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2016年6月25日 (土)

マレーの虎・山下奉文

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    山下奉文(1885-1946)中将に「マレーの虎」という異名がついたのは、シンガポール攻略の後である。イギリスの東洋における最大の根拠地を短時間で占領したのは、突如としてジャングルから姿をみせた虎としか形容のしようがなかったからであろう。ぎょろりとした眼、日焼けしたたくましい顔、堂々とした体躯、大音声で指揮をとる猛将にふさわしい異名であろう。

    山下奉文司令官とパーシバル総司令官との降伏会見は昭和17年2月25日午後7時、ブキテマ高地のフォード自動車工場で行われた。パーシバルは停戦を申し込み、シンガポールの治安を任せてほしいと主張したのに対し、山下は条件は後回しだ、降伏するのかしないのか、と迫った。日本軍は降伏の意思表示がないかぎり夜襲を決行するつもりだった。いらだった山下は「条件は後回しだ、降伏するのかしないのか、イエスかノーか聞いてくれ」と通訳に命じた。パーシバルはやむなく「イエス」と無条件降伏を受諾した。午後7時50分だった。マレー・シンガポール作戦における日本軍の戦死者は約3500名、連合軍の捕虜は7万とも10万ともいわれる。

    しかし「マレーの虎」と称された山下奉文は東条英機に嫌われその後は満州に左遷された。フィリピン防衛戦で呼び戻され総指揮官となったが、すでに勝機はなく、あまつさえ情報無視のレイテ決戦を上級司令部から強いられた。そのため肝心のルソン島決戦ではほとんど満足な兵力がなく、完敗。敗戦後、マニラの戦犯裁判で、「パターン死の行進」捕虜への残虐行為の責任を問われ、絞首刑になった。いま山下奉文大将の、恰幅の良さを表わす外套が「陸上自衛隊第一師団広報史料館」(練馬区北町)に展示されている。(参考:「面白いほどよくわかる太平洋戦争」日本文芸社)

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コメント

このときのニュースフィルムがあり、「山下は堂々としているのに、パーシバルはチョコチョコしていて、山下は普通のコマ数なのに、パーシバルはコマ落しで撮ったのは、パーシバルを貶めるための作為ではないか」と戦後問題になりました。

そのときの監督だった高木俊朗は、「光線の関係(パーシバルは逆光)でそうせざるを得なかった」と書いています。

シンガポールでの敵基地の捕獲文書に、八木アンテナで方向探知レーダーを作る記載を発見した。
八木宇田アンテナの指向性利用方法と存在をやっと軍部が知ったそうです。

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