加賀騒動と大槻伝蔵
北陸の加賀藩は加賀、能登、越中にまたがる120万石の大大名。しかしその家格を維持するための出費は増大し、元禄以降、領内の金銀山の不振によりさらに財政は悪化の一途を辿っていた。六代藩主前田吉徳は財政改革のために足軽の三男で御居間坊主にすぎなかった大槻伝蔵(1703-1748)を側近として登用し、経済節減や金融に独自の施策をおこなわせた。保守的な家臣たちの不満は募り、重臣前田直躬らはこれをひどくにくみむ、1745年吉徳の急死後大槻を失脚させた。俗説によれば、伝蔵が、吉徳の愛妾お貞(真如苑)と密通し、お貞を利用し、お貞の子利和を藩主とするため、吉徳と七代藩主宗辰を暗殺したということになっている。しかしながら、これらには虚説が多く、裏付けとなる資料も存在しない。藩主・後室の複雑な勢力争いが絡んで、直躬らが事件をでっちあげたという可能性が高い。
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