学研アンカー英作文辞典一日一文
as~as ever 相変わらず~だ
She is as beautiful as ever.
as usual、as always、as everの3つの表現を、状況に応じて適切に使う
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as~as ever 相変わらず~だ
She is as beautiful as ever.
as usual、as always、as everの3つの表現を、状況に応じて適切に使う
徳島の盆踊りで、全国的に知られる「阿波踊り」。踊るあほうに見るあほう、同じあほうなら踊らにゃ損だよ、とうたいながら踊り狂うので、「あほう踊り」ともいう。起源は阿波藩祖蜂須賀家政がかまえたとき、その築城の祝いとして酒をふるまい、町民が喜んで踊ったのが始まりだという。また一説によると息子の至鎮(よししげ)ともいわれる。
この盆踊りの特長は、幾十人もの集団が、三味線、笛、太鼓、尺八などではやし、歌いながら練り歩くことで、手足を交互に力強く前に出していく踊りは、行進の芸という古い念仏踊りの型を残したものといわれる。
問1.パンを作るときの小麦粉。適しているのは①薄力粉、②強力粉
問2.ツタンカーメン王の父の名は?①アメンホテプ4世②ラムセス3世
問3.安徳天皇の母の名は?①滋子②徳子
問4.1933年に京都大学でおきた学問思想弾圧事件は?①森戸事件②滝川事件
問5.京都府宇治市にある黄檗山萬福寺の開山は?①白隠②隠元
問6.松田聖子が初めてオリコンヒットチャートで1位になった曲は?①風は秋色②風立ちぬ
問7.現在、日本で最も多く生産されているリンゴは?①ふじ②紅玉
問8.南北戦争が始まったときカリフォルニア州は南軍、北軍のどちらに属していたのか?①南軍②北軍
問9.スタンダールの「赤と黒」。赤は何を表している。①軍隊②僧侶
問10.本棚(ほんだな)。この読み方は?①重箱読み②湯桶読み
問11.寒流はどっち?①親潮②黒潮
問12.ゴッホとゴーギャン、どっちが年上?①ゴッホ②ゴーギャン
問13.ニューヨークの自由の女神像。松明を持っているのは?①右手②左手
問14.三倉茉奈と佳奈。2012年に結婚したのはどっち?①茉奈②佳奈
問15.「金のガチョウ」という話が含まれているのはどっち?①グリム童話②アンデルセン童話
問16.豊臣秀吉が没したときの居城はどっち?①大坂城②伏見城
問17.ゴーギャンが没したときに居住した島はどっち?①タヒチ島煮②ヒバオア島
問18。アメリカ歴代大統領、どっちが多い?①民主党②共和党
[解答]問1②、問2①、問3②、問4②、問5②、問6①、問7①、問8②、問9①、問10①、問11①、問12①、問13①、問14②、問15①、問16②、問17②、問18②。
1890年7月27日、ゴッホが夕刻ピストル自殺を図った。29日、テオに見守られながら息を引き取る。37歳。自殺の原因はいろいろ考えられるが本当の理由はわからない。ただその数ヶ月前に描かれたゴッホの一枚の絵のモデルの女性マルグリット・ガシェについて調べてみたい。
医師ガシェの娘マルグリット(あるいはマルガリット)である。ピアノをひく女性は未婚であるが、あまり若い娘のようにはみえない。30歳前後であろうか。ゴッホは医師ガシェと親しくなり、尊敬していたようである。ガシェの家にも出入りし、娘をモデルにして絵を描いているので、ゴッホとマルグリットは親しく会話もしたであろう。白にピンクの服と黒いコントラスト、装飾的な背景の処理などみると、とても数ヶ月後に自殺する人の絵とは思えない、穏やかで平和な家庭の気分が伝わってくる。ゴッホはマルグリットに恋をしていたようだ。このようなタテに長い絵はゴッホには珍しい。特別な感情のあらわれではないだろうか。しかし、ここでもゴッホの恋はみのることはなかった。それは相当な痛手であったに違いない。生きていることそれ自体が無意味に感じられ、生への希望を奪った原因の一つと考えている。映画「ヴァン・ゴッホ」(1991年)では、マルグリットがゴッホに恋をしたように描かれているが、これは創作だろう。(Vincent van Gogh,Marguerite Gachet)
8月5日に開幕するリオデジャネイロ・オリンピック。現在206ヵ国の国と地域の参加が予定されている。国連加盟の独立国家の数は193となっており、オリンピックには独立国家以外に、非独立国の参加が認められている。オセアニアだけをみると、オーストラリアなど独立国は14ヵ国であるが、アメリカ領サモア、クック、グアムなどの参加が認められており、合計17ヵ国となる。過去のメダル獲得数はオースラリア468トリ個、ニュージーランド99個、トンガ1個である。トンガのパエア・ウォルフグラムは1996年のアトランタ五輪のボクシングスーパーヘビー級で南太平洋の島嶼国車出身者で唯一の銀メダルを獲得している。Paea Wolfgram
第一都市、第二都市という言葉がよく使われるが、何を基準にしていうかはあいまいである。政治・経済・文化、あるいは人口規模。北海道は札幌市が第1というのは異論がないが、第二都市を旭川市(35万人)とするか、函館市(28万人)とするかは意見がわかれるところだろう。近畿の府県の場合、堺、姫路、大和郡山、四日市、彦根、田辺が第二都市とみられている。四日市は県所在地のある津よりも人口は多い。人口が一番なのに県庁所在地でない都市は全国で四日市を含めて5市ある。群馬県の高崎市、福島県のいわき市、静岡県の浜松市、山口県の下関市である。
国レベルで第二都市を探すと、フランスは比較的はっきりしている。パリ(230万人)、マルセイユ(85万人)、リヨン(50万人)。日本のほうがややこしい。横浜の人口は約363万人で、大阪の約264万人より100万人も多いが、昼間の人口は大阪より少ない。政治的、地理的位置などからみてやはり第二都市は大阪とみるのが妥当だろう。
明治の児童文学者、福田琴月(ふくだきんげつ、1875-1914) は1875年のこの日、大阪に生まれる。本名喜八。早くから児童文学に関心を持ち、「世界偉人伝」「九郎判官」「鎮西八郎」など主として少年のための歴史物語を著わした。明治30年以降は、金港堂の大衆的なお伽噺シリーズの筆者として活躍した。安価な小型本のお伽噺の楽しさを浸透させた。(7月22日)
TBSドラマ「歴史の涙」(1980)を観る。映画「日本のいちばん長い日」(1967)とは一味ちがった感じ。昭和天皇には歌舞伎の市村萬次郎が演じる。詔勅の読み方が見事であった。阿南惟幾(小林桂樹)と米内光正(神田隆)らが対立するが、陸軍大臣阿南の苦悩と割腹が山場であることにかわりない。米内光政(1880-1948)は大正・昭和期の海軍軍人(大将)。岩手県出身。大正4年ロシア大使館に武官として勤務し、革命直前のロシアの混乱をつぶさに見た。大正9年から、ポーランド駐在員監督をつとめ、左右の対立に揺れるワイマール・ドイツを観察している。こうした欧州情勢の見聞により、国際派としての見識を持った人物だった。およそ軍人らしからぬ歴史観を持ち、精神主義者の多い当時の軍人の中では珍しい合理主義者でもあった。日独伊三国同盟を協議する五相会議の席上、石渡荘太郎蔵相が日独伊の海軍は米英の海軍に勝てるかと質問した。米内はこう答えた。
「勝てる見込みはありません。大体日本の海軍は米英を向こうに回して戦争するように建造されておりません」
昭和天皇はこうした米内の性格を気に入り、日独伊同盟に歯止めをかけようとしたのだ。日中戦争では不拡大方針を唱えた。しかし、米内の持ち味が時代の風潮に合うはずはなかった。陸軍の倒閣運動のため米内内閣(昭和15年1月16日から7月22日)はほとんど無為のまま短期間で終わった。むしろ米内の本領は敗色濃くなってからの終戦工作で発揮された。小磯、鈴木両内閣に入閣したときは、天皇の真意が和平にあることを知り、命がけで戦争終結の道を探った。
江戸時代の全国の関所の数は一定しないが、元和2(1616)年に関所に条目が発布され、32カ所くらいは存在した。幕末の頃には46もあった。「入鉄砲に出女」 江戸に定住すべき大名の妻子が国もとに帰る(出女)と、逆に鉄砲が江戸に搬入される(入鉄砲)を厳禁したことを指すことばだが、とくに出女を厳重に取り調べた。武家の女だけではなく、一般女性まで「女改め」というしきたりがあり、「人見女」または「検見の婆」とよばれる役柄が設けられた。箱根の関所は、小田原藩士の妻女たちが「検見の婆」の役をつとめていたが、時代とともに、領内の百姓女房があたるようになり、彼女らは、職権をカサに、眼にあまる人泣かせをやったという。しぜん、それを切り抜けるには賄賂が必要であり、賄賂の額しだいでかなりの手心を加えたようである。関所には無気味な武器・捕獲道具が揃えてあり、女改めでは髪の毛まで解きほぐしたという。赤穂浪士の一人、矢頭右衛門七が母親をともなって江戸に向ったが、新居の関で母の手形がないのに気付き、あらためて大坂まで母を預けに引き返したという挿話は、関所のきびしさを物語っている。
歴史上で悪名高い人物がいる。たとえば蘇我入鹿、弓削道鏡、平清盛、高師直、足利尊氏、吉良義央、田沼意次などである。これらの人物評ははたして正当なのだろうか。たとえば田沼意次などは近年、財政再建に尽力した変革者として再評価がなされている。だが蛮舎の獄の張本人の鳥居耀蔵や源義朝を謀殺した長田忠致、新選組の芹沢鴨などはドラマの中ではつねに悪人である。「どうする家康」では悪女といわれた正室築山殿が良妻賢母として描かれている。
中国史ではもっとスケールが大きい。始皇帝や煬帝などは悪逆非道の暴君として、古来評判が悪かった。とくに始皇帝は万里の長城修築のため多数の人民を徴発し、重税を課し、いわゆる焚書坑儒によって政治を批判する自由を圧殺したという理由からである。ところが、1970年以降になると、はじめて全国統一をなしとげた偉人としての評価が高くなってきた。兵馬俑坑の発見は決定的となった。批林批孔運動で一時期評価が大きく下がった孔子だが、1990年代以降、孔子への評価は完全に復活した。
では宰相クラスの人物はどうであろうか。北宋の蔡京(1047-1126)は奸臣、姦臣といわれてきた。徽宗皇帝にとりいって政権を掌握した。新法によって税をとりたて、徽宗に贅沢を勧めて、自身の栄達をはかった。そして金と同盟して遼を滅ぼしたのはよかったが、あべこべに金に国都開封を攻められ、国は滅び、南宋となる。 蔡京のような悪臣は日本史にはなかなか見当たらない。かつて宮崎市定(画像)も蔡京のことを「姦臣」とよんでいる。徽宗は芸術を愛し国費を浪費し国を滅ぼしたとされるが、近年、日本の若手研究者により政治に関心を持っていたとする一定の評価がなされている。(参考:宮崎市定「姦臣蔡京」歴史と人物 第8-11 1972年、藤本猛「風流天子と君主独裁制」 2014年)
戦後間もない年の6月のある日、東北の山村にある海光女学校で、若い英語教師島崎雪子は、5年生の寺沢新子から、一通のラブレターを見せられた。雪子は校医の沼田に相談する。彼は雪子を怒らせ平手打ちされてしまう。雪子がニセ手紙を書いた生徒の松山浅子を厳しく責めたことから、問題は一層大きくなり学校で父兄理事会を開くことになる。その上、浅子の父親が田舎政治家で、学校の理事長をしている井口甚蔵という市会議員と兄弟分ということで、雪子の立場はますます苦しくなった。沼田の中学の後輩金谷六助は、偶然新子と親しくなっていたが、二人が苦境に立っていることを知って沼田に応援をたのむ。沼田は一計を案じ、六助の友人富永安吉や芸者梅太郎の協力を得て、理事会の席で井口や体操教師の田中をやりこめて雪子を救う。やがて松山浅子も新子と和解した。台風一過、村にも学校にも和やかな空気が訪れて、寺沢新子と金谷六助は少し大人になり、沼田医師と島崎雪子は結婚の約束をする。
「青い山脈」は1947年6月9日から10月4日まで朝日新聞連載小説として発表された。今井正監督の映画「青い山脈」が封切りられたのは1949年7月19日である。原節子、池部良、伊豆肇、木暮実千代、龍崎一郎、若山セツ子、杉葉子らが出演。新しい民主主義の到来を謳った青春映画は主題歌とともに大ヒットした。のち石坂洋次郎(1900-1986)は教師生活の体験を生かした青春小説を数多く残した。石坂は純文学、ことに自らがかつて親しく接した葛西善蔵の私小説のあり方に決別し、より広い一般の読者を目指した小説を手がけることになる。「青い山脈」には、自意識の文学から中間小説へという変化を見て取ることができる。
第二次世界大戦のことがマスコミなどでよく取り上げられる。最近はヒトラーのちょっとしたブームで世界恐慌から奇跡的な経済復興をとげたヒトラーの経済政策を評価した本も出版されている。先日ドイツの古い実写フイルムがテレビで流されていた。ときは1933年の5月10日の夕刻。学生たちはゲッペルスの言葉に応え、積みあげた薪のうえに、本をつぎつぎと投げ込んでいた。レマルクの「西部戦線異状なし」。トーマス・マンの「魔の山」、ホイヒトバンガーの「成功」、アルノルト・ツバイクの「グリシャの軍曹」、ブレヒトの「パール」や、その他の本が焼かれた。ジークムント・フロイト、エミール・ゾラ、プルースト、H・G・ウェルズ、アプトン・シンクレア、ヘミングウェイ、アンドレ・ジッドの作品も炎に投ぜられた。全部で、2万冊以上の本が灰と化した。なかでも象徴的だったのがハインリッヒ・ハイネの詩集であった。ハイネといえば日本でも明治以来、恋愛詩人として知られているが(実際は恋愛詩だけではないが…)、ドイツでは必ずしも人気があるとはいえなかった。その理由はナポレオンを崇拝したからか、否、ハイネがユダヤ系だからか。ともかくもむかしから反ドイツ的とみられていたらしい。ヒトラーの反ユダヤ主義は狂気じみていたし、民衆もその狂気を支持していた。本を焼くことは、狂気の沙汰である。
ところでヒトラー(Hitler)という姓を名乗る人は現在いるのだろうか?ドイツ東端の町ゲルリッツにロマーノ・ヒトラーさんが現在も住んでいる。だがこの姓のため、ろくな職に就けず、結婚もできなかったという。もともとヒトラーはオーストリア人だった。ヒトラーの父、アロイスの母親の結婚した相手が「Huettier」の姓を持っており、「ヒュットラー」あるいは「ヒードラー」に近い訛った発音だった。その後、成人したアロイスは私生児である過去を嫌って、「ヒトラー」とした説がある。言語学者ユルゲン・ウードルフによると、ヒトラー姓はドイツ南部バイエルン地方やオーストリアに伝わる「地下水脈」「泉」などを表わす方言が語源だという。最近、オーストリア北部レオンディングにあるヒトラーの両親の墓が撤去された。
複数の単語を並列し、まとまった概念を示すとき、中黒「・」が使われる。一例として、
東京・新大阪間の切符
マーシャル・プラン
ニ・ニ六事件
石川さゆりのヒット曲「津軽海峡冬景色」。正しくは、「津軽海峡・冬景色」である。
弘文堂は1893年に八坂浅次郎(1876-1948)が京都寺町に仏教書の販売として始まったが、1897年から出版業に進出した。1917年に河上肇の「貧乏物語」を出版して、ベストセラーとなり、一躍、京都の有名出版社となった。法律・哲学・社会学関係書を手がけ、学術書の中堅出版社としてその地位を固めた。拠点を東京に移して戦後は、弘文堂書房から弘文堂と改め、「アテネ文庫」「アテネ新書」をはじめ、新企画を出版した。東洋史の分野においては雑誌「支那学」の出版で広く知られている。1920年9月「支那学」を刊行し、1946年、第12巻第5号をもって終刊した。内藤湖南、狩野直喜、鈴木虎雄、青木正児、小島祐馬、武内義雄ら京都学派の全盛期を支えた人々がたびたび投稿している。
ウィッツ 「ソロモン王の前のシバの女王」 1494年頃 ベルリン国立美術館
イスラエルの王ソロモンはその絶大な富と権力にものをいわせて、20年の歳月をかけて、エルサレムに豪華をきわめた黄金づくりの神殿と王宮を建てた。ソロモンの名声を聞いた南アラビア(イエメン)のシバの女王は、はるばる長い旅をして、没薬・乳香などの香料をはじめ、金や宝石などの贈物をもって、ソロモンのところへやってきた。そして、難問を発して彼の知恵を試してみたが、彼はそのすべてに鮮やかに答えて、説明できないことは何ひとつなかった。驚嘆した彼女は、ソロモンに「私が国で、あなたのこととあなたの知恵について聞いたことは真実でした。私はここにやってきて、自分の目で確かめるまではその言葉を信じませんでしたが、今見るとその半分も私には知らされていなかったのです」といった。そして、ソロモンにこのような聞きしに優る知恵と富を授けた神を、大いに賛美したという。旧約聖書にみられるシバの女王の統治期間はソロモン王とほぼ同時期の紀元前10世紀頃とされるが、彼女の実在を裏付ける考古学的発見は未だ皆無である。
コンラート・ウィッツ(1400年頃ー1445年頃)はドイツの画家。コンスタンツ、ロットワイル、バーゼル、ジュネーブで活躍。1434年、バーゼルの画家組合のマイスター、1435年同市の市民となる。透視図法や明暗によって3次元的な空間の中に人物を彫塑的に表現したドイツ最初の画家である。ウイッツは本来は彫刻家であったといわれている。
地中海の東に浮ぶキプロス島。ここには歴史を物語る文化的建造物や遺跡が多数ある。前7000年頃には人が住んでいた。ギリシア人はアラシアと呼んでいた。エジプト、ギリシア、ペルシア、ローマなどの侵略と支配に晒された。首都レフコシア(ニコシア)の城壁と砦に囲まれた旧市街にも名所や遺跡が多い。1960年8月16日、イギリスから独立した。だが1974年7月15日、マカリオス大統領(1913-1977)が追放されて以来、南のキプロス共和国と北キプロス・トルコ共和国(トルコ軍実効支配地域)に分断されている。レフコシアはプトレマイオス1世(前367-前282)の息子レフコスによって再建されたので、レフコス(Lefkos)と地名接尾辞イア-iaの合成地名か。英語名ニコシアは、ギリシア神話の勝利の女神ニケに由来する。ラルナカの西南40kmのところにあるレフカラ村には、レオナルド・ダ・ヴィンチが1481年に訪れ、ミラノ教会に寄贈するためにレースを購入したと伝えられている。しかしダ・ヴィンチのキプロス旅行は年譜などには見当たらず、伝承の域をでないものであろう。
2015年1月13日、北キプロス・トルコ共和国初代大統領ラウフ・デンクタシュ(1924-2012)がニコシアの病院で亡くなった。トルコ共和国初代大統領ケマル・アタテュルク(1881-1938)の名前を覚えるようにラウフの名も記憶にとどめたい。
漢の宣帝のころ。丞相の丙吉(生年不詳-紀元前55年)が外出したとき、路上で乱闘事件があり、死傷者が出るという騒ぎにぶつかった。しかし、丙吉はそ知らぬ顔をして通りすぎる。その後、また外出したとき、牛が舌を出してあえぎながら車を引いているのに会った。するとこんどはわざわざ属官を車引きのところにやって、どのくらいの距離を引いてきたのかたずねさせた。属官が不審に思って丙吉にたずねたところ、こう答えたという。「路上の乱闘を取り締まるのは長安令や京兆尹の職務である。丞相の職責は陰陽の調和をはかるところにある。それで牛の喘ぎを心配したのだ」。臣下はこれを聞くや、ことごとく感心したという。
滝沢秀明主演ドラマ「せいせいするほど愛してる」初回放送。スーツ姿の副社長、タッキーがかっこいい。でもヒールを履いた武井咲のほうが背が高くみえる。平成の色男といえば石田純一。都知事出馬を断念のドタバタはカッコ悪かった。若大将加山雄三。「うたコン」で「私の人生でモテという自覚はない」と謎の発言。巨人の坂本勇人。チームは低迷するが1人絶好調。六本木のクラブでもモテモテ。大相撲の稀勢の里もなぜかニヤニヤしている。「スー女子」(相撲好き女子)が急増し、独身の稀勢の里は「きせのん」と呼ばれてもてもてらしい。
ザ・ピーナッツの妹、伊藤ユミさんが二カ月前に亡くなられていたというニュースが流れて間もなく、作詞家・放送作家の永六輔さんの訃報も伝えられた。お二人のご冥福をお祈り申し上げる。
ザ・ピーナッツは1958年日劇の「コーラス・パレード」でデビューし、「可愛い花」「情熱の花」「恋のバカンス」「ふりむかないで」「ウナ・セラ・ディ東京」等をヒットさせた。1963年9月、初めての海外旅行で欧州に出かけ、12月にオーストラリアの「カテリーナ・バレンテ・ショー」に出演した。翌1964年にはドイツのTV番組「ショー・ビジネス・イン・ジャパン」に出演、続いて1964年6月「スマイル・イン・ザ・ウエスト」に主演し、全ヨーロッパに放送されるや、ヨーロッパ中のアイドルとなった。こうしたヨーロッパにおける人気がアメリカに伝わり、「エド・サリヴァン・ショー」に出演し世界の人気者となっている。ザ・ピーナッツは海外で大成功を果たした日本人歌手である。1965年にドイツでリリースされた「SOUVENIRS AUS TOKIO」が東京オリンピックの翌年であることから、ザ・ピーナッツ人気は彼女たちの歌唱力(発音)もさることながら、世界が日本に関心を持ち始めたという時期が追い風となったことは間違いない。画像はドイツの雑誌「フンクウーア」の表紙を飾るザ・ピーナッツ。
常識クイズバトル「ネプリーグ」。漢字一文字を入れよ。
「竹○の友」答えは「馬」である。だが、今の若い人は「竹馬の友」ということばを知らない人がいる。意味は竹馬に乗って一緒に遊んだ幼い頃からのともだち。実は故事成語の由来となった東晋の政治家、垣温と殷浩の2人はライバル関係であまり仲が良くなかった。2人は同郷で、若い頃から名声を博していたが、桓温は日頃から殷浩のことをこころよく思っていなかった。桓温が「君はわたしとくらべてどうだね」と問うと、殷浩は「わたしはわたしとのつきあいが長い。だからわたしが上ということにしておこう」と答えたという。
弥生時代の青銅器には銅剣・銅矛・銅鐸などあるが、銅剣や銅矛が北九州を中心にして多く発見され、銅鐸は近畿地方が中心として多く発見されるので、この時代には、2つの文化圏があったと考えられていた。ところがこのような考古学の常識を覆すような発見が続いた。1984年のこの日、島根県の神庭荒神谷遺跡で銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個が出土した。そこから南東3.4kmのところにある加茂岩倉遺跡で銅鐸39口が発見された。大きな銅鐸の中に小さな銅鐸が入っている「入れ子」状態が15組もある。どのような理由で弥生人は銅鐸などを埋めたのであろうか。銅鐸は豊作を祈る儀式として使われたと考えられている。いままで使用してきた祭器が不要となる社会変化とは何か古代史の謎はさらに深まる。つまりこれまで、古代日本の中心は「畿内説」「九州説」を中心に論議されてきた。しかし、近年、荒神谷遺跡以来、加茂岩倉、妻木晩田、松江田和山、青谷上寺地、出雲大社の3本柱、など山陰地方におい、他の地域に類例のない遺跡の出土が相次いでいる。古代日本の中心地は、果たして畿内か、九州か、山陰か?(7月12日)
連続テレビ小説「とと姉ちゃん」花森安治を演じる唐沢寿明の登場で物語が俄然、面白くなってきた。常子は三顧の礼をもって編集を依頼する。戦後一世を風靡した生活総合誌「暮しの手帖」の大橋鎭子、花森安治をはじめとする創業者たちがモデルとなっている。花森は戦時中、大政翼賛会の外郭団体に所属していたことから複雑な胸中であったらしい。妻の奥貫薫が編集の仕事をもう一度やることをすすめる。これまでの朝ドラには実在の人物をモデルとした作品がかなりある。女流飛行士第一号「雲のじゅうたん」のモデルは及位野衣、今井小松、兵頭精、西崎キクなど複数いるらしい。以下、日本の流行歌手第一号佐藤千夜子(いちばん星)、沢村貞子(おていちゃん)、長谷川町子(マー姉ちゃん)、黒柳朝(チョッちゃん)、吉行あぐり(あぐり)、石田ゆりとその家族(てるてる家族)、水木しげる(ゲゲゲの女房)、小篠綾子(カーネーション)、村岡花子(花子とアン)、竹鶴政孝(マッサン)。
2015年7月10日、心臓発作のため83歳で死去した。映画「アラビアのロレンス」のオマ―・シャリフはエジプトに生れ、英語、仏語、アラビア語、ギリシャ語が話せる国際派スターだった。「ジンギス・カン」(1965年)を観る。エジプト人の彼がモンゴル人を演じるには違和感はある。妻のボルテはフランソワーズ・ドルレアック。ドヌーブの姉さん。「ベン・ハー」のメッサラで知られるスティーブン・ボイドがここでもライバル役。「邪魔者は殺せ」のジェームズ・メーソン。「刑事コジャック」のテリー・サバラスと出演者は多彩。夫人のボルテが略奪されるという話は、「元朝秘史」に見えることで、まったく荒唐無稽ということではない。西欧側が描いたジンギス・カンということで珍品で一見の価値あり。オマ―・シャリフの代表作は「ドクトル・ジバコ」だが、この作品と同年に作られているので彼の全盛期のものといえる。
勉強というものは毎日、同じ時間に継続してやって徐々に効果があがっていくものであろう。先ず漢文漢詩、英語学習を能くする。
人固有一死 人は固(もと)より一死有り。人間は必ず死ななければならない存在である。出典は司馬遷「報任少卿書」
福生於無為 福は無為より生ず。幸福は無為無心の境地から生れてくる。それと反対に、欲を出しすぎると患禍にあって不幸になる
多蔵必厚亡 多く蔵すれば、必ず厚く亡う。財産を珍重すればするほど出費も重なり、必ずその財産も失ってしまう
いずれも至言である。とくに「多蔵必厚亡」は書籍を収集保存することを業としているものとしは肝に銘ずる句である。蔵書の数や美麗ではなく、熟読玩味することが大事であろう。
anecdote 逸話
arithmetic 算術
astronomy 天文学
biology 生物学
botany 植物学
chemistry 化学
geometry 幾何学
statistics 統計学
zoology 動物学
大坂冬・夏の陣を通じて孤軍奮闘の働きをした真田幸村は講談や小説、映画でお馴染みの人物である。しかし幸村の名より、ほんとうは信繁のほうが正しい。なぜ、信繁というれっきとした名をもちながら、幸村という虚名で知られるようになったのかは、明らかではない。江戸時代、寛文12年(1672)成立の「難波戦記」に幸村の名が見える。この書によって信繁よりも幸村の名が広まったと考えられている。いまだ信繁の生きていた同時代の史料で幸村と称した記録は見つかっていない。なぜ江戸の作家が幸村としたのか?徳川家康をさんざん悩ました真田信繁の名前を憚り、幸村という虚名に変えたのであろうか。幸は真田家の通字で、村は信繁の子孫が仕えた伊達家に由来するという説がある。
いよいよ前半も終わりに近づいたプロ野球。広島、日本ハムの勢いが止まらない。巨人、阪神は監督一年目で思うような采配ができていない。あのV9を成し遂げた川上監督ですら就任2年目の1962年ペナントレースは不本意な4位だった。エースは城之内邦雄、クリーンアップは長嶋・王・坂崎だった。1962年5月22日、後楽園球場。巨人対中日戦。中日の先発は門岡信行。巨人は堀本律雄。巨人は3回裏、国松、坂崎の連打で門岡をノックアウトし、救援した板東に長嶋が適時打を浴せ、なお宮本も三遊間安打して2点をあげた。しかし、中日も4回裏、財津二塁打、江藤四球、高木バントで堀本を退け、救援した伊藤に半田が二塁打をお見舞いして3点あげ、同点に追いついた。6回裏、巨人は王、国松の連打に続き、坂崎が三塁打を放ち、3点をあげ、6対2と勝利した。この年の7月、王は大洋戦、川崎球場であの一本足打法を初披露している。
ある僧が趙州和尚に向かって「如何なるか是の道」と問うたところ、趙州が答えていうには「墻外底」(墻の外を見よ)、おぬしそこを通って来たろう、あれが即ち道じゃ、ということであった。それで僧が改めて「這箇の道を問わず」いや、私はそんな道を尋ねているのではありません、大道を尋ねておるのですというと、趙州曰く、「大道、長安に通る」そうか、大道なら長安に通っておるよ、と言ったという話がある。
つまり、「春は何処、春は何処」と草鞋ばきで一日中あちこち尋ねまわったが、一向に花にもめぐり会わない。それで疲れきった足を引きずってわが家にかえってみると、ふとよい香りがして、見れば庭の梅の木に花が咲いていた。春はまさにここにあったのである。
「道は近きにあり、然るにこれを遠きに求む」孟子離婁上「道在邇而求諸遠」人が追い求める理想は手近な日常生活にこそあるものだが、人は理想が現在とはまったく遠く離れたところにあると思い込み、結果遠回りしてしまう。この逸話の趙州和尚とは唐末の禅僧、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)のこと。メーテルリンクの劇「青い鳥」も人間は幸福を遠くに求めたがるが、それは実はわれわれの身辺にあることを述べている。
1868年から1年半にわたる戊辰戦争は武士の時代の終わりを告げ、これからの時代は国民皆兵制が必要であることを立証した。しかし西洋ではおよそ500年ほど前にすでにゼンパハの戦い(1386年)でオーストリア騎士軍がスイスの歩兵軍に敗れており、戦史の上では中世から近代に移行しつつあった。
1386年7月9日、スイス中部、ルツェルン北西部ゼンパハ近郊でスイスの独立軍はハプスブルク家の城砦を前年12月に占拠し、近隣農民に市民権を付与して都市領域支配の拡大を図った。これに対して、ハプスブルク家はレオポルト3世指揮下の騎士軍を派遣したが、ルツェルンは原初三邦の援軍を受けた。戦いは当初、スイス側が不利であったが、オーストリアの重装備の騎士軍は狭い土地で長槍とヘレバルデ(槍と鉞を兼ねた武器)で武装した農民軍の密集部隊の突撃に遭って、大敗し、レオポルト3世は敗死した。オーストリア騎士軍が民兵に負けたこの戦いは西欧戦史上画期的なことであった。日本も戦国時代に足軽など民兵が登場したが、徳川幕府の平定により、兵制では西欧諸国に大きく遅れることになる。Sempach,Luzen
ついつい塩辛いおかずとご飯の食べ過ぎでカロリーも塩分もどんどん増えていきます。肥満を解消しようと急激なダイエットで失敗し、体調を崩してしまいました。1日3回きちんとバランスのよい食事を心がける。十分な睡眠、そして運動。風呂はぬるまゆにゆっくりとつかる。
昨夜の「ガッテン!」おなじみの山瀬まみはもういない。代わりにホリプロの新人の山根千佳ちゃんカワイイ。テーマは「糖質制限ダイエットの落とし穴」。糖質ダイエットの効果がブームとなる中、しかし方法を誤ると危険である。逆にめまいや筋力低下、あるいは栄養失調になるおそれもある。日本人の平均摂取カロリーは2000キロカロリーで、実はたんぱく質15%、糖質25%、糖質炭水化物60%、糖質が多く占めている。カットすると総カロリーが不足しがちになり栄養がいきわたらなくなる。肉・魚・大豆・野菜など脂肪やたんぱく質をしっかり食べて、満腹感を得る事が大切だという。ガッテン!
第26回「瓜売」。加藤清正が源三郎(信幸)、源次郎(信繁)の兄弟の名前について疑問を持ちだす。「なんで兄が源三郎で弟が源次郎なの?おかしくねぇ!?」と突っ込む。昌幸は「あまり深く考えずに名付けた」と面倒くさそうに答えた。ちょっと笑えるシーンだ。
信繁をめぐる女性たちにも目がはなせない。すでに最初の妻である堀田作兵衛の妹梅(うめ)役の黒木華は戦死している。第二の信繁の正室春(竹林院)役の松岡茉優や側室・豊臣秀次の娘たか役の岸井ゆきのが登場した。これからドラマは高梨内記の娘きり役の長澤まさみとの三角関係が展開されそうだ。きりはその後、信繁の側室となり、次女お市(早逝)、三女お梅(阿梅)を生んだ。きりは、九度山に残り、大坂の陣で戦死した。阿梅(1599-1682)は大坂城落城に際し、片倉重長に保護され、継室となっている。
真田家の家臣団のなかに出浦盛清(いでうらもりきよ)という人物がいる。ドラマでは寺島進が演じているが、この人物を知っている人は少ないのではないだろうか?またの名前を出浦昌相(いでうらまさすけ)といい、真田家を陰から支える忍びの頭領。村上義清の一族。村上氏は清和源氏の支流で、平安時代末期以降、埴科郡坂木(坂城町)を本拠地として勢力を奮った武将である。出浦は坂城町大字上平出浦の士で、更科郡上平の城主(出浦城)となり、この頃は上総守を名乗ったが、やがて対馬守に改めた。武田信玄の配下となり、透破(すっぱ)の頭領となって働いた。武田家が滅びると海津城主森武蔵森長可(ながよし)に仕え信望を得た。天正11年9月真田昌幸の麾下となり、小県郡武石村にて30貫文を領した。同年以降は上野国吾妻郡の岩櫃城に居住し、岩櫃城代や吾妻郡奉行の要職に就いた。忍者としての逸話も多く、配下の者より先に城内に忍び込み、情報を探りだしたという。このためか、吾妻郡では嶽山城を中心に忍者が多かった。(参考:「別冊歴史読本 真田一族のすべて」1996年)
語呂がよい言葉やインパクトの強い言葉は、何年たってもなかなか忘れないし、懐かしい響きがある。そんな歴史用語を集めてみよう。
墾田永年私財法 743年
奈良時代、初めて全面的に土地の私有を許可した法令
レヒフェルトの戦い 955年
東フランク王オットー一世は、アウグスブルク近郊のレヒフェルトでマジャール人を撃退して神聖ローマ帝国を建国する。
カノッサの屈辱 1077年
Walk to Canossa 欧米では「カノッサへ行く」とあり、日本ではやや誇張表現
布引丸事件 1899年
フィリピン独立運動に日本から武器を送ろうとして失敗した事件。
張作霖爆死事件 1928年
張作霖が北京から奉天に引き揚げる途中の皇姑屯(奉天近郊)で関東軍河本大作大佐らの謀略で列車を爆破されて即死した事件。別名「皇姑屯事件」「奉天事件」「満州某重大事件」ともいう。
シナントロプス・ペキネンシス 1923年
北京原人の学名。ただし、現在ではホモ・エレクトス・ペキネンシスといわれる。
戦艦ポチョムキン号の反乱 1905年
日露戦争の敗戦を機にオデッサ停泊中の黒海艦隊のポチョムキン号の水兵が反乱を起こしたが失敗する。
アンボイナ虐殺事件 1623年
インドネシア東部アンボイナで香料貿易をめぐる争いから、オランダ官憲がイギリス人10名、日本人、中国人を斬殺した事件。
アナタハン島猟奇殺人事件 1951年
アナタハン島という孤島で一人の女性をめぐって7人の男性が殺された。争いの元である比嘉和子は逃走し、米軍に救出される。日本人兵19人も帰国。
シャルル禿頭王
カール大帝の孫。カール2世(823-877)。843年8月10日、ヴェルダン条約で西フランクを得てシャルル1世となる。
血の日曜日 1905年
10万人近い労働者が司祭ガボンの指導のもとにペテルブルクの冬宮前広場でデモを行い、数百名の死者、千名以上の負傷者を出した。
リットン調査団 1932年
国際連盟調査団長リットンは報告書で満州国を否認。
♪男なら男なら未練のこすな昔の夢に もとをたたせば裸じゃないか 度胸ひとつで押して行け 男ならやってみな
「男なら」という歌は最近ほとんど聞かなくなったが、昭和30年代後半から40年代にかけてリバイバルブームで和田弘とマヒナスターズが歌っていた。原曲は山口県萩市で歌われていた民謡で、音丸のレコード「男なら」で全国的に有名になった、昭和12年には林伊佐緒、樋口静雄、近衛八郎で戦時歌謡としてヒットした。
このように古い歌が再び流行することを「リバイバル」というが、最近ではカバー(すでに発表されている楽曲を、別の演奏者が演奏すること)という。「♪君がいた夏は遠い夢の中 空に消えていった打ち上げ花火」北海道北見市出身のガールズバンドWhiteberryが2000年に発表した「夏祭り」はJITTERIN'JINN(ジッタリン・ジン)の1990年の曲でリバイバル・ヒットだった。美空ひばり「悲しい酒」は最初北見沢淳の曲として発表されたカバー曲である。ペギー葉山の「南国土佐を後にして」も鈴木三重子のカバーであるし、尾崎紀世彦「また逢う日まで」はズー・ニー・ブー「ひとりの悲しみ」のカバー。
リバイバルとカバーの区別がつけにくい。おもうに昔は今と違って、別の歌手がほかの歌手の持ち歌を歌うということは少なかった。いまでは著作権処理さえできれば、どんな歌でも披露することができるようになった。また美空ひばりをはじめとして多くの昭和の歌手が故人となったので、名曲を歌いついでいこうとする機運の高まりからカバーする機会が増えたといえる。武田鉄矢いわく「歌は世にでると旅をするんです。人と人の間で旅をする」
女子高生ミスコン2016でグランプリに輝いた愛知県出身の永井理子(18歳)。写真をみると、きゃりーぱみゅばみゅに似ている可愛い系で大評判。応募者総数64万人の中から選ばれただけのことはある。江戸時代でいえば笠森お仙だろうか。
江戸は、男と女、圧倒的に男の数のほうが多かった。吉原や岡場所が繁盛したのはそのためだが、女に触れられなくても身近に感じられればよい、しかも払いは安く、といった需要に応えた風俗営業が水茶屋だった。一般に湯茶の接待をするところが茶屋だが、水茶屋は美女を置いて客の接待に当たらせたやや高級な休み茶屋。店を小奇麗にし、掛行灯をかけ、良質の茶を使ったが、客の目当ては看板娘。水茶屋の茶汲女が評判を呼んだのは明和年間(1764-1771)の笠森お仙(1751-1827)である。お仙は、谷中笠森稲荷の境内にあった水茶屋鍵屋の娘。美人との評判が高まり、笠森稲荷に人々はむらがったのは明和5年、お仙18歳のとき。父親の営む茶屋には13歳のときからずっと手伝いに出ていたが、錦絵の鈴木春信が次から次へとお仙の一枚絵を出して人気が沸騰。ところがお仙は20歳のとき結婚して姿を消し、老父が店に立ったから「飛んだ茶釜が薬缶に化けた」という歌がはやったという。人気役者瀬川菊之丞との駆落の噂まで出たが、お仙は倉地甚左衛門と結婚し、数人の子をもうけ76歳で没した。お仙は谷中の笠森稲荷前の水茶屋の娘として1752年に生れ、柳屋お藤、蔦屋お好とともに江戸三大美人といわれた。(参考:「大江戸ものしり図鑑」主婦と生活社)
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