道は近きにあり
ある僧が趙州和尚に向かって「如何なるか是の道」と問うたところ、趙州が答えていうには「墻外底」(墻の外を見よ)、おぬしそこを通って来たろう、あれが即ち道じゃ、ということであった。それで僧が改めて「這箇の道を問わず」いや、私はそんな道を尋ねているのではありません、大道を尋ねておるのですというと、趙州曰く、「大道、長安に通る」そうか、大道なら長安に通っておるよ、と言ったという話がある。
つまり、「春は何処、春は何処」と草鞋ばきで一日中あちこち尋ねまわったが、一向に花にもめぐり会わない。それで疲れきった足を引きずってわが家にかえってみると、ふとよい香りがして、見れば庭の梅の木に花が咲いていた。春はまさにここにあったのである。
「道は近きにあり、然るにこれを遠きに求む」孟子離婁上「道在邇而求諸遠」人が追い求める理想は手近な日常生活にこそあるものだが、人は理想が現在とはまったく遠く離れたところにあると思い込み、結果遠回りしてしまう。この逸話の趙州和尚とは唐末の禅僧、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)のこと。メーテルリンクの劇「青い鳥」も人間は幸福を遠くに求めたがるが、それは実はわれわれの身辺にあることを述べている。
« 春日局(異説日本史) | トップページ | 日ハム、広島独走 »
「ことば」カテゴリの記事
- 四万十川の謎(2023.01.24)
- 「怒る時のコラってなに?」雑学365日(2022.12.24)
- 「胸キュン」雑学365日(2022.12.22)
- 気づけば今年もあとわずかとなった(2022.12.16)
- 窮すれば通ず(2022.09.04)
コメント