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2016年5月16日 (月)

透谷忌

20090502kitamuratokokufufu    北村透谷(1868-1894)は、明治元年12月29日、没落した小田原士族・北村快蔵の長男として、小田原唐人町に生まれる。最初、政治に志し、民権運動に情熱を燃やしたが、大阪事件に参加しなかったことで挫折を経験する。明治20年7月ころ、三多摩民権青年の指導者の石坂昌孝の長女石坂美那子(1865-1942)と知り合う。石坂は許婚者平野友輔を捨てて、明治21年11月3日、透谷と数寄屋橋教会で結婚する。透谷はその翌年長詩「楚囚之詩」を発表。次いで明治24年劇詩「蓬莱曲」を書き詩人としての新しい出発を始めた。明治25年正式に結婚届を出し、北村美那子となる。だが、精神の自由と民衆の解放を求める透谷の戦いは困難を極め、明治27年5月16日、ついに自宅の庭で縊死を遂げた。時に、満27歳4ヵ月余。

 夫透谷に先立たれた美那子は、明治32年6月、長女英子を義父に預け単身渡米する。苦労しつつインディアナ州のユニオン・クリスティアン・カレッジに学び、のちオハイオ州立ファンアンス・カレッジに入学。明治39年6月卒業。明治40年1月帰国。義母と娘を向かえて東京牛込宮比町に住む。以後、豊島師範学校、品川高等女学校で約6年間英語教師をつとめる。昭和3年1月から透谷の詩の英訳をはじめる。昭和17年、76歳で死没。

  透谷の親友で、美那子の実弟であった石坂公歴(いしざかまさつぐ、186-1944)は、大阪事件で父昌孝が逮捕されるや、アメリカに亡命して「新日本」や「革命」などという新聞を発行し、抵抗をつづける。のち西部の開拓者、アメリカ、カナダ、アラスカを転々と放浪して、昭和19年、日本人強制収容所で波乱の生涯を終えた。

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コメント

北村透谷の生没年がおかしい。
ふつう(1868-1894)

訂正しお詫びします。

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