グレンジとグレンジャー運動
南北戦争は農民の生活にも大きな変化をあたえた。それまでの農民は自作農が主であり、自給自足的であった。しかし、しだいに農業も商業化するようになった。また都市の発達とヨーロッパ市場の拡大は、アメリカ農業をこれまでの独立自営から、農業機械を買ったり、より広大な耕作地を借りたりする必要がでできた。このような商業的な農業は、南部の綿花やタバコとおなじように、地域に主要農産物を集中させることになった。小麦はミネソタ・ダコタ・カンサス、トウモロコシはイリノイ・カンサス・ネブラスカ・アイオワに集まった。しかし、1870年以降、農産物の生産コストが高まった反面、生産物そのものの価格は下落する傾向をしめした。それは主として、鉄道の普及による生産組織の拡大の結果であった。農民の不満の爆発は、まず鉄道に向けられた。鉄道は、東部の産業資本家が支配していたので、東部の工業製品が西部に運ばれる場合に、荷主に対して鉄道会社がリベートを支払ったり、また荷主に対して無料パスを発行したりしたが、農産物を西部から東部へおくる農民にはなんらの特典もあたえられなかった。また、農民が農産物を貨車輸送するために設けられた穀物積込み倉庫なども、鉄道会社に保管料、積込み料などを支払わねばならなかった。農民のこれらの不満はいろいろな運動となって表明され、とくに鉄道と倉庫業に対しては激しい反抗がおこなわれた。これが組織されたのが、いわゆるグレンジャー運動である。
ワシントンの一官吏であったオリヴァー・ハドソン・ケリー(1826-1913)は1867年に、農民の社会活動を促進するために各農村に農業保護者(パトロンズ・オブ・ハズバンドリー)通称グレンジ(Grang)という支部をつくることを提案した。このグレンジはピクニックや音楽や講義など多彩な文化と社交活動を通じ、男性だけでなく、農村で淋しい生活をしている婦人にもよびかけた。これは理想社会を目指す結社団体であるから、急速に中西部、南部に広がった。これが全国的な組織になって1875年ころには最盛期を迎え、ほとんどの州にグレンジができ、グレンジの数は約2万、会員の数は80万に達した。はじめは政治運動には参加せず、物資の協同購入や販売運動をおこなっていたが、1873年7月4日の大会では、鉄道その他の独占に対して闘争をおこなうことが宣言され、それ以来グレンジャー運動は政治活動をおこなうようになった。グレンジたちは代表を州議会へ送り込み、グレンジ法など州法を制定し、企業への規正をおこなった。これらは、1876年の最高裁による合憲判決、1886年の違憲判決をへて、1887年連邦政府による「州際通商法」の成立をみるが、企業活動に対する政府の規正の最初の試みであった。Granger MOVEMENT,Olive H.Kelly
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