戦前の思想弾圧小史
1940年、津田左右吉の「古事記及日本書紀の研究」「神代史の研究」などが、記紀を批判し、皇室を冒瀆しているとして発禁となった。戦前の思想弾圧の概略を記す。
1925年のこの日、日本最初の男子普通選挙法制定とほぼ同時に成立した治安維持法は、国体を変革し、私有財産を否認しようとするいっさいの結社・行動を禁止した。特高警察と結合して国民生活の末端にまで暴威をふるい、国民に深刻な恐怖を与えた。滝川幸辰(ゆきとし)事件、美濃部達吉の天皇機関説事件、矢内原忠雄事件、二次にわたる人民戦線事件、河合栄治郎事件、津田左右吉事件など思想弾圧が相ついだ。直接に刑事罰の対象とはされないまでも、出版物にたいする発禁・削除・改訂などの処分は数えきれないほどの数にのぼった。
こうした統制は映像文化にも及び、昭和14年の「映画法」は、作品の検閲にとどまる域をこえて、映画製作やその配給自体を許可制にした。太平洋戦争が始まると、言論弾圧はいっそう苛酷となり、「中央公論」「改造」の二大総合雑誌が廃刊を命じられたばかりか、編集者たちを検挙して拷問で四人の獄死者をだす、いわゆる横浜事件がおこった。
このような統制の強化により、人々は神国意識のとりことなりはて、言論や映像・造形芸術は、戦意高揚の手段と化した。しかしそういう苛烈な状況下にあっても、理性への目を失わなかった人々もいた。美濃部達吉・矢内原忠雄・津田左右吉らをはじめとする受難の人々はそうであったし、「ミケルアンヂェロ」を書いた羽仁五郎、封建社会のなかでの近代精神の成長を追いつづけた丸山真男や、グループとしては「世界文化」や「土曜日」に拠る中井正一ら京都の人々が、狂気のなかで理性の立場をとりつづけた。また柳宗悦は、沖縄での方言撲滅運動を正面きって批判した。しかし文化活動としての抵抗は、おおむね偽装を余儀なくされ、戦争協力と紙一重の論理を錯雑としたかたちでくりひろげる場合が少なくなかった。5月12日(参考:「図説日本文化の歴史12」小学館)
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津田史観、影響受けました・・。
合理的な史観です。( ̄ー+ ̄)
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013年2月11日 (月) 12時19分