑」だが、邦題は「断崖」と変えられた。夫に対して疑惑の念に取り憑かれた妻の心理を描いた作品で、邦題のほうがサスペンス映画に相応しい雰囲気がでている。クロード・ルルーシュ監督の「パリのめぐり逢い」(1967)。不倫の話しだが、原題は「Vivre Pour Vivre」で直訳すれば、「生きるための生活」。最近公開の映画の中での名訳は、シャーロット・ランブリングの「さざなみ」。原題は45Years。結婚45周年を迎えた夫婦にかすかに起こる嫉妬の「さざなみ」が、静かに波紋を広げていく。
1955年のこの日、トーマス・マンは80歳で没した。マンはゲーテ、ショーペンハウエル、ニーチェ、ワーグナーの影響を受けた現代の叙事詩人ともいうべき作家で、人生と芸術に関する多くの問題を呈示した。代表作に「ヴェニスに死す」「ブッテンブローク家の人々」「ヨーゼフとその兄弟たち」などがある。世界文学では、ドイツ語で「ビルドゥングス・ロマンス Bildungsroman」というジャンルがある。日本語では適当な訳語がないため、一般には「教養小説」「人間形成小説」という語が使用されている。
若い主人公が自己をとりまく外的世界と戦ったり、その影響をうけたりしながら、固有の人格を完成し、一定の生活理念を形成していく過程を描いていく。ゲーテの「ウィルヘルム・マイスター」、ケラーの「緑のハインリッヒ」、ヘッセの「ペーター・カーメンツィント」、トーマス・マンの「魔の山」などが典型的な作品である。新しくは、社会の底辺に差別されて生きることを宿命として受け入れていた無教養な黒人女性が目覚め、成長していく姿を描いた「唇のふるえ」(A・ウォーカー)も、やや通俗ではあるがこのジャンルに入れることができるであろう。
日本では、志賀直哉「暗夜行路」、島崎藤村「夜明け前」、下村湖人「次郎物語」、宮本百合子「伸子」、芹澤光治良「人間の運命」などがあげられる。(8月12日)
哲学者ライプニッツは、それ以上分割できない究極の実体として「モナド」を想定した。物質界の原子アトムではなく、精神的な単子である。原子との違いは、モナドは非空間的でその内部に多様な「表象」と、「欲求」をもつ精神的な存在である。ライプニッツの有名なことばに「おなじ町でも・・・見晴らしの数だけ町がある」がある。野球場で、座席を一つずつずらしていくと、眺めが少しずつ変わっていく。同じ試合なのに、異なる視点の数の分だけ、異なる試合を観ることができる。無数のモナドがそのようにして、たがいに他のすべてのモナドを映し出す。しかしその「無限」は、同時に「一」なのである。
犬を愛した5代将軍綱吉が「生類憐れみの令」を発布したのは1687年のこと。以来この法令は何回となく出され、1707年の8月11日の法令には、どじょう、うなぎ、鳥を扱う商売なども禁止された。蒲焼や焼き鳥まで喰えなくなっては不満もでるだろう。2年後に生類憐れみの令は廃止された。でも動物愛護の精神はこの風土に根づいている。近ごろ、エアコン付きの犬小屋が発売された。お値段は49,800円。1ヶ月つけっぱなしでも月額1000円程度の電気代だという。犬は全身が毛で覆われているうえ、四足歩行で地面に近いため、アスファルトからの放射熱を受けやすい。また汗腺がないため汗で体温を調節できず、熱中症にかかりやすいとされる。
1822年のこの日、スペインから独立した。エクアドル(Equator)とは「赤道」のこと。地球の南北両極から90度を隔てた地域。緯度0度。アフリカ大陸の中西岸に、赤道ギニア共和国という国があるが、赤道より約100km北に位置しており、領域内に赤道は通っていない。ケニアの首都ナイロビもガボンの首都リーブルビルも赤道から少し距離がある。実際に赤道が通っているのは、南米エクアドルの首都キト、ウガンダの首都カンバラ郊外には赤道が通っている。小さな村ではカリマンタン島のポンティアナク、バリ島のウブドゥなど。
ギニア湾にあるサントメ島、プリンシペ島などからなる共和国には赤道が通っている。本島サントメではなく、南にある周囲12㎞ほどの小島ロラス島である。ポルトガル海軍のガーゴ・コーチニョ(1869-1959)がロラス島に赤道が通っていることを発見した。(8月10日)
南米の国エクアドルはウィキリークス創始者ジュリアン・アサンジの亡命を認めると発表。2010年に公表された米外交公電話に米国の駐エクアドル大使によるエクアドルに批判的な公電があったのが発端となり、コレア大統領がアサンジを称賛しているらしい。いまネットでエクアドルを検索するとこんな美女がでてくる。ロンドン五輪のサポーター、いまや世界の恋人。(Julian Assange)
現在開催中のリオ五輪の参加国は207ヵ国の国と地域である。しかしオリンピックの参加国は香港や難民などのチームも参加できるし、バチカン市国などは参加していないので、207が世界の国の数ではない。外務省による日本が承認している国は194ヵ国である。つまり、プラス日本で、195ヵ国。これには朝鮮民主主義人民共和国と中華民国が入っていないので197ヵ国となる。ほかにも世界には国際的に承認されていない国やグレーゾーンの地域も多い。世界の国と地域はいくつあるのだろうか。数え方により異なるが、ボーイスカウトによると「現在、世界216の国と地域に広がる」とあるのが一つの目安となっている。世界の人口は2016年現在でおよそ73億4386万人。
明治初期からの世界に関する地誌・地理書、歴史書などを集める。
地球萬国山海與地全図説 赤水長玄珠
萬国海上信号書 海軍省 1877
改正萬国地誌略図一覧 伊東正貫編 1877
萬国史略画入字引 乙葉宗兵衛編 1877
万国地誌略2 師範学校編 1877
古今萬国沿革一覧図 飯田定編 1878
小学用地図 萬国地誌詳図 三村房次郎 梅楓交枝軒 1884
世界文明史 帝国百科全書 高山樗牛 博文館 1898
世界地理教育図冊 地図出版社 19XX
通俗世界地理 渋江保 博文館 1901
二十年来経済世界ノ景況 田尻稲次郎 専修学校 1901
世界文化史大系 全12冊 ウェルズ著 北川三郎訳 大鐙閣 1927-1928
世界地理風俗大系1(支那1) 仲摩照久編 新光社 1931
世界地理風俗大系2(支那2) 仲摩照久編 新光社 1931
世界地理風俗大系6(中央アジア篇) 改造社編 新光社 1931
世界地理風俗大系 誠文堂新光社 1962-1965
世界史論講 坂口昂 岩波書店 1931
世界人類史物語 上下 岩波文庫 コフマン著 鈴木厚訳 岩波書店 1934
世界文化史大系 鈴木艮編 誠文堂新光社 1937
世界精神史講座 全8巻 理想社出版部 1940-1941
世界文明史 博文館文庫 高山樗牛 博文館 1942
世界の歴史 1 西洋 毎日新聞社 1949
世界の歴史 3 東洋 飯塚浩二ほか 毎日新聞社 1950
世界通史 下 瀬川秀雄 冨山房 1953
世界史要 島田正郎 三和書房 1953
世界史要説 尾鍋輝彦 三省堂 1956
世界史要図集 前川貞次郎・池田誠編 ミネルヴァ書房 1956
現代地理学大系 古今書院 1958-1966
世界人類史物語 上下 新潮文庫 コフマン著 神近市子訳 新潮社 1958
世界短篇文学全集 全17冊 奥野信太郎編 集英社 1962-1964
世界の文化地理 講談社 1963-1964
世界史用語集 全国歴史教育研究協議会編 山川出版社 1965
世界人物事典 旺文社編 旺文社 1967
世界地誌ゼミナール 全8冊 大明堂 1971-1985
世界宗教史叢書 全12巻 山川出版社 1977-1987
中国の歴史 全15巻 陳舜臣 平凡社 1980-1983
世界帝王系図集 増補版 下津清太郎編 近藤出版社 1987
春風のテープもつれる別れたのしく
出てゆく汽船の、入りくる汽船の、うららかな水平線
種田山頭火
ドラが鳴って、タラップは外され、船と岸壁を結ぶロープも解かれ、船が動き出す。見送る人と見送られる人との間には、色とりどりの紙テープで結ばれている。やがて、船は港を離れ、テープはプチっと切れていく。この別れのテープが考案されたのは、今からおよそ100年前の1915年のこと。サンフランシスコで博覧会が開かれ、日本から出品された包装用の紙が大量に売れ残った。サンフランシスコで近江屋商店というデパートを経営していた日本人移民の森野庄吉は、余った紙で、船出のテープにするアイデアを思いつく。これがサンフランシスコで大当たりして、またたくまに世界中の港で「別れのテープ」が習慣として広まっていった。(参考:杉浦昭典「海の慣習と伝説」 1983年)
1875年のこの日、アンデルセンの忌日。ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805-1875)は、デンマークのフェーン島のオーデンセの貧しい靴屋の子として生まれた。父はナポレオン崇拝家で軍隊に入るが、皇帝の没落で心身ともに衰弱して死ぬ。14歳の時、コペンハーゲンに出て、学校に行きながら作家として出発する。「即興詩人」の世界的な成功によって穏やかな晩年であったが、恋多き人にもかかわらず生涯独身で、彼の恋はなかなか実ることはなかった。とび色の瞳をした大学の友人の妹。庇護者コリンの末娘ルイセ・コリン。エールステズの娘。ある若い伯爵令嬢。すべて失恋に終わっている。彼の自伝で特筆大書されているのがスウェーデンの歌姫イェニイ・リンド。むかしダニー・ケイのミュージカル映画「アンデルセン物語」(1952年)という映画があったが、ジジ・ジャンメールが扮するバレリーナはイェニイ・リンドをモデルにしているようだ。ハンスとリンドとの恋は実らなかったが、ふたりの友情はその後も永く続いたそうだ。(Andersen,8月4日)
Man's personality is,after all,the final key to everything he wants to attain in the world .
人がらは、けっきょく、この世で得たいと思うすべてのものを得る最後の鍵だ。
A cold climate is suitable for the growing of apples.
寒い気候はりんごの栽培に適する
1943年8月2日、ソロモン諸島沖のブランケット海峡を14隻の魚雷艇といっしよに哨戒中の魚雷艇109号は、日本海軍の駆逐艦天霧(艦長・花見弘平)と衝突した。駆逐艦が魚雷艇を真っ二つにしたとき、やせた艇長、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ中尉(1917-1963)は、操縦席の壁にたたきつけられた。「殺されるとは、こんな感じか」と彼は思った。
燃料タンクが引火して火に包まれた魚雷艇は、沈没した。13人の乗組員のうち、2名が戦死、1名が重傷を負った。生存者たちは安全地帯へ泳いで脱出しようとした。ケネディは火傷を負った乗組員の救命胴衣のひもを、歯で噛みしめながら彼を引っぱっていった。脚を負傷したマサチュセッツ州出身の乗組員が、もうこれ以上泳げない、といったとき、ケネディはどなり返した。「ボストンっ子にしちゃ、こんなところで、まったく大した恥さらし者だよ、お前は!」その男はついに頑張り通した。4時間後、11名の乗組員はプラム・プディング島にたどり着いた。彼らにとって幸運なことには、近くのコロンバンガラ島にいたオーストラリア軍の沿岸監視隊員アーサー・レジナルド・エヴァンズ中尉が、魚雷艇が撃沈された夜、海峡に炎が上がるのを見ていた。彼が近くの島の監視隊員に無線で連絡すると、109号艇が行方不明であることが判明した。彼の部下のふたりの斥候が、島に泳ぎついた生存者たちを発見し、その救助に魚雷艇が差し向けられた。救援の157号艇が現れて、6日間死の苦しみを味わった乗組員たちを収容した。食料を与えられたケネディは、「有り難う、いまヤシの実を食べたばっかりだよ」としかめ面で答えた。結局、12人10人の命を救ったケネディは、新聞で大きく報道され、太平洋戦争の英雄となった。
There was a violent earthquake last night.
ゆうべ強い地震があった
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