オー・ヘンリー忌
オー・ヘンリーの筆名によって知られているウィリアム・シドニー・ポーター(1862-1910)は、1862年9月11日、ノース・カロライナ州グリーンスボロに生まれた。父親のアルジャナン・シドニー・ポーターは地方の名医だった。きわめで親切な人がらで、貧しい患者のめんどうなどをよくみていたが、1888年に死んだ。母親のメリー・ジェーン・ヴァージニアは裕福な家庭の娘で、グリーンスボロ女子大学を優等の成績で卒業し、25歳でポーター医師と結婚、30歳で肺病のため死去した。この母親の病気は、オー・ヘンリーにとって生涯の不安のたねだったといわれている。
オー・ヘンリーは非常な読書好きで、少年期にすでにヨーロッパの大作家や古典を多読していたという。しかし、小学校を出るとすぐ伯父の経営する薬局ではたらき、数年後には薬剤師の資格をとって家計をたすけた。18歳のとき、知人を頼ってテキサス州へ行き、そこの牧場で3年ほどはたらいた。それからテキサス州の首都オースティン市へ行って、薬局、土地会社などに勤め、1887年には州の土地局の役人になり、同年アソル・エステス(1868-1897)と結婚した。このころから、短いエッセーや感想を綴っては、さかんに新聞に投稿しはじめた。1891年、土地局をやめてオースティン第一銀行に就職し、1894年に辞職したが、辞職後まもなく公金費消のかどで銀行から告訴された。当時彼は「ローリング・ストーン」という小新聞を経営していたが、裁判所から出頭命令をうけると、そのまま妻をおき去りにしてニュー・オーリンズに逃げ、そこからさらに中央アメリカに渡り、約2年間、中南米の各地を放浪してあるいた。1898年、妻が危篤との知らせをうけて大急ぎでオースティン市にもどり、妻の死とともに自首して刑に服した。刑期を終えて出獄したのは1901年であるが、獄中での彼は、獄内の薬局ではたらきながら、短編小説を書いていたという。出獄後の1年あまりは、娘のマーガレット(1889-1927)とともにピッツバーグに住んで、ようやく売れはじめた短編小説の執筆に専念した。翌年、ニューヨークに出た。ワールド紙日曜版の編集長ボブ・デーヴィスに認められ、やがてデーヴィスがマンシー誌に転じると、マンシー誌とのあいだに5年間の執筆契約を結んだ。ヘンリーは1907年、幼なじみのサラ・コールマン(1868-1959)と再婚する。その頃には酒浸りがたたって肝臓をやられていた。翌年に別居。こうして、400余編の作品をのこして、1910年6月5日、死去した。O.Henry
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こんにちは。氏の名を久しぶりに聞いた気がします。「ザ・ラストリーフ」を英語の教材として読んだのは中学の頃だったでしょうか…
投稿: ステレオタイプ | 2013年6月 6日 (木) 17時38分
再婚した幼なじみの奥様は長生きしたんですね。
投稿: | 2015年6月 5日 (金) 12時39分