入り鉄砲に出女
江戸時代の全国の関所の数は一定しないが、元和2(1616)年に関所に条目が発布され、32カ所くらいは存在した。幕末の頃には46もあった。「入鉄砲に出女」 江戸に定住すべき大名の妻子が国もとに帰る(出女)と、逆に鉄砲が江戸に搬入される(入鉄砲)を厳禁したことを指すことばだが、とくに出女を厳重に取り調べた。武家の女だけではなく、一般女性まで「女改め」というしきたりがあり、「人見女」または「検見の婆」とよばれる役柄が設けられた。箱根の関所は、小田原藩士の妻女たちが「検見の婆」の役をつとめていたが、時代とともに、領内の百姓女房があたるようになり、彼女らは、職権をカサに、眼にあまる人泣かせをやったという。しぜん、それを切り抜けるには賄賂が必要であり、賄賂の額しだいでかなりの手心を加えたようである。関所には無気味な武器・捕獲道具が揃えてあり、女改めでは髪の毛まで解きほぐしたという。赤穂浪士の一人、矢頭右衛門七が母親をともなって江戸に向ったが、新居の関で母の手形がないのに気付き、あらためて大坂まで母を預けに引き返したという挿話は、関所のきびしさを物語っている。
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