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2016年7月13日 (水)

エムス電報事件

    ドイツをつねに分裂状態に置くことはフランスの伝統的政策であったが、ナポレオン3世がビスマルクの巧妙な外交政策に乗ぜられて普墺戦争に干渉の機を失したことは、大いにかれの威信をきずつけた。同時に、これ以上プロシアの強大化を許すことはフランスの安全をおびやかすものであったから、ナポレオン3世は、プロシアと対立する南ドイツ諸邦と結ぶために積極的に働きかけた。いっぽうビスマルクは、フランスとの衝突の不可避を予期して軍備の拡張を進め、ナポレオン3世の領土的野心を暴露してドイツ国民の敵愾心をあおり、秘密のうちに南ドイツ諸邦と攻守同盟を結んでフランスに対抗した。こうしてドイツ統一の完成にあたり、プロシア・フランスの決戦はさけられない情勢となったが、衝突の直接の動機となったのは、スペイン王位継承問題であった。

    1868年にスペインに革命が起こり、新政府はプロシア王の一族レオポルド親王を国王に立てようとした(1870)。これに対しフランスの世論は大いに沸騰し、ナポレオン3世は欧州の勢力均衡を破壊するという理由で、プロシア王に強硬な反対意見を通告した。1870年7月13日、ビスマルクは、西ドイツの温泉場エムスにおけるプロシア王とフランス大使の会見を報じた電文を、フランス大使が不当な要求をしたかのように内容をゆがめて発表した。この有名なエムス電報事件という策略により、大いにドイツ国民は激昂し、対仏戦争に結集させることに成功した。同時にフランス人の敵愾心は爆発し、議会は1870年7月17日プロシアに宣戦を布告した。普仏戦争(1870-71)はけっきょく外交工作と軍備に立ち遅れたフランスの大敗に終った。(参考:吉岡力「世界史の研究」)

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