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2016年5月 3日 (火)

長塚節の縁談

Photo     明治44年の春、33歳の長塚節(1879-1915)は黒田照子(1890-1962)と神田の料亭でお見合いをした。黒田家からは照子の兄と本人が臨席、長塚家では本人と母たかが臨席した。その頃母は在京して病気療養中だが、愛息の見合いということで無理を押して出たらしい。照子は一目節を見るなり頗る乗り気だったようだが、見合い後照子の兄・黒田昌恵は医師という職業柄節の様子を冷静に観察していたらしく、「何うもあの咳は只物ではない、結核の疑があるから此姻談はお断りすべきだ」と言っている。

    一方の節であるが井上子爵の令嬢との縁談が不調に終わったあとで、彼の心中には令嬢への未練があったようだ。節は婚約の同意を渋っていた。節の弟の長塚順次郎は黒田昌恵と中学、一高時代と共に野球部に在って刎頚の仲だったので、なんとか二人をとりもとうとする。ようやく明治44年の秋には婚約が成立した。ところがその直後の11月、根岸養生院で節は喉頭結核と診断される。そのため節分は婚約を破棄する。しかし、照子は既に節を夫たるべき人と決めていたので、11月24日、病院を訪れている。この日節は生憎外出していて会えなかった。しかし、彼女の盲目的な挙措にいたく感激、初めて彼女の本能を知るのである。相手が不運に陥るやとかくしり込みして離反し去るのが世の常である。しかるに彼女は敢えて苦難を共にしようとするのである。節はほとほとその行為に心服、迷うことなく自らも進んで彼女に立ち向かうことになるのであるが、結局は悲恋に終わる。

   二人に4年の歳月が流れた。長塚節は大正3年3月14日、神田錦町2丁目の橋田病院に入院する。それから50日ほど経った5月3日のことである。黒田てる子が訪れた。見合以来実に4年ぶりの再会である。その後、晩年の節から次の名歌がうまれた。

垂乳根の母が釣りたる青蚊帳を

すがしといねつ たるみたれども

    「病室の一室にこもりける程は心に悩むことおほくいできてまなこの窪むばかりなればいまは只よそに紛らさむことを求むる外にせん術もなく、5月30日といふ雨いたく降りてわびしかりけれどもおして帰郷す」という詞書がある。黒田照子の純愛に悩んだ節は、ついに決意して、ふるさとの母のもとへ帰ったのである。折りしももう蚊帳を吊る季節である。母は久しぶりに帰って来た節のためにみずから青蚊帳を吊ってくれたのである。老いかがまった母のすることで蚊帳はたるんでいる。しかしたとえたるんではいても、慈愛の深いなつかしい母のこころづくしを思えば、気にもならない。むしろすがすがしい思いがする。母のふところに抱かれたような心安さにその蚊帳の仲に身を横たえたという心情をのべたものである。

  大正3年6月、福岡の九州帝大病院に三度赴いた長塚節は、大正4年2月8日、37歳の若さで遂に没した。法名秀岳義文居士。その墓は「土」をはじめ、多くの歌にもうたわれた鬼怒川のほとりにある。

    節の死の知らせにショックをうけた黒田照子は、その後幾つかの縁談が持ち込まれたというが、一切耳をかそうとしなかった。だが、年を経るとともに傷心も薄らいだのであろう。大正10年に文学士石田貞一郎に嫁し、一男一女を挙げている。昭和37年7月24日、72歳で他界した。

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コメント

貴重な資料の提供有り難う御座います。
少し計算に疑義を感じました。
大正10年に文学士石田貞一郎に嫁し、一男一女を挙げている。昭和17年7月24日、72歳で他界した。
昭和17(1942)年72歳 逆算で生まれは1870年、大正10(1921)年結婚。
なら51歳で結婚?

他のブログでは明治44(1911)年4月医師黒田貞三郎の長女てる子(22歳)と婚約成立(節32歳)。
(1911-22=)1889生まれとなり、てる子さんは32歳で結婚となる。

本当はどうなのでしょうか。

手元に参考にした資料が見つからず、正確なことがわかりません。あれこれ推測した結果、どうやら、黒田照子の没年を昭和37年を17年と誤記したと思われます。

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