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2016年5月14日 (土)

富永有隣と松下村塾

    安政3年(1856)9月、吉田松陰は久保五郎佐衛門の依頼を受けて「松下村塾記」を書いた。そこには、教育の理想が述べられている。秋頃から、増野徳民(17歳)、吉田栄太郎(16歳)、松浦亀太郎(20歳)らが松陰に学ぶ。松陰主宰の松下村塾が実質的にはじまった。

   安政4年になると、松陰の教学場はますます盛大となり、さらに加えて久保塾の門人たちも松陰に学ぶようになる。7月には富永有隣が野山獄を出獄し、松陰の人柄にひかれて、松下村塾で教えるようになる。11月、学びの場が、杉家の幽閉室から、納屋を改修した8畳間に変わったとき、主宰者は久保五郎左衛門だが、実質的には松陰が教えていた。このときから、安政5年11月までが、松陰の松下村塾であった。

   当時の松下村塾には、錚々たる面々が通っていた。久坂玄瑞(18歳)、中谷正亮(27歳)、吉田稔麿(17歳)、久保清太郎(26歳)、高杉晋作(19歳)、伊藤博文(17歳),品川弥二郎(15歳)、前原一誠(24歳)たちである。

   これら10代、20代の塾生に混じって、当時37歳の富永有隣(1821-1900)は野山獄で松陰を知り、松下村塾で教えるようになった。富永有隣(富永弥兵衛)は文政4年5月14日、周防国吉敷郡陶村に生まれる。御膳夫士・富永七郎右衛門の長男。9歳で明倫館に入り、13歳のとき藩主の前で「大学」を講義して秀才ぶりをうたわれたが、狷介な性格がわざわいして人におとしいれられ、嘉永5年、32歳のとき見島に流され翌年、野山獄につながれた。容貌魁偉の堂々たる体格で、はじめて訪れた人びとに松陰先生と間違えられたという。

   安政5年12月に塾を閉める後、松陰は、助教の富永有隣に塾を続けるように任せた。しかし、有隣は、親戚のところに行くと言って出たまま、戻ってこなかった。裏切られた松陰が、「有隣の脱去、老狡憎むべし」と怒ったのはともかく、「同志中残らず絶交」というから、彼の教え子でもあった塾生たちからもそっぽを向かれたらしい。狷介な彼は、塾中の人びとと合わなかったのだろう。

35343aa0000016616_1   その後、奇兵隊、南奇兵隊、集義隊を転々とし、明治2年、大楽源太郎らと脱隊運動の首謀者とみなされ、事敗れて諸国を流浪、明治10年土佐に潜伏中を捕えられ、石川島監獄につながれた。明治17年、特赦で出獄、都下の甥の家で開塾したが、明治19年帰郷した。吉敷郡陶村には帰らず、近親者のいた山口県熊毛郡城南村(田布施町宿井)に身を寄せ、近隣の子弟に教授した。不遇のうちに明治33年、80歳で亡くなっている。(画像は山口県田布施町の富永有隣旧宅跡)

    国木田独歩が、富永有隣をモデルにして小説「富岡先生」を書いたのは有名である。小説では、頑固でひねくれ者の富岡先生と美しく気立てのいい娘・梅子が、小学校の教師の細川と結ばれるまでを書いている。ほとんどフィクションであるが、独歩は明治24年ごろ、実際に富永に会っている。また小説に登場する明治顕官への道を歩む弟子たち、江藤三輔は伊藤博文、井下は井上馨がモデルと思われる。

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